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ネットワークの臨床社会学


[3]苗床論――インフォテックではなくインフォアーツ

初出 猪瀬直樹編集メールマガジン「MM日本国の研究――不安との訣別/再生のカルテ」第48号(2001年06月27日発行)


 ある特定の文化事象が一過性のものから継続性・蓄積性のあるものに移行する瞬間は、「それ」が再生産され始めたときである。つまり、教師たちが生徒たちに「それ」を教え始めるとき、人びとを魅了した文化現象は新鮮味を失い、既定性を帯びた常識になる。ベンヤミンが「アウラの喪失」と呼び、ウェーバーが「カリスマの日常化」と呼んだ、あの興ざめの時間に似て、集合的沸騰の記憶もやがて陳腐な伝説になってしまうであろう長い時系列が、インターネット文化にも訪れようとしている。

 2002年は日本にとって本格的な情報教育元年となる。高校「情報科」も2003年から始まる。このまま行けば、日本語圏においてインターネット文化はこの年から再生産モードに入り、それとともに大きく変質するにちがいない。それが新しい躍動的なネットワーク社会への扉になるのか、それとも、退屈に停滞する管理社会への扉になるのか、今はわからない。

情報教育は理科教育か?

 2003年の高校「情報科」導入に備えて現役教員の研修が本格的に始まっている。数学や理科の教員に「情報科」の免許をとらせるためである。すでに一部の大学では「情報教職課程」が設置され、頭打ちになった教職免許市場における救世主的存在として各大学から注目を浴びているところだ。準備は着々と進んでいる。

 では、じっさいにどのような教育がこれから始まるのか。多くの方はご存じないと思われるので、かんたんに紹介しておこう。

 手元に現役教員の研修用テキストのコピーがある(情報コミュニケーション教育研究会編著『先生のための教科「情報」マニュアル』日本文教出版、2000年7月、ISBNなし)。約一万部が配布されたという、情報教諭速成マニュアルである。全体は15章にわかれている。主要項目を付して、ざっとリストアップしておこう。

 1 情報科教育法(指導計画・実習などの考え方)
 2 職業指導概論(人材像と就職指導)
 3 情報化と社会(情報化の歴史、産業界の情報化、著作権、情報倫理)
 4 コンピュータ概論(ハードウェアとソフトウェア、データ通信)
 5 情報活用の基礎(コンピュータを介したコミュニケーション)
 6 情報発信の基礎(プレゼンテーション)
 7 アルゴリズムの基礎(アルゴリズムとは何か)
 8 情報システムの概要(情報処理システムの技術)
 9 モデル化とシミュレーション(モデルの効用、数理的解決)
 10 情報検索とデータベースの概要(データベースの仕組み)
 11 ネットワークの基礎(ネットワークの設計運用管理)
 12 コンピュータデザインの基礎(知覚における見え、造形の数学的基礎)
 13 図形と画像処理(2次元図形と3次元図形、画像変換)
 14 マルチメディアの基礎(作品制作)
 15 総合実習(CG作成アプリケーションの利用)

 当初のふれこみでは理系・文系の枠をこえた新しいカリキュラムとして「情報科」が構想されていたはずだが――そして、このテキストにおいても随所でそのような配慮が指摘されているのではあるが――それにもかかわらず、じっさいの構成としては、一目瞭然、これは市場拡大を指向した理科教育のヴァージョンアップ版である。

情報処理教育への収束

 物理や化学が完全に生徒たちからそっぽを向かれ、高校での科目選択制によって、基礎的な科目を高校時代に修めないまま理系学部に入学する時代である。私自身、長年、理工系学部で教えてきたので、理工系教員の嘆きが年々深刻化するのを見てきた。高校までの理数系教育はかなり危機的であると言えるだろう。今回の「情報科」設置は、インターネットを追い風にした、その起死回生策として期待されているのではないか。これが「情報科」のプログラムを見ての最初の感想である。

 要するに、私たちは、学校での情報教育が、インターネットの驚異的展開によって再編されつつあるネットワーク社会を生き抜くための知識と知恵を教育してくれるものと信じているが、じっさいは必ずしもそうではないということだ。インターネットとその文化は「おいしい話」として掲げられるだけで、学習内容の大半は情報工学ないし情報科学の伝統的な思想に基づいた技術的基礎知識が占めている。

 じつは、最新の情報科学そのものは最近の傾向を反映して文化的に拡張されつつあって、そうしたものを「情報学」と呼ぶようになっているけれども、現在進められている「情報科」のカリキュラムは、この新しい「情報学」というより、むしろ純正(?)コンピュータ・サイエンスが主張を強めたかっこうになっている。まるで時間がインターネット以前に逆戻りしたかのようである。

ないないづくしの情報教育

 そのため、時代錯誤なところがいっぱいあるし、すぐにでも市民的実践力となりうるような情報関連能力の開発について熱意めいたものがきれいに脱色されている。

 たとえば、私たちがインターネット文化との出会いにおいて心を動かされた、あのオープン・マインドがない。あるのは内に閉ざすセキュリティの話ばかりである。「コンテンツの時代」と言われて久しいのに、情報機器という「入れ物」の話はあるが、具体的に中身(コンテンツ)を検討する話がない。だれもが発信できるメディアとして画期的と言いながら、基礎的ツールとしてのエディタの話やHTMLの話が手薄である。もっぱら(高価な)アプリケーション依存型のユーザーを育てたいようだ。シェアウェアやフリーウェアの紹介もない。また、そうしたツールの背景にあるインターネットの文化的側面について理解させる意欲が希薄である。当然、W3Cの役割やRFCの思想的意味(ガバナンス原理)などについても言及されない。そもそも現在の情報環境を歴史的産物としてメディア史的に理解しようとする視点がない。技術中心主義まるだしである。

 さまざまな人びとの出会いと交渉の文脈で立体的に「情報」を捉えるとすれば、ユニバーサル・デザインの意義をはじめとする情報支援的技術をもっと強調してよいはずであるが、さらっとしたものである。多様な人たちがさまざまな意図によって発信しているコンテンツに対する批判的読みのトレーニングについても、まったくする気がない。そもそもケータイ系端末とのつきあい方への言及がない。また、じっさいに発信者となったときに、どのようにふるまうのが適切なのか、その表現技法(実用文の書き方や国語的側面)の手ほどきをする気がない。これでは交通規則を知らないメカ好きの暴走車を大量に送り込むようなものである。

 要するに、およそ「インターネット的なるもの」が排除されているのである。それは「イントラネット的」というか、それ以前の古式ゆかしい工学的「情報システム」指向そのものである。こんなものを今ごろ高校教育でやってどうするのだろうか。

だれが「情報」の専門家なのか

 「学校教育とはそんなものだ」とシニカルに構えるのはかんたんだ。「情報科なのになぜ?」と考えるのは甘い。そもそも目指されているのは「インターネット文化の再生産」ではないのだろう。あくまでも「情報技術ユーザーおよび従事者の再生産」なのである。当初の意図とは裏腹に、結果的効果としてこうなってしまっている。

 言論の自由、情報の自由な流通、コミュニケーションの相互性、プライバシーと人権の尊重といった民主的社会の基本理念を前提として「情報」とのつきあい方を学習させるといった程度のことができないのは、要するに、依頼すべき専門家がまちがっているのだ。実務担当になった情報処理の専門家は「情報」のごくごく一側面についての専門家にすぎないのであって、より広く情報学の専門家やメディア研究者の知恵を集結すべきだと思う。

 ついでに付け加えると、これだけ「心の教育」などというものが叫ばれているのに、なぜ情報科は「心なき教育」で済ませてしまえるのか、そんなものなら「心の教育」なんて言わないでほしいものだ。「人間関係なき情報教育」「社会なき情報教育」「文化なき情報教育」はサイバースペースを混乱させるだけだろう。むろん、「心」は環境の産物なのだから「心の教育」である必要はないと思うが、もっと現実環境と向き合う形の教育をするべきではないか。ともあれ、オウム事件の教訓はまったく生かされていない。

凡庸なこと

 ひょっとすると、このようなネットワーク論の凡庸さに辟易している方がおられるかもしれない。私自身が今さらこのような凡庸な言説を言わなければならないことに辟易しているほどだ。しかし、すぐれて凡庸なことが目先の技術的な新奇性によって見失われていると思うことが多いのだから仕方ない。

 凡庸なこと。ネットワークは人と人とが出会う場所である。そこでは何でも起こる。それは「社会」であり「世間」であり「悪場所」であり「公共圏」である。ケータイ系端末ですでに多くの若者が混乱しているように、サイバースペースにおいてどのようにふるまうのが適切なのかを考えることが決定的に重要である。

 凡庸なこと。「情報」の背後には、さまざまな意図がからみついている。したがって、すべての情報はしかるべき理由があって自分の手元に届いているということ。ネットワーク上のコンテンツに対する批判的リテラシーが重要なのはこのためだ。

 凡庸なこと。人はサイバースペースでのふるまい方から「社会」や「文化」を学ぶことができるということ。サイバースペースで生じることは仮想された「夢の世界」ではない。そこでは人は豊かにもなれるし傷つけられもする。問題はそこで何を学ぶかだ。

 このような凡庸な事実をふまえるならば、「模範的なネットワーク市民を育てる」という理念をもたないような情報教育は、ほとんど意味がないとさえ言える。これから始まろうとしている情報教育は、教育を錦の御旗に仕立てた情報産業振興策であり、もちろん産業振興策にはそれなりの意味があるが、それ以上ではない。ネットワーク社会に対する一定の洗練された理念を明確に打ち出すべきだと思う。そして、それをカリキュラムの隅々にまで浸透させることだ。もちろん反発はあっていい。しかし「模範的」であることが、それなりの落としどころであることをあらかじめ知っていて損はない。

ネットワーク市民の苗床集団としての学校

 理念的側面が弱い現状は、情報技術の技術的専門家が動員されてきたことに由来するわけだが、しかし、それをじっさいに担う教師や教員養成に携わる人たちの「運用」の仕方しだいでは、それなりに意味のあるものにしていくこともまだまだできるだろう。「情報教育とは、そんなもの」と決めつけて撤退する必要はない。

 「模範的なネットワーク市民を育てる」つもりがあるのであれば、ネットワーク社会にとって学校がもつ稀少性に注目して情報教育を組み立てることを考えたい。そこに「情報の専門家」と大人たちの知恵をそそぐことを考えてほしい。

 では、学校がもつ稀少性とは何だろうか。

 私は、学校が「苗床集団」の役割を担いうる数少ない既存組織であることに注目したい。ネットワーク社会の将来を構想するとき、学校にはネットワーク市民の苗床集団として大きな可能性があると思う。それはこういうことだ。

 出会いサイトにせよ、趣味のメーリングリストにせよ、掲示板にせよ、ウェッブ公開にせよ、ユーザーは必ず他者とのコミュニケーションをすることになる。日常世界では慣れない他者とのコミュニケーションを子どもたちはひとりの個人として遂行する。それは「個人化」のプロセスにとって一定の効果を生むはずだ。多くの大人たちが経験しているように、ネットワークにはまればはまるだけ鍛えられる。

 しかし、現状ではその鍛えられることがダークサイドに向かっていってしまっている。たしかに「ネットずれ」した若者はいる。しかし、ほっておくと、恫喝や茶化し・いやがらせなど姑息なコミュニケーション技術ばかりを学び取り、その場その場の「勝者」側に立つことばかりを志向する。どうしてそうなるのかは分析が必要だが、若者がネット上で集まる場所がだいたい決まっていることに由来するのだと思う。もったいないことだ。もちろん、そういう傾向についてゆけない若者も多いようだが、だからと言って積極的に何かをなそうとはしないし、そもそもどうしていいかわからないのが実態のようだ。

 もしそのそばに「情報通」の先輩や教師がいれば、リスクの大きな回り道を多少なりとも減らすことができるだろう。ネットワーク上でどのようにふるまうのが適切かを客観的に考えることもできる。情報教育はその役割をまず果たしてこそ意味があるのではないか。

 要するに、注目すべきなのは、パソコンの中やネットワークの向こう側ではなく、端末のこちら側の人間模様なのである。なぜなら、外部に対して働きかけるときこそ、内部においてコミュニケーションが作動し、アドホックな対話的コミュニティが現出するものだからである。ネットワーク活用の場面において、そうしたコミュニティを学校の中にいかにしてつくるかがたいせつだ。情報科マニュアルでは、そのノウハウがまるで記されていないし、そもそもとんと関心がないようだ。

 学校嫌いの私が言うのもなんだが、これは学校が対話の場として再生するチャンスにもなるはずだ。そのチャンスを生かさないともったいない。

 いずれにせよ、加速するネットワーク社会を生き抜くための知識として、従来「教養」と呼ばれてきたものが大きく変わらざるをえないことはまちがいない。このような情報能力を私は「インフォアーツ」と呼んでいるが、今大人たちが取り組むべきは「IT」(こちらは「インフォテック」!)に受動的に適応する能力開発の教育ではなく、無数のコミュニケーションの錯綜するネットワーク社会において、自律的に発言し行動できる個人を支援し育てること、そしてその苗床となる集団の力をどう紡いでいくかではないだろうか。

関連文献

 野村一夫「インフォテック対インフォアーツ――インターネット関連言説における構図転換のための試論」『生活協同組合研究』2001年6月号。

 野村一夫「近未来インターネットの人間的条件」『教育と医学』2001年7月号(近刊)。



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