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宗教報道の社会学


[5]民俗宗教としての健康主義――マスコミが主宰する身体管理“信仰”

初出 『聖教新聞』2000年6月27日付


 いわゆる教団批判だけが宗教報道ではない。マス・メディアの宗教へのまなざしは、さまざまな形式を取って私たちのまなざしと共振しているのであって、ダブル・スタンダード(二重基準)はそのひとつの形式と考えるべきだろう。

 その点について今回さらに指摘しておきたいのは、マス・メディア自体が無自覚のうちに、ある種の宗教的世界を構築しているのではないかということである。超能力ブームやオカルトブームのことを言っているのではない。それはもっと、身近に生じていることだ。

健康法を語るメディア

 昨今の健康ブームの中でマス・メディアがじつに大量の健康法を語り続けている。健康法とは、つまり生老病死のあれこれに抵抗するための身体管理の技法である。身体に対していかに配慮していくかという予防的措置が主であるが、そういうものにメジャーなマス・メディアが膨大な時間と誌面を割(さ)いて啓蒙しているという現実がある。これは考えてみれば異常なことである。

 たとえば人参を食べているのではなくカロチンを食べている、ワインを楽しむのではなく、そのワインにあるポリフェノールを飲んでいる、だからカラダにいいのだという栄養学的言説はその典型である。科学的装いを施してあるにもかかわらず、その実体はカロチンやポリフェノールという見えない健康神への信仰のすすめである。

 このような健康主義的言説としては、伝統的食生活や東洋医学を新しい医学的権威として生活全体を再設計しようとする伝統主義的言説を初めとして、薬漬け医療を忌避して無添加・天然・無農薬・低農薬を無条件に歓迎する減算主義的言説や、「これを飲めばなんでも効きますよ」というお手軽な万病解決言説、そして「生活習慣病」という政治的な命名にかこつけて、病気になるのがあたかも自己責任であるかのように非難する道徳的言説など、その語り口はじつに多様である。

 しかし、その多様性にもかかわらず、本質はひとつであると言える。これは宗教学において民俗宗教と呼ばれていたもの、すなわちフォーク・レリジョンそのものではないだろうか。民俗宗教が安産の神様や長寿の神様などを用意して身体への配慮を促し具体的救済方法を提示してきたように、宗教くささを完全に脱色した形で、新しい民俗宗教が、今度はマス・メディアによって総掛かりでつくられていると見ることができるのではないだろうか。

アメリカのニューエイジ

 じつは同様の現象はすでにアメリカで生じている。癒しを重要視し、もっぱら自然治癒力を尊重し、精神・霊・魂をふくめた全人的な医療を肯定的にとらえるニューエイジ系の運動がそれである。一見おだやかな人間主義への回帰に見えるが、これらの周辺には触手療法や水晶療法など、きわめて呪術色の強い治療法がとりまいている。

 七〇年代以降、これらが中流階層や知識人に支持され、非人間的かつ過剰な近代医療を批判する文脈において有力な代替案として肯定的にメディア上で紹介されるようになった。昨今はファッショナブルに語られるハーブ療法も、もとをたどればこうした民俗宗教的な治療行為に淵源を持っているのである(フラー『オルタナティブ・メディスン』)。

 もちろん近代医療で解決できない身体トラブルは山のようにある。かつては新宗教がこうした問題について代替医療の役割を演じたこともあった。しかし現在では、それはマス・メディアの主宰する健康主義がその役割を引き受けているかのようである。それを宗教として見せないのは、まさにマス・メディアのもつ宗教へのまなざしの狭さそれ自体なのである。

現世教としてのメディア

 ジャーナリズム論研究者の村上直之氏は、〈いま、ここ〉という時制に執着させる制度として近代ジャーナリズムを捉え、それが「現世教」と呼んでよいほど宗教的儀礼機能を果たしていると指摘されている。「メディアは現代の司祭である」という言い方は、単なるメタファーや比喩ではないと。健康主義をそのひとつの現象形態と考えると、疑似医療行為に走る教団への容赦ない批判報道などは、そのままマス・メディア自体に適用されてよいのである。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 1/21(Tue), 2003  
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