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ネットワークの臨床社会学


[5]内職論――スカンクワークとしてのネットワーク労働

初出 猪瀬直樹編集メールマガジン「MM日本国の研究――不安との訣別/再生のカルテ」第78号(2001年09月12日発行)


マクドナルド化とスカンクワーク

 最近いささかショックを受けた本にエリック・シュローサー著『ファストフードが世界を食いつくす』(草思社)がある。一見してたんなるエコロジー趣味の外食産業批判のように見えるけれども、基本的には労働のありようを問うところが特徴で、ファーストフードチェーンがグローバルレベルで規格化を徹底的に進めることによって、それにかかわる人たちの労働のありようもまた規格化される、その様子を生々しく描いている。いまどきの労働問題の焦点のひとつはまさにここにあると思わせる内容で、いわゆる労働問題研究者は何をやっているのかと感じてしまった。

 思い起こせば、かつて斉藤茂男が1970年代に『聖家族――おおハッピーライフ!』で描いた「接客業務のマニュアル化」つまり「労働現場としてのマクドナルドの画期性」という着眼をさらに現場取材で問いつめた本とも言える。

 斉藤は、詳細なマニュアル化によって、もっとも低賃金な高校生のアルバイト店員でも調理や接客ができるようにしたところ(つまり人間ロボット化)を批評的に描いていた。それに対してシュローサーは最低賃金労働者としてのファストフード就業者を描くだけでなく、フランチャイズ契約や専属契約でがちがちにしばられた店長や食肉業者や牧場主の仕事のダークサイドを次々に浮き彫りにしていく。

 労働を中心としたこのような再編を理論社会学者のジョージ・リッツァーは「社会のマクドナルド化」(McDonaldization of Sociey)と呼んで、工場的な合理性が社会全体に拡張されていることを警告している。マックス・ウェーバーの指摘した「鉄の檻」つまり「官僚制化」の延長線上に私たちはいるということだ。

 しかし、世の中の仕事のすべてが「マクドナルド化」しているわけではない。がちがちのところもあれば、緩いところもある。リッツァーは理論家らしく、その外側にも目を向けていて、そのひとつとして「スカンクワーク」をあげている。すでに一部のハイテク企業が導入しているという話だが、あえて仕事を整理をしないでおくのである。仕事の重複・職掌の混乱・調整の欠如・内部の競合・混沌状況が当然生じるが、このプロセスで何らかの創造的局面がでてくるのを期待するというわけだ。組織論的には分権化と自律性が特徴である。そして「マクドナルド化」との対比で言えば、おそらく冗長性こそが本質だと思う。冗長性がある種の創造性を引き出すのである。

ネットワーク労働の「内職化」

 こういう文脈で考えれば、私たちにとってすっかり日常となってしまった「ネットワーク労働」こそスカンクワークの資格がありそうだ。ここで私が「ネットワーク労働」と呼ぶのは、何らかの形でインターネットやイントラネットなどを使用したコミュニケーションをふくむような仕事のことである。文字通りネットワークやシステムの管理者の仕事や、物書き・デザイン・研究業務など、クリエイティブ系の仕事は言うまでもないが、そうでない事務仕事においても、そういう人たちとたいして変わらない部分が仕事の中に増えてきている。

 たとえば、業務連絡をメーリングリストなどでおこなっていれば、打ち合わせや問い合わせなどがバンバンくる。仕事でメールを使っていれば、外部の人たちとの交渉は理屈上で24時間いつでも対応可能になるが、問題なのは、そういう役割期待が生じることだ。しかし、電話でコメントするのと異なり、いちいち文章化するというのは時間がかかる。質問はかんたんでも、回答は手間がかかるもの。しかし、そうしたやりとりは「労働」として換算されにくい。まして、業務と直接関係のないやりとりであればなおさらだ。

 システム管理者にしても、ふつうの事務職がそれぞれの職場で「若いからお前やれ」とか「こういうの好きだからできるでしょ」という形で担当しているケースが多い。この人たちの学習コストは膨大であるし、管理者としてユーザーに学習させるコストも膨大である。セキュリティ管理は、もはや片手間にやれることではなくなっていて、ほぼ毎日、そうした情報にアクセスして、こまめにパッチを当てる必要がある。ネット上のサイトや掲示板やメーリングリストをチェックするのは、じつはたいへんなことである。通常業務に加えてこの種の仕事をするとなると、休日は事実上「研修日」と化す。しかし、この学習コストは「労働」として換算されない。

 もちろん、ネットワーク労働は自己裁量の部分が大きいし、自己実現につながる部分を持っている。いわゆる「仕事のおもしろさ」に直結しているのは事実だ。しかし、通常業務の「マクドナルド化」が進んで、仕事の多くが定型化されている分だけ、それ以外の部分が「内職化」するという構図にはまっているのではないだろうか。つまり、ネットワーク労働が、創造的でありうる分だけ習熟が必要でかつ困難な仕事であるにもかかわらず、かえってその部分が労働として評価されずに「内職」に位置付けられているという皮肉な事態があちらこちらで生じている。しかし、人がアンペイドワークに耐えられるのは、せいぜい数年である。

 セクターにあたる人がしっかりしていればいいが、たいていの場合、中堅幹部はネットワーク労働をやったことがないので正しく理解できていないようだ。しかし、そろそろ、たんに残業として評価するのではない評価の仕方が必要だと思う。仕事の評価をオフィスの滞在時間に換算できる時代は終わっている。

労働の作品化と組織の創造性

 それどころか、最近の企業は、組織のネットワークで遊んでいる社員の「内職」の摘発に躍起だ。「電子メールが能率を下げている」とか「仕事中にアダルトサイトを見ていた社員がクビになった」といった話が聞こえてくる。接続サイトを制限するのはもはや常識で、なかにはメール盗聴の実行に踏み切った企業もあるという。こうしてネットワーク社会は、いともかんたんに監視社会に反転する。「好きでやっている」という言説ですませてしまうような、ネットワーク労働の組織的意味・人間的意味を理解できない上司が問題なのはここなのだ。「そうじゃなくて、仕事でやってるんだよ」といった有能な社員の反感には、ネットワーク社会における労働のありようの変質という現実的根拠があることに気づかなければならない。

 橋爪大三郎氏は『幸福のつくりかた』という本の中で「労働の作品化」こそが「社会を元気にする表現戦略」であると述べている。それが、組織と個人の二律背反を克服する一つの筋道であるという。ネットワーク労働は、コミュニケーションにかかわるだけに「作品化」の重要な係留点になりうるはずである。これを冗長なノイズと見なして「内職視」すれば、いつまでたっても「ポテトはいかがですか」しか言えない羊の群になってしまうのではないか。生き残りのきびしいこの時代、組織を管理する人がおそれなければならないのは、むしろこちらであろう。


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