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宗教報道の社会学


[1]二重基準を保守するマスコミの問題性――ウチとソトを区別するメディアの共同体意識

初出 『聖教新聞』2000年2月22日付


 報道は中立であるべきだという。宗教報道に関してもしかり。メディアは中立的な報道として宗教を語る。しかし、それはほんとうに中立といえるのだろうか。

「中立」とは多数派の立場か

 そもそも宗教を論じること自体が難しい。論じる主体を自己言及的に問うことになりがちだからだ。つまり、信じるか信じないかで立論が分かれてしまうのである。だから「中立」というのも、じつは多数派の立場であることが多い。

 たとえば、一九九九年に「ライフスペース」と名乗る集団の遺体放置事件が問題になって「定説」のいかがわしさが報じられたとき、日本のメディアはこぞってそれを非難した。記者会見でも「現代医学の正当性をあなたたちは認めないのか」と記者が自信たっぷりに問いつめた。

 しかし逆に次のように問い直すことも可能である。「それほど現代医学というのは絶対的なものなのか」と。じっさい医療社会学や医療人類学の分野では、生物医学(biomedicine)に基づく現代医学がいかに慣習の集合体であり、専門家集団の自己保持そのものを自己目的とする活動であるかということが指摘されている。現代医学の正当性は一つの信仰ともいうべきものであって、「いいかげんだ」と指摘される非正当的な民間医療などと本質的には同格の医療システムである。つまり「何が問題なのか」は必ずしも自明ではないのだ。

 それを自明なものとして提示するという作業は、客観的に事実を伝える行為というより、むしろ社会の中で何がウチで何がソトなのかを線引きする行為なのである。

 テレビのローカル・ニュースでおなじみのように、一方で「古式ゆかしい伝統行事」として伝統宗教の祈祷(きとう)行事や民俗宗教を持ち上げ、超能力や霊能者を紹介し、民間療法を積極的に奨励するマス・メディアが、他方で「現代医療を無視する団体」を犯罪集団として糾弾する。つまり、同じようなことをしていても、それが好意的に取り上げられる場合と、犯罪的要件として非難される場合があるということである。

“首尾一貫している”日本の現状

 このような現象を「ダブル・スタンダード」(二重基準)という。ダブル・スタンダードとは、共同体のウチに適用する道徳基準とソトに適用する道徳基準を使い分けることである。これについては、古くはマックス・ウェーバーが「対内道徳と対外道徳の二元主義」と呼んで考察しているように、社会学ではさまざまに議論されてきた。

 たとえばロバート・K・マートンは次のように指摘する。「リンカーンが夜遅くまで働いたことは、彼が勤勉で、不屈の意志をもち、忍耐心に富み、一生懸命に自己の能力を発揮しようとした事実を証明するものだとされる。ところが外集団のユダヤ人や日本人が同じ時刻まで夜働くと、それは彼らのがむしゃら根性を物語るものであり、また彼らがアメリカ的水準を容赦なく切りくずし、不公正なやり方で競争している証左だとされるだけである」(マートン「予言の自己成就」森東吾ほか訳)

 ここでマートンが指摘しているのは、ある一つの特性が、ある集団では美徳とみなされ、ある集団では悪徳とみなされる、という奇妙な事実である。逆に言うと、ある集団は「『すればするで非難され』、『しなければしないで非難される』」(前掲)のである。

 このように宗教報道は中立ではなく二重基準を保守していると考えれば、日本の宗教報道は、右であれ左であれ、高級であれ低級であれ、むしろ首尾一貫しているとも言える。だから宗教報道で問われなければならないのは、ウチとソトの区別を左右するメディア関係者の共同体意識の方なのである。どこまでが「われわれ」で、どこからが「かれら」なのか、その境界線を見定めたい。

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SOCIUS.JPドメインへの初出 1/21(Tue), 2003  
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