Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫
 http://socius.jp 

現在地 ソキウス(トップ)>ダブル・スタンダードの理論のために

ダブル・スタンダードの理論のために


目次

初出 野村一夫「ダブル・スタンダードの理論のために」『法政大学教養部紀要』第98号社会科学編、1996年2月、(1)-(30)ページの全文。ただし、印刷のために圧縮したものを元に戻した解凍版(Expanded Edition)になっています。


[1]ダブル・スタンダードという問い
[2]権力作用としてのダブル・スタンダード
[3]知識過程としてのダブル・スタンダード
[4]ディスコミュニケーションとしてのダブル・スタンダード
[注]

[1]ダブル・スタンダードという問い


「排除されていない者は包括されている」(ゲオルク・ジンメル)1

内集団の美徳と外集団の悪徳

 ロバート・K・マートンは「予言の自己成就」という著名な論文の中で次のように述べている。「リンカーンが夜遅くまで働いたことは、彼が勤勉で、不屈の意志をもち、忍耐心に富み、一生懸命に自己の能力を発揮しようとした事実を証明するものだとされる。ところが外集団のユダヤ人や日本人が同じ時刻まで夜働くと、それは彼らのがむしゃら根性を物語るものであり、また彼らがアメリカ的水準を容赦なく切りくずし、不公正なやり方で競争している証左だとされるだけである。」2

 あるひとつの特性が、ある集団では美徳とみなされ、ある集団では悪徳とみなされる。マートンはこれをドナルド・ヤングにならって「内集団の美徳と外集団の悪徳」と呼んだ。「『すればするで非難され』、『しなければしないで非難される』過程」3「何をなそうとそれとはかかわりなしに、徹頭徹尾非難される」4事態が、さまざまな民族的・人種的関係において存在すると指摘し、その社会学的分析に乗りだすのである。

 また、これと似たものに、同じひとつの社会規範が、ある集団には厳密に適用され、異なる集団にはまったく適用されないという現象がある。あるいは、ひとつの社会規範が、ある集団には柔軟に運用されるのに、異なる集団には厳密に運用されるという現象がある。古くはマックス・ウェーバーが「対内道徳と対外道徳の二元論」と呼んだものがそれである。

 ウェーバーは、いわゆる「中間考察」のなかで宗教的共同体がふたつの基本的原則をもつことを指摘している。第一に「対内道徳と対外道徳の二元論」である。第二に「対内道徳にとっては『私はお前にたいしてお前が私にするように」という単純な互恵主義[Reziprozitat]』」である。これは宗教的共同体の場合でさえ、「村落、血族、ツンフト、航海、狩猟、軍隊仲間など、社会倫理的な態度の原生的な諸原則を単純にうけついだだけのものだった」とウェーバーはいう。5

 すなわち、経済的には、対内道徳として友愛的な援助・義務の原理がある。使用料を免除したり、無利子で貸付けたり、貧者を援助したりすることが、当然の義務とされる。ところが対外的にはこれはあてはまらない。宗教的共同体も、結局、この古来の隣人道徳を信徒仲間の関係へ移しかえただけであるというのがウェーバーの評価である。このようにウェーバーは「対内道徳と対外道徳の二元論」をあらゆる共同体に普遍的な傾向とみなし、宗教的共同体もその例外でないことを確認しているわけである。

 わたしは、マートンやウェーバーが指摘するこのような現象を総括的に表象する概念として「ダブル・スタンダード」(double standard)をあてたいと思う。「内集団の美徳と外集団の悪徳」や「対内道徳と対外道徳の二元論」でもよいが、「ダブル・スタンダード」の方が簡潔でわかりやすいと考えるからである。本稿では、この「ダブル・スタンダード」という現象に対して社会学的反省を加え、この現象に対する社会学的感受性を高める道を探ろうと思う。

フェミニズム論の問題提起

 日本においてダブル・スタンダードの問題が普遍的な問題として最初に提起されたのは、何といってもフェミニズム論においでである。フェミニズム論では、男性に適用される道徳基準が女性には逆に作用するという社会的現実がしばしば指摘されてきた。

 その古典的なものが「性規範のダブル・スタンダード」である。つまり、男性に対しては未婚であろうと既婚であろうと、ある程度の性体験の豊富さが許容され、ときには推奨さえされるのに、女性の場合は性体験の豊富さは逆にかなり否定的に見られるということである。つまり、性行為に対する道徳基準が男性と女性とでまったく逆になることになる。

 あるいは企業社会において、若い男性社員にとって結婚は「一人前の企業戦士」になることを意味するが、女性社員の結婚はしばしば企業社会からの離脱を意味する。結婚し子育てをしながら職場にとどまることは「居座り」と見なされ、退職勧奨の対象となってしまうことも少なくない。祝福は結婚退職の場合だけである。

 性や結婚に対するこのダブル・スタンダードの「客観的な」理論的根拠を提示するのは困難である。「理由」が存在しないわけではないが、それらはあくまで「自分はそう思う」か「みんなそう思っているにちがいない」といった程度のものにすぎない。その程度のものがまかり通ってきた、そういう意味で日本社会は「男性社会」なのである。  しかし、ジェンダーのダブル・スタンダードは、たんに一般的なものではなく、その個別的現象形態にこそ悲劇性が顕在化する。わたしたちはその典型例を性暴力やセクシュアル・ハラスメントに見ることができる。

 性暴力事件やセクシュアル・ハラスメント訴訟の経過を観察するとき、わたしたちはそれが男性被害者の場合とまったく異なる経緯をたどることを知っている。たとえば、一九八九年に発覚した「女子高生コンクリート詰め殺人事件」において、四〇日間の監禁と度重なる集団的な性暴力と死にいたる暴行を受けた被害者は、実名と顔写真を報道されつづけ、しかも、あたかも彼女自身に過失があるかのようにさえ論じられた。6

 この事件のようにきわめて異常な犯行でさえそうなのであるから、「一般の」性暴力事件の場合はなおさらというべきであり、その場合、被害者の女性は「性規範のダブル・スタンダード」の網に完全に捕らえられてしまう。もちろんこの場合の「一般の」とは「じつに数多くの」という意味である。悪質なレイプ事件であるにもかかわらず無罪判決が出た事例を挙げて、スーザン・グリフィンは次のように述べている。「性の二重基準によれば、貞節を欠いた女性がレイプされることはありえない。レイプとは肉体に対する攻撃であるばかりか、男によって定義された『貞節』を汚す行為でもあるからだ」と。7 このため、もっぱら白人男性によって担われている警察や裁判所は、レイプが生じたのは女性被害者自身に挑発や落ち度があったためだという解釈をとる傾向がある。8 その結果、被害者は加害者の犯行を証明する過程において、いわゆるセカンド・インジュアリー(もしくはセカンド・レイプ)を受けるはめになるのである。

 日常的なセクシュアル・ハラスメントの場合も、同様に女性被害者を(男性加害者を、ではなく)ジレンマに取り込む。女性被害者にとっては深刻な「セクシュアル・ハラスメント」として定義される行為であっても、それを抗議する(最終的には訴訟にいたる)者には、「たんなる別れ話のもつれ」ではないか、あるいは女性側の「被害妄想」や「自意識過剰」ではないかとの疑惑がたえずかけられる。この解釈変更要求への圧力は強力である。たとえ職場の上司が雇用や昇進を理由にして脅迫的にセクシュアル・ハラスメントにおよんだとしても、そのさい女性被害者がその場で命をかけての抵抗をしていないと見なされると、即座にそれが「納得づく」の行為と解釈されてしまう。9 この解釈変更圧力によると、被害者が被害者と社会的認定を受けないばかりか、加害者男性こそ「被害者」であるとの解釈さえ生じるわけである。抗議することさえ正当なものと認められないという、当事者にとってはまことに不条理な事態がここに生じる。性規範のダブル・スタンダードとは、じつにこのような状況の定義を供給するものなのである。

脱領域的な問いへ

 現在までの日本社会学においては、ダブル・スタンダードについての社会学的議論はほとんどジェンダーの問題に限定されている。もちろん差別現象についての考察の中で実質的に議論されているということはあるにせよ、フェミニズム論以外の領域においてダブル・スタンダードそのものが主題になったことはほとんどない。それは『社会学評論』における日本社会学会会員の業績一覧を見ても、おもだった社会学事典を見ても、あきらかである。その意味で、ダブル・スタンダードの理論に対するフェミニズム論の貢献はきわめて大きい。

 ところで、昨今、フェミニズム論は一時の盛りを過ぎ沈滞しているといわれる。「最近のフェミニズムは元気がない」というものいいがそれである。しかし、わたしはそうは考えない。むしろこれはフェミニズム論が社会に対して一定の成果をあげたということであり、それゆえジェンダーという問題領域をこえた地点──脱領域の地点──にまでたどりついたということではないだろうか。差別研究は、差別の個別性の次元だけではなく、脱領域的な地点で差別現象の共通特性もしくは構造原理に踏み込んでいく段階にあるとわたしは考える。「フェミニズムの社会理論」「差別の社会理論」とは、そのような段階にあてられる研究課題ではないだろうか。わたしが差別現象の構造原理として「ダブル・スタンダード」(double standard)に注目して社会理論的考察を始めたいと思うのはそういう理由からである。

 さて、ダブル・スタンダードとは、内集団と外集団とで倫理基準を使い分けることである。つまり、〈ウチ〉の人間には寛容で温情的な規則を適用するが、〈ソト〉の人間には非寛容的でドライな規則を適用するといった現象である。

 この概念は一般に「二重基準」と訳され、すでにふれたようにフェミニズム論においてしばしば使用されてきた。しかし、フェミニズム論の問題関心では当然その使い方は限定的であり、それゆえあまり説明する必要のない概念として使用されてきたように思う。しかし、なぜそれが正当性をもつのか、どのようにしてそれが可能なのか、いかにしてそれを克服することができるのかといったことは、個別的な問いとして分析しきれることではなく、普遍的な問いとして──つまり脱領域的な問いとして──追求されるべき問題である。もちろんこれはたいへん困難な作業になる。私見ではこれがフェミニズム論の突き当たっている壁であり、ここがまさに、現在、フェミニズム研究者が懸命に取り組んでいる局面であるように見える。10

 わたしたちの生きる社会状況を省みると、さまざまな差別の現実がある。そして、差別現象に対して抗議する人びとが社会運動を形成する。しかし、その運動は遅かれ早かれひとつの壁に突き当たることになる。それは、差別が当該社会において何らかの「正当性」をもつという「いまいましい事実」である。差別されている当事者が声をあげることさえ、必ずしも理にかなった行為と見なされないのは、差別が「正当性」をもつからである。したがって、その「正当性」の内実を問うという理論的な作業が運動を進める上で必要になってくる。つまり、運動は運動だけで完結することはなく、必然的に理論的な反省をともなうのである。しかし、その反省はしばしば感情的な要因によって不徹底なものになりがちである。むしろ徹底的に理論的に突き詰めてみることが、結果的には運動の孤立化や独善化を防止し、社会全体へ貢献する実り豊かなものになるのではないか。不公正な現実を理論科学として正面から分析しているのはほとんど社会学だけである。社会学もしくは社会理論の支援はそこにこそあると思う。そして、その成果がはっきりと表現された代表的な領域がフェミニズム論だったとわたしは考えている。

さまざまなダブル・スタンダード

 ジェンダーだけではない。さまざまなカテゴリーにおいて、あるいはさまざまな社会領域において、ダブル・スタンダードを観察することができるというのが本稿の始発点である。いささか唐突な印象をあたえるおそれがあるかもしれないが、あえてここでさまざまなダブル・スタンダードの事例を列挙して、社会学的感受性の幅を広げておきたい。

 まず、昨今「日本的雇用システムの崩壊」として改めて議論されている、いわゆる「日本的経営」について見てみよう。「日本的経営」は日本ならではの経営形態であり、少なくとも日本においては一般的なものと見なされてきた。しかし、ほんとうにそうだったろうか。「日本的経営」の特徴といわれた終身雇用(正確には長期安定雇用)や年功序列や温情主義的配慮などが該当するのは、大企業であり、正社員であり、男性であった。それに対して中小企業や準社員(パートやアルバイト)や女性は、もっぱらその埒外におかれてきたのが実情である。後者の人びとは一方で「社員一丸となってこの難局を乗り切ろう」とハッパをかけられるけれども、いざ会社の経営状況が悪くなれば真っ先に「調整弁」としてクビを切られてしまったのである。よしんば会社が成長していたとしても昇進は望めず社宅にも入れず、いざ問題が生じても労働組合は守ってはくれない。だれもが経験するこのごくありふれた事実は、企業社会がだれを内集団と見なし、だれを外集団と見なしたかの露骨な証拠である。これは企業社会におけるダブル・スタンダードである。11

 新宗教の歴史もダブル・スタンダードの歴史である。幕末から維新期に発生した新宗教は明治政府の宗教政策のなかで「類似宗教」に位置づけられ、もっぱら取り締まりの対象と見られた。他方、伝統宗教は政治支配システムに組み込まれ温存される。戦後、宗教法人法によって宗教界が一元化されたのちも、この構図は残っていく。伝統宗教は「こころの平安」を約束する伝統文化として尊重されるのに対して、新宗教は社会秩序を乱す非合理的な大衆現象とみなされる。その結果、露骨な就職差別もしばしば存在してきた。しかし、それにもかかわらず、そのことを知識人やマス・メディアは指摘すらしない。ここにもダブル・スタンダードが存在する。12

 暴力もダブル・スタンダードをともないがちである。暴力を否定する善良な人びとも、すでに暴力を犯してしまった人間に対しては因果応報的に暴力行使を認める。もちろん被害者感情がこのように流れるのはやむをえない。しかし、被害者でない多くの人びとも被害者感情に安易に同化してしまう。その極端な例が死刑制度である。殺人というもっとも残酷な暴力が、まさに暴力を否定する善良で公正な人びとの努力によって行使される。これも完全にダブル・スタンダードである。13

 障害者の自立をめぐるダブル・スタンダードもある。たとえば重度障害者は、社会がかれらを支援するシステムを用意していないために、しばしば施設での生活を強いられる。施設は障害者のために社会が用意した数少ない福祉サービスである。ところが、ひとたびそうした福祉施設が用意されると、かれらはそこで生活することを半ば強いられ、管理と隔離の状態を余儀なくされてしまう。そこでは福祉的配慮の名のもとにしばしばプライバシーやプライドが剥奪される。当の障害者が自立生活を志すと、それは「自分をわきまえない反抗」として定義されてしまう。これは、「庇護されるべき存在としての障害者」像に収まっているときは手厚く保護するけれども、そうでないときは「半人前」あつかいするというダブル・スタンダードである。14

 この他にも、税金は平等にとる、しかし政治的権利や福祉的配慮は与えないという、永住在日外国人に対する日本政府のスタンスもダブル・スタンダードの典型である。知的誠実性や真理の尊重を標榜しているアカデミズムが、研究機関外(いわゆる在野)の人物による研究成果に冷淡なのも一種のダブル・スタンダードである。研究者が何らかの形で研究機関に所属しないと始まらないのはそのためである。「丸山ワクチン」が未だに「抗ガン剤として」認可されないのに、それと比較的似ているといわれる「クレスチン」が早々に認可され日本で最大の売り上げを記録するという奇妙な結果をもたらした日本の薬事制度もダブル・スタンダード以外のなにものでもない。15 また、マス・メディアによる報道には数多くのダブル・スタンダードが見られるが、それもこうした社会のありようを反映していると考えたほうがよさそうだ。16

 これらはたんに対応が矛盾しているとか一貫性がないといったレベルでダブル・スタンダードなのではない。かかわる人びとを拘束するひとつの首尾一貫したシステムとしてダブル・スタンダードなのである。すなわち、ダブル・スタンダードはジンメル流にいえば一種の社会学的形式なのであり、そして、ここまでの記述から推測できるように、それはしばしば支配層に対する「無視できない少数派」に対して行使される〈支配の形〉となっている。女性、非西欧人、新宗教、犯罪者、在日外国人、在野の研究者、非主流派……。もちろんこの場合の「少数派」とは人数の多寡ではなく支配的社会構造における占有度をいう。

 本稿の目標は、以上のような社会学的形式を「ダブル・スタンダード」として概念化し、この概念を社会学における有効な分析装置のひとつとして定式化することにある。もちろん本稿ではさしあたりの理論的デッサンを試論として提示するにとどまらざるをえないが、いずれにせよ、せめて糸口だけでも明確にしておきたい。

 ダブル・スタンダードについて社会学的にアプローチするにあたって本稿では三つの局面を重要なものとして注目したいと思う。第一に権力作用としての局面。第二に知識過程としての局面。第三にディスコミュニケーションとしての局面である。第一の局面ではジンメルやフェミニズムの理論を参照しつつ、社会的なるもの=社会的な力としてのダブル・スタンダードの構造的局面について考えたい。第二の局面ではシュッツやマートンを手かがりに「共有知識」や「予言の自己成就」の側面からダブル・スタンダードの生成・増幅過程について考えていきたい。そして第三の局面については反省理論の視点からコミュニケーション論的に考察を加えて、社会学的介入のためのささやかな展望を示したいと思う。

[2]権力作用としてのダブル・スタンダード

集団生活の要素としてのよそ者

 ダブル・スタンダードについての理論的考察を始めるにあたり、わたしはゲオルク・ジンメルから出発しようと思う。

 ジンメルと差別問題との関連は、従来しばしば看過されてきたが、素直にジンメルの著作を読めば、それが非常に本質的なところで結びついていることがわかる。「よそ者」「ユダヤ人」「商人」「貧者」など、かれの議論にはしばしば差別される存在が社会学的意義をもって登場する。もちろんジンメルが差別について考察せざるをえなかったのは、かれがまさに社会学者であったからだけでなく、ユダヤ人としての個人的な被差別経験に負うところが多い。かれが「社会学者であり、かつユダヤ人である」という理由でベルリン大学教授になれなかったのは社会学史上有名な話である。そうした経験がかれの形式社会学に力動性と深い陰影をもたらしている。ここでは、差別現象に対して形式社会学的な分析を試みた代表的な論文である「よそ者についての補説」から見ていくことにしよう。17

 ジンメルの「よそ者」の定義は「放浪者」と対照されてなされる。「放浪者」は「今日訪れ来て明日去り行く」者であるのに対して、「よそ者」は「今日訪れて明日もとどまる」者である。18 つまり、空間的近接と社会関係的遠隔の統一が「よそ者」なのである。人はふつう旅人には親切なものである。しかし、その人物が同じ土地で暮らすとなると態度は「よそ者」あつかいに豹変する。定住によって意識の尖鋭化が生じるわけである。

 注目すべきことは、ジンメルがこのような態度を集団生活にとって普遍的なものだと考えていることである。つまり、よそ者は集団そのものの要素なのである。「よそ者は集団そのものの要素であり、貧者や多様な『内部の敵』──その集団における内在的な部分的な地位が同時に集団の外部と集団の対立を含んでいる要素である──と異なるところはない。」19 ここでかれが「よそ者」として想起しているのは、商人やユダヤ人である。かれらは社会における「定員外の人間」として位置づけられてしまう。「異郷人は彼の非有機的な順応にもかかわらず、それでも集団の有機的な成員であり、集団の統一的な生活は、この要素の特別な制限を含んでいる。」20

 ここでジンメルは、よそ者・貧者・内部の敵をひと括りにしている。ちなみに貧者とは福祉を受ける人びとのことであるから、今のことばでいうと社会的弱者と理解してかまわないだろう。これらのさまざまな人たちをひと括りにするのは、かれらの側の属性ではなく、むしろ集団生活におけるダブル・スタンダードの存在である。つまり、かれらは集団や社会の内部にあって、しかも外的な存在としてあつかわれ、集団や社会の社会的基準の適用外におかれ、そのことによって存在を認知されるのである。

 よそ者は――ここではジンメルによって空間的に定義された狭義の「よそ者」ではなく、それをふくむ広い意味で使いたいのだが――集団の内部に存在する外部である。21 換言すれば、集団内の外集団である。それゆえ、集団内における規範や習慣はよそ者には適用されないということが生じる。しかも、そうすることへの疑問は封じられてしまうのが常である。社会秩序とはそうしたものであり、それは自明な日常生活を生きる人びとの「心の習慣」として沈殿する。

 しかし、ダブル・スタンダードが自明でない人びとも存在する。それは当のよそ者と見なされた人びとである。ジンメルが強調するのはむしろそこである。つまり、ジンメルのよそ者論の社会学的な含蓄は、差別の一般理論にあるというより、むしろかれが「鳥の視座」と呼ぶ客観的態度についての指摘にある。かれは次のように述べている。「よそ者は実践的にも理論的にもより自由な人間であり、彼は状況をより偏見なく見渡し、それをより普遍的より客観的な理想で判定し、したがって行為において習慣や忠誠や先例によって拘束されない」と。22

 なるほど、ダブル・スタンダードによって不利益を受け、それゆえダブル・スタンダードをよく認識しうる立場におかれる人たちは、当該社会におけるよそ者である。この人たちの視点から見ると、ダブル・スタンダードは個人を超えた「社会的なるもの」、動かしがたい自然史的事象として、すなわち「権力作用」として現れる。よそ者の視点とは、自明性におおわれたダブル・スタンダードを「権力作用」として発見する眼でもある。

社会的身体・心の習慣・ハビトゥス

 わたしたちがジンメルから学べることは、ダブル・スタンダードを考えるときには、不公正な立場を強いられている人びとの視点から考察しないと現象およびその本質は見えてこないということである。

 たとえばフェミニズム論がジェンダーにまつわるダブル・スタンダードを再発見し、それを主題化できたのは、差別的待遇を受けてきた当の人びとによってフェミニズム論が担われていたからである。それは従来の男性による男性中心的な社会理論からは問題として発見されてこなかったといってよい。23

 ダブル・スタンダードは、ミシェル・フーコーが「力」(pouvior)と名づけた現象のひとつの形式である。この「力」のことを社会学では「権力作用」と呼び慣わしているので、以後はこちらを使用することにするが、ここでは権力作用について「非対称的関係を再生産する構造化の作用」と定義しておく。24 この構造化の作用は、認識のレベルと知識のレベルと身体のレベルで生じ、その結果、行為のレベルにおいて、この構造原理への自発的服従として供給される。しかし、行為のレベルが前三者を再形成するので、これらは相互に循環の関係にある。いずれにせよ自明性がこれらを貫通している。

 ここでわたしたちは社会的身体の問題に突き当たる。かつてトクヴィルがそう呼び、ベラーらがそれを展開したように、それを「心の習慣」(habits of the heart)と呼んでもよい。「心の習慣」とは「意識と文化と日常的な生活実践とを含むところのモーレス(習律)」である。25 あるいはまた、ピエール・ブルデューの「ハビトゥス」(habitus)をあててもよい。26 ダブル・スタンダードは、行為主体に即していうと「心の習慣」もしくは「ハビトゥス」、行為の志向性でいうと「自発的服従」の一形式である。

 社会認識が幼いと、ダブル・スタンダードによる差別は、国家権力を頂点とする政治権力の「陰謀」であると錯覚しがちである。しかし、ダブル・スタンダードは、明確な意志によって一挙に実現されるものではなく、むしろ複雑な〈社会のトリック〉の結果として、あるいは、わたしたちの〈心の習慣〉の結果として現象するものである。ダブル・スタンダードは何かしらの外的な強制力であるというよりも、わたしたちの知識と行為の内部に宿っていて、しかもわたしたち自身が気づいていない社会的な力なのである。社会的なるもの――それをここでは権力作用と呼ぶ。それゆえ必要なのは、外なる敵と戦うことではなく、内なる味方に対する反省的分析なのである。

 権力作用という概念を使うもうひとつの含意は、それがある種の「正当性」をもって立ち現れるということである。偏見に対するパーソンズの指摘はこのあたりの事情をよく説明している。「(それを抱く)諸個人が(個人的に)スケープゴート集団にたいして注ぐだけでなく、集団的態度という(集合的)現象になること、すなわちある程度まで制度化されることもよくあることである。その場合、集団は偏見を抱いているということで集団自体の成員たちから否認されるどころか、その成員は偏見を抱いていないということのために制裁を受ける。」また、マートンも次のように述べている。「差別(待遇)というものは、差別する側の人びとにとって直接の利益のためだけに維持されるのではなく、差別を正当化する文化的規範によっても支持されている。」27

 そのため差別されている側の人びとにさえも、それを不当と考えない傾向性が生じることも多い。たとえば、江原由美子は従軍慰安婦について論じた論考の中で次のように述べている。「私は、性暴力の被害者にその身を恥じさせ告発を抑制させることは、それ自体許しがたい性暴力であると考える。被害者が被害を受けたことを恥じなければならないように仕組むこの装置は、もっとも陰湿で許しがたい犯罪隠蔽装置である。」28 ここで語られているのは、他者理解のみならず自己理解にさえ性規範のダブル・スタンダードは浸潤するという社会構造的な問題である。いわゆる第二次社会化のケースに見られるような「同化する身体」では不当性の認識すら生じないこともありうるのである。

 もちろん、このような「正当性」は、本来、内集団においてのみ妥当する偏狭な「正当性」であって、ジンメルのいう「鳥の視座」から見れば「不当性」以外の何ものでもない。内集団の「心の習慣」になじめない「異化する身体」に宿る「鳥の視座」は、まったくの内部的視点でもなく、またまったくの外部的視点でもなく、「集団内外部」の視点であるがゆえに、「正当性」が「不当性」として反省的に認識可能なのである。

正当性の内実――集団力学と闘争

 では、なぜこのような「正当性」が可能なのか。それが次の問題である。

 「心の習慣」としてダブル・スタンダードが再生産されるのは、基本的に集団力学的な理由があるからである。たとえば、冒頭でふれたウェーバーの「対内道徳と対外道徳の二元論」も、外集団との関係の中で宗教共同体の内部に生じる集団力学的原則として捉えられていた。ジンメルのよそ者論も、それが「空間と社会の空間的秩序」という章に付せられた補説であることから明らかなように、集団・共同体・社会の空間的秩序の反転的投影として位置づけられている。29

 ダブル・スタンダードは、集団間の境界づけと密接な関係がある。ジンメルはしばしば「額縁」という概念を社会現象に適用させて見せるが、それを借りて結論から述べると、ダブル・スタンダードは内集団を外集団から隔てる社会的な「額縁」なのであり、内集団と外集団とを境界づけるのである。そのあたりのしくみについては、これもまたジンメルに由来する闘争理論の視圏から眺めてみよう。

 さて、これまで本稿では内集団と外集団の区別を自明のものとしてあつかってきた。しかし、両者の境界がどこにあり、どのように決まり、いかにして変化するかについては必ずしも自明ではない。内集団(われわれ)と外集団(かれら)の区別はふつう固定的であると見なされるが、社会学的にはむしろ逆に流動的ではないかと考えられる。ジンメルの形式社会学を闘争理論まで洗練させたルイス・A・コーザーによると、外集団との闘争こそが内集団の境界をあきらかにする。「闘争は、社会や集団の一体性と境界線を設立し維持するのに役立つ。」つまり逆である。30

 集団は――もちろんこの場合の集団概念は小集団から大規模な共同体やある程度の均質性をもつ社会および社会的カテゴリーまでを含む広範な概念として使用されている――最初から集団として統合され、明確な境界をもつわけではない。「外集団との闘争は集団内凝集性を強める」31という有名な命題が指摘しているように、集団は他の集団と闘争することによってその集団自身が何であって何でないかを規定するのである。32

 外集団は、ニューカムのいう「否定的準拠集団」(それに対抗しようと動機づけられる集団)としてそれ自体が内集団の重要な構成要素である。たとえば、フェミニズム的ディスクールに対して感情的な反対意見が根強いのは、それが男性中心的な既存社会・既存集団の安定と統一を危機にさらすからである。なぜ正当性が過剰に主張されるのかといえば、もともと正当性の根拠がないからである。攻撃はじつは必死の防衛行動であり、同時にそれが内集団の自己確認になっている。対外的封鎖の強化と対内的凝集の強化とは相即しており、33自己保存のために主張される正当性とよそ者の排除・分離とはじつは一対のことである。

 こうしてわたしたちは、対外的封鎖と対内的凝集という集団力学的概念としてのダブル・スタンダードの概念にたどり着く。ダブル・スタンダードとは内集団の仕掛けた社会的闘争であるといえよう。それは敵対行動による統合機能を巧妙に組み込んだ日常的な〈境界設定の闘い〉である。

 したがって、ダブル・スタンダードの「正当性」はあくまでも対他的なものであって、それゆえ本質的に内集団にローカルなものである。それは〈ソト〉に対して「たえず主張されるもの」であり、自明の真理として存在するわけではない。ダブル・スタンダードは自生的なものではなく、むしろ対他的な規定・被規定作用すなわち関係的現象なのである。

 この章のはじめにふれた「よそ者」や、ジンメルがよく引き合いに出す「裏切り者」「異端者」といった存在は、内部にある外集団――あるいは「内部の敵」――として、内集団の統合のために不可欠な権力装置として機能するのである。空間的に近接しているが社会的に隔離(分離)されているというかれらの社会的位置は、内部類似性と外部排他性をきわだたせる装置として強力に作用する。

 ダブル・スタンダードは、潜在的な対外的闘争が制度化され身体化された日常的社会形式である。ジンメルは「排除されていない者は包括されている」と述べている。34 闘争的な集団力学的社会空間において、個人は、排除されないかぎり包摂されざるをえないのである。ダブル・スタンダードが、抗いがたい権力作用として存在するのはこのためである。

[3]知識過程としてのダブル・スタンダード

集団間の鏡映効果

 フーコーが「権力と知」(pouvior et savoir)という言い方で指摘し続けたように、権力作用は知識のあり方と緊密に連接している。ダブル・スタンダードについて考察するときにも、この観点は有効である。そこで、次にわたしは前章で集団力学的に捉えたプロセスを「知識過程」として、いわば権力作用を微分するような形で考え直してみたい。35

 考察への糸口をあたえてくれるものとして、わたしが注目したいのは、アルフレッド・シュッツの論文「平等と社会的世界の意味構造」である。かれは、自己・他者・関係・状況などについての類型化とその適切な使用についての知識が社会的に獲得されることによって社会生活が営まれており、それゆえその知識はあくまでも自明なものとして人びとの準拠枠を構成すると考える。類型化とは、直面する実践的問題に関係ない個性的な特徴を無視することである。したがって同一の類型とされたものごとは同質的であり、異なるレリヴァンス領域に属する要素は異質的であるといえる。平等とか不平等というのは同一のレリヴァンス領域においていえることで、レリヴァンス領域が異なるときはいえないとシュッツはいう。36

 ところが、集団や社会の内部においてはレリヴァンス領域自体が上位と下位に配列される。たとえば、ここに成績はいいが人づきあいの悪い子Aと、人づきあいはよいが成績が悪い子Bがいたとする。もし、学校社会においてはAが評価され、地域コミュニティではBが評価されるとしても、それは不平等なことではない。ところが、ある社会(集団)では何事につけ学業上の能力を他人との協調よりも高く位置づける。また、ある社会(集団)では逆に何事につけ他人との協調を高く位置づける。レリヴァンス領域相互の優位劣位が存在し、それは社会や集団によってさまざまである。しかし、さまざまであるといっても、レリヴァンス領域間の上位下位の配列秩序は、それぞれの集団や社会の内部において、それ自体問われることのない生活様式として自明化されている。つまり、内集団においては自明な世界観を形成しているのである。

 では、内集団よって自明化された世界は外側からはどう見えるのか。すでに幾度か指摘してきたように、外側すなわち外集団からはまったく自明性はないし、理解しがたいものに映る。問題はここからである。シュッツは、内集団の自己解釈と、それに対する外集団の解釈とが、相互に反照し合っているという重要な事実を指摘する。37

 第一に、外集団は内集団の自己解釈を基本的に理解しないから、内集団は自分たちが誤解されていると感じやすい。そしてその誤解は外集団側の敵意にみちた偏見やまちがった信念に根ざしていると考える。なぜなら内集団にとっての真理や価値観はあくまでも自明のものであって、疑う余地のない、だれでも理解できることと信じているからである。この「なぜわからないんだ」という疑念は、外からの批判に対して一致団結して抵抗することを通じて、内集団のレリヴァンス領域のシステムを部分的に変化させる。そのとき外集団は憎悪・不快・嫌悪・反感・敵意・恐怖の対象となるのである。

 第二に、この内集団側の変化に対して、外集団側も変化する。つまり、内集団の特性を嫌悪すべきものとして結束を固めることになるのである。その結果、内集団はますます自己解釈に固執し、教育やプロパガンダを通じて外集団の解釈を変えようとしたり、エスノセントリズムを強化したりする。

 こうして集団と集団が相互反照規定する「鏡映効果」が生じる。38 つまり、内集団は外集団をステレオタイプ化して捉えるとともに、外集団が内集団をどう見ているかについてもステレオタイプ化して捉えることになる。これは外集団にあっても同じである。集団間において「相手は自分たちをこう見ているにちがいないから」という実践的推論が一人歩きしていくのである。ここに悪循環が発生する。相互に相手を意識して、相手に対するステレオタイプなイメージをつくりあげ、過剰に反応するという構図がここに確認できる。

 さらにシュッツは興味深いことを述べている。そもそも「集団の成員たることの客観的意味とは、その成員を『彼ら』という言葉で語る部外者の観点からみて集団がもつ意味のことである。客観的な解釈においては、集団という観念は部外者の概念上の構成概念である。」とシュッツは言い切る。39 そして「偏見は、集団の自己解釈が基づく基底的な『中心的神話』の合理化であり制度化である。」40とさえ述べる。

 つまり、内集団と外集団の区別は、本質的に相対的なものなのである。この場合の「相対的」とは、第一に「関係的」であるということであり、第二に「境界設定が流動的」であるということである。「われら」と「かれら」のあいだに引かれる境界の意味論的定義は流動性である。それは、主題となるレリヴァンスによってさまざまに異なる。そもそもレリヴァンスとは類型化の意味論的コードのことである。社会生活はさまざまな類型化によって可能になっていて、その類型化にはさまざまな種類と水準がある。その基軸となるのがレリヴァンスである。あるレリヴァンスにおいて定義された類型にあてはまるものが「われら」であり「ウチ」と定義され、その内部においては同質であると仮定される。つまり、他のレリヴァンスは不問に付されるか、後景に退く(図ではなく地になる)。他方、その類型からはみだすと見られたもの、すなわち類型の残余は「かれら」であり「ソト」と定義され、類型からは異質なものの集合として排除される。この異質性は、外集団において共通の要素としてステレオタイプ化される。つまり異質であることにおいて同質(似たようなもの)と見なされる。すなわち、内集団とは、主題となるレリヴァンス領域において定義された類型に包摂される者の集合であり、外集団はその残余の者たちである。「残余」がなければ「類型」も定義できない。逆にいうと、あるレリヴァンスが主題になるためには「残余」を創出しなければならないのである。

脱個性化=標本化の力

 ここで、何組かの内集団と外集団の組み合わせを考えてみよう。たとえば、専門家集団と素人集団、医療者集団と患者、ウィンドウズ派とマッキントッシュ派。もちろん前者と後者のどちらが「ウチ」であるかは、このさいどうでもよい。専門家は専門的な知識・技術・資格によって素人から区別される。医療者は医療に関する知識・技術・資格によって患者から区別される。しかし、素人の中には専門家と遜色のない知識をもつ人も多い。患者の中にも(自分の病気に関して)たいへん詳しい人がいる。そういう人に対面するとき、専門家や医療者はメンツをつぶされるような実感を感じ、妙に攻撃的になるものである。事情通を嫌う傾向はどこの世界にもある。

 あるいは大学のパソコン同好会を考えてみよう。はじめは、パソコンの使い方を知らない一般学生たち〈に対して〉マニアックなユーザーとして自分たちを定義する。ところがやがて焦点が同好会内部に移ると、今度はウィンドウズ派とマッキントッシュ派に分離する。ウィンドウズ派はマッキントッシュ派〈に対して〉自分たちを正統派と定義する。マッキントッシュは「お遊びマシン」であり、そのユーザーは「マック教徒」だとレイベリングすることによって、自分たちのマシンの長所を強調し、欠点を「工夫しだいでどうにでもなること」と考えるようになる。

 このように、わたしたちは一定のレリヴァンスに関して「そうでない相手」に対して極端な類型化をおこない、その類型的特性を極端に強調することで相手の多様性や個性を認めず、そうしてつくりあげた像に〈に対して〉自分たちを同質の類型的特徴をもつ者(あたかも兄弟姉妹のような)として捉えることで、仲間の親密性を確保し自己定義を確認する。

 ジンメルのいう「排除されていない者は包括されている」とはこのような事態をさしている。そしてそのさいに類型的特性を強調することは自他ともに「脱個性化」を導きがちである。ジンメルは端的に「この包括は脱個性化を導く」と指摘する。41 この指摘は重要である。

 発話空間においては、反論している自分が妙に没個性的で陳腐な内容をくりかえしていることに気づくことは多い。「こういうことをいいたいのではない」という思いとはうらはらに、内集団の公式的見解をなぞっている自分を発見したりするものである。ジンメルのいう「脱個性化」とはこのようなことをいっているのではないか。

 江原由美子は性差をめぐる論争について論じた中で次のような「実感」を吐露している。「言葉がまっすぐ伝わらない。私は、しばしば絶句する。いつのまにか、自分でも考えてみなかったことを言わされている。知らず知らずのうちに、何ものかが、私の言葉を変形していく。[中略]女性運動のどんな言葉も、磁場のような言語空間を通過するうちに、まったく別物に変形していく。それは女性の言葉として、既存の女性イメージ空間から何ものかをつけくわえ、過剰な意味を付与されて届く。その過剰の意味は必ず女性自身の自己イメージと抵触し、女性自身の反発を買うのである。」42 ジンメルが「脱個性化」と表現した事態を、江原は「標本化」と表現している。43

 マートンがいうように「『すればするで非難され』、『しなければしないで非難される』過程」に対する防衛的な反応であるにはちがいない。44 「何をなそうとそれとはかかわりなしに、徹頭徹尾非難される」外集団の人間は、防衛的に自己主張と自己否定を迫られるのである。45 その過程の中で外集団に立たされた人間は、内集団〈に対して〉自分たちを主張させられてしまう。そして、このロジックは内集団側の人間においてもまったく同じなのであり、内集団と外集団の「鏡映効果」のプロセスの中で、結果的に個人が自他ともに脱個性化=標本化され、個性や個人的事情が排除されてしまうのである。46

自己成就的予言の悲劇的循環とメディアの媒介

 集団間の「鏡映効果」によって集団イメージがステレオタイプ化され、その中の個人の言説までが脱個性化=標本化される。ダブル・スタンダードの悪循環はこうして始まる。

 すでにふれたようにマートンはダブル・スタンダードの問題を「自己成就的予言の悲劇的循環」47として捉えていた。この場合の「予言」とは、行為がそれに基づいておこなわれるところの「知識」のことである。ギデンスの概念を流用すると「共有知識」がそれにあたる。48 それは、行為の起点となる「状況の定義」を供給する知識である。マートンは「もしひとが状況を真実(リアル)であると決めれば、その状況は結果においても真実(リアル)である」というトーマスの公理について次のように述べる。「人間は単に状況の客観的な諸特徴に対して反応するだけでなく、自分達にとってこの状況がもつ意味に対しても、反応するものであり、しかも後者に対する反応の方が、時には主となる」と。そして「一度人々が何らかの意味をその時の状況に附与すると、続いてなされる行動やその行動の結果はこの附与された意味によって規定されることになる。」49 ここでいう「意味」を規定するのが人びとの共有知識である。

 共有知識とは、もちろん内集団のメンバーが共有している自明性を帯びた知識全般と考えてよい。この知識は内集団において日常的に教えこまれ、組織的に教育される。なかでも、現代社会において決定的な重要性をもつのがマス・メディアである。マス・メディアはたえずダブル・スタンダードのこの「悲劇的循環」を増幅する。もちろんメディア自体は、この循環過程を拡大再生産することもあるし、望ましい方向へと導くこともある。しかし、現実のマス・メディアは、既成社会の制度化された存在である。けっして中立的なものではない。

 たとえばアメリカの外国報道について結論を先取りした箇所においてサイードは次のように述べる。「アメリカのマスコミの外国報道は、それだけで創造の意味があるだけでなく、『われわれ』の外国への関心をさらに深くする。マスコミの見方は、アメリカ人に対してはこの点を、イタリア人、ソ連人には別の点を、といったふうに強調点が異なる。そのすべてはひとつの共通の中心、つまりコンセンサスを求めて集合するが、あらゆるマスコミ媒体はそうしたコンセンサスを解明し、具体化し、つくり上げているとほぼ自覚している。ここが重要な点である。マスコミはなんでも可能で、あらゆる考え方を代弁でき、また常軌を逸したもの、思いがけず独創的なもの、異常なものさえ、いろいろ提供する。しかし結局、彼らは『アメリカ』さらには『西洋』といった共同のアイデンティティに奉仕し、増進させる団体であるため、みんな同一の中心的コンセンサスを心に抱いている。少し後に取り上げるイランの場合でわかるように、これがニュースを形成し、何がニュースか、どのようにしてニュースになるのかを決定づける。しかし、意図せずにニュースを指定し、決定するのではない。つまり決定論的法律や陰謀や独裁の所産ではない。それは文化の所産であり、よくいえば文化である。」50 もちろんここでかれがいう「文化」とは、わたしたちがこれまで共有知識と呼んできた内集団の自明化された解釈装置にほかならない。

 その結果、アメリカ人は威圧的・対立的に見る以外にイスラム世界を眺める機会がなくなってしまう。「それがアメリカとイスラム世界の双方で、矮小化への反発作用を引き起こすという悲劇を生んでいる。」51 マス・メディアは、その多様性にもかかわらず、専門家・行政担当者・政治家・企業など利害関係者の知識を結果的に表現し、独自の評価を付加する。それゆえサイードはこれらを含めて「解釈の社会集団」と呼ぶ。52 ニュース制作は現実の反映ではなく、むしろ現実を構築する行為である。53 こう考えると、メディアによるこの「解釈の社会集団」の循環的現実構成がダブル・スタンダードの消長に大きな影響をもつわけである。

 マス・メディアは多くの場合「良識」という名のもとに内集団の共有知識に準拠して報道せざるをえない。たとえば組織暴力に対して、凶悪犯罪者に対して、非友好的な外国人に対して、極端な思想をもつ者に対して、伝統的でない宗教に対して、新しい風俗に対して――といったぐあいに、内集団の秩序の安定を脅かす怖れのある存在を外集団として定義して、それ〈に対して〉政府・警察・学者・一般市民(街の声!)などを総動員して伝えることによって、内集団の共有知識を再確認するのが常である。犯罪報道や外国報道においてジャーナリズムがステレオタイプに陥りがちなのは、54 たんなる知的怠慢だけでなく、記者の未熟だけでもなく、メディア特性による制限だけでもなく、外集団〈に対する〉内集団としての共有知識の再確認をメディアが日常的に強いられているからではなかろうか。それはメディアがマス・メディアであろうとするかぎり、避けることのできない〈力〉なのである。

[4]ディスコミュニケーションとしてのダブル・スタンダード

ディスコミュニケーションとは何か

 前章ではダブル・スタンダードが社会的コミュニケーション過程のおいて増幅され補強される過程を見てきた。本章では、それがどのようなコミュニケーションであるかを社会学的に判定したい。

 結論からいうと、ダブル・スタンダードはディスコミュニケーションの一形式である。ディスコミュニケーションとは非反省的(もしくは反省抑圧的)なコミュニケーションのことである。しかし、こういうためには、まずディスコミュニケーション概念の意味転換を確認しておかなければならない。

 通常、ディスコミュニケーション概念は「自分の思っていることが相手に伝わらない」という実感を意味することが多い。55 しかし、その意味内容の前提にはコミュニケーションを「情報移転」と捉えるシャノン−ウィーバー・モデル的なコミュニケーション観が存在する。このようなコミュニケーション観は工学的で送り手中心に偏向した見方であって、社会学的分析には不適切であることが指摘されている。56

 他方、ミードやその継承者たちのコミュニケーション概念は、リフレクション(reflection)と呼ばれる反省作用に人間的水準のコミュニケーションを確認する。57 このコミュニケーション概念から出発すると、コミュニケーションでないもの(dys-communication/dis-communication)とは、すなわち何らかの形でリフレクションの欠落したコミュニケーションということになる。つまり、ディスコミュニケーションとは非反省的コミュニケーションないし反省抑圧的コミュニケーションのことなのである。58

 ダブル・スタンダードは本質的には反省的なものといえる。なぜならそれは鏡映効果もしくは対他反照規定によって生じるからである。もちろんそのこと自体が問題ではない。ところが、ひとたび内集団と外集団の境界がきわだつと、今度はその境界設定のプロセスが見えなくなり、自明なものとして固定化され物象化されてしまう。その結果、ダブル・スタンダードの存在する社会領域では、人びとは個人としての自律的な判断と行動が困難になりがちである。ダブル・スタンダードが、自己欺瞞を欺瞞として放置し、思考停止させる文化装置としての「心の習慣」であるのは、それが反省抑圧的なコミュニケーションだからである。

反転されたダブル・スタンダード

 ディスコミュニケーションとしてのダブル・スタンダードが典型的に現れるのは、まず第一に、外集団における「反転されたダブル・スタンダード」においてである。

 たとえば新宗教の教団は、すでに述べたように、日本社会において恒常的なダブル・スタンダードにさらされてきた。ところが、この状態が固定的なものになってくると、今度は教団内部において対抗的なダブル・スタンダードが現象してくるのが常である。これを「対抗的ダブル・スタンダード」もしくは「反転されたダブル・スタンダード」と呼ぶことができる。マックス・ウェーバーが「対内道徳と対外道徳の二元論」ということで宗教共同体を引き合いに出したとき、かれが想起しているのはおそらくこの状態である。

 新たな宗教共同体の成立によって、既成社会の秩序は不安定なものになる。そのため、既成社会はダブル・スタンダードをとってさまざまな「不当な弾圧」を加える。こうなると、宗教共同体は既成社会と正当性獲得の闘争に入らざるをえない。「不当」の反対は「正当」である。自分たちの集団がいかに「正当」であるかを強硬に主張することになる。いわゆる「受難の神義論」はこのプロセスで生まれると考えてよい。

 コーザーはジンメルの命題を整理して次のように述べている。「闘争に参加する人びとが、自らを、集合体および集団の代表者にすぎないと感じ、おのれのためではなく、彼らが代表している集団の理想のためにのみ闘っていると感じているような闘争は、個人的な動機のために実行されている闘争よりも、過激で残酷なものになりやすい。」59 類型の多元性が確保されている集団や社会では、寛容になりやすい。しかし、類型の唯一無二性が強調される集団や社会では排他性が強くなりがちである。かえって対抗集団のほうがコンサバティヴな社会よりも排他性が強くなる。

 このような「反転されたダブル・スタンダード」は、宗教共同体だけでなく、しばしばエスニシティ・グループや被差別集団において現象する。エスノセントリズムが対抗的に成長するからである。しかし、わたしは、この現代社会においては、このようないわゆるマイノリティ・グループだけが「反転」するわけではないと考えている。たとえば、企業とりわけ公害企業や不祥事のために社会的非難を浴びている企業などにも同じことがいえるのではないか。日本企業は総じて運命共同体的組織である。コーザーは「教会」型に対して「教派型」集団と呼んでいるが、日本企業は(1)相対的な規模(2)成員の包絡の程度(3)闘争の持続性から考えて「教派型」に近い体質をもっている。60

 あるいは教員や医師などの専門家集団にも同じことがいえると思う。社会分化著しい現代社会において、個人は――とくに職業的活動や社会運動的活動において――このような外集団であることを自覚することが多い。そのとき「反転されたダブル・スタンダード」はわたしたち〈ふつうの人〉にも容易に生じうるのである。

 ところが、これはダブル・スタンダードの対抗的措置とはなりえても、けっしてその根本的克服にはならない。なぜならダブル・スタンダードの構図は同じまま価値軸が反転されているだけだからである。むしろダブル・スタンダードは権力作用として拡大再生産されるといってよい。したがって、ダブル・スタンダードによって不利益を受けている集団がすぐれているのは、ジンメルのいうような「鳥の視座」すなわち差別の認識可能性だけであることを確認しておかなければならない。かつてマルクスが労働者の全体性として強調したあのロジック――しいたげられている者たちだけが「正義」であるという救済の論理――は、このさい廃棄されるべきである。認識論的優位性と構造的優位性とは混同されてはならない。

反省抑圧の構造

 コーザーは、「現実的な集団闘争を抑圧する社会」と「緊密な成員関係をもつ規模の小さな闘争集団」においてスケープゴートづくりという反作用を示しやすいと指摘している。61 スケープゴーティングはダブル・スタンダードの顕出的現象形態であるから、同様のことがダブル・スタンダードにもいえるだろう。とすれば「反転されたダブル・スタンダード」だけでなく、「現実的な集団闘争を抑圧する社会」特有のダブル・スタンダードの形態があるということになる。

 「馴れ合い社会」といわれる日本社会の場合は、コーザーのいう「現実的な集団闘争を抑圧する社会」の側面をもっている。もちろん日本社会のすべてが「馴れ合い社会」というつもりはないが、排除されていると感じていない――つまり基本的に包摂されている――人びとの生活世界を想定すると、「みんなと同じ」均質さを主題的なレリヴァンスにする集団や社会の存在を考えることができる。たとえば、大学卒男性主流の大企業の世界、養護学校義務化以降の学校空間、団地や住宅地の日常生活といった社会空間がそれである。このような内集団内においては「現実的な集団闘争」は抑圧されやすい。「みんな同じなんだから、けんかはやめて」という統合の論理が「現実的な集団闘争」を抑制する。では、それで済むかというと、そうはいかない。

 間庭充幸によると、均質な集団には「同調競争」が生じやすいという。間庭は「ある目的に向かっての同調や競争とは別に、皆がある目的に志向すること自体が価値を帯び、それへの同調と競争が新たに生まれる。このような行為」を「同調競争」と呼ぶ。62 工場におけるQC運動やサラリーマンの会社本位主義や管理された教室などにそれを見ることができる。このような状況では「自分を他者の行動に合わせてはみ出さない」ことが防衛策である。63 ところが、「同調競争は目的が不透明で実体が空洞化しているため、他者の出方や位置によってしか自らを確かめることができない。したがって、たちこめるこのような不安や抑圧から本当に解放されようとすれば、ただ過剰に同調するだけでは安心できず、さらに自分の身代わりやいけにえをつくり出して同調競争に破れそうな自分の欠点を他者に転嫁し、自己防衛をはかる以外なくなってしまう。」64 これがたとえば学校空間の場合「いじめ」となって現れるのである。65

 こうして「内なる敵」の探索、むしろ「敵」の誘発が、共通の志向性と価値観をもつ内集団内で防衛的におこなわれる。わずかのとるにたりない差異が再発見され、強調され、過剰に意味付与される。そして「微細なダブル・スタンダード」が創出され、いちはやく隣人に適用されるということになる。

 いわゆる「多元的無知」(pluralistic ignorance)がそれを加速する。「多元的無知」とは、自分はそうではないが、他の人びとはみんな規範を無批判に受け入れていると思っていることである。66 これが「微細なダブル・スタンダード」を暗黙のうちに承認し支持する機能を果たす。森田洋司と清水賢二の「いじめの四層構造」論が主張する「傍観者の支持」の重要性がここで想起されるべきであろう。67

知識過程の反省化と社会学的実践

 マートンは「自己成就的予言の悲劇的循環」をさして「人間のこういう行動型式は、概して修正の可能な社会構造の所産なのである」とし「危惧の念を実在に転化する自己成就的予言は、慎重な制度的規制が欠如した場合にのみ作用するものである」と述べている。68 また、サイードも外集団としての「イスラム」に即して次のように述べている。「私が本当に信ずるのは、批判精神の存在、および専門家の特殊利害や常識的見解を超越してその批判精神を発揮する能力と意志をもつ市民の存在である。良き批判的読者の技術を利用して無意味から意味をとり出すことによって、また正しい質問を問い適切な回答を期待することによって、『イスラム』あるいはイスラム世界を知り、そのなかに生息し、その言語を話し、その空気を呼吸し、その歴史と社会を生み出す男と女と文化を知ることは、誰にでも可能である。その段階で、人間的な知識が始まり、その知識を求める公共の責任がになわれ始める。」69 わたしもかれらと同様、けっして救いようのない事態とは考えていない。最後にその点を展望してこの小論を終えたいと思う。

 ダブル・スタンダードは内集団と外集団とのあいだの境界づけをめぐる集団間の相互反照規定の産物であり、同時にその媒体でもある。これは逃げることのできない問題である。では、そのような状況において、わたしたちが道徳基準の使い分けという「道徳錬金術師」70になってしまうのはなぜなのか。

 それは社会学的意味における反省作用が抑圧されているからである。社会的コミュニケーションがディスコミュニケーションへ傾くからである。日常的な会話のレベルからジャーナリズムまで、あるいは教室の授業から政府広報まで、あらゆるコミュニケーションがさまざまな理由によってその反省作用を十全に発揮できないでいるからである。もちろん単純な反省作用は作動するが、高度な反省作用が作動していないのである。

 マートンのいう「慎重な制度的規制」とサイードのいう「批判精神」を行使する市民は、社会的コミュニケーションに反省的回路をつくり、反省的循環を活性化させるエージェントである。わたしたちが社会に反省的なコミュニケーション制度をつくり、たえそれをず修正し、わたしたちの共有する知識を反省的循環の中におく。日常生活の自明性に埋没し、内集団の「心の習慣」のままに防衛的に世間を渡る、そんな生き方ではなく、両義性を生きながらも社会学的感受性をいつも作動させて敏感に理念的な公共的世界を組み立てていく、そのような「見識ある市民」(well-informed citizen)として自律的に自己を形成させていくような生き方を実践すること。71 ダブル・スタンダードの問題は、そのような生き方への〈覚悟〉の浅深を問いかけているように感じる。

1 G・ジンメル『秘密の社会学』居安正訳(世界思想社、一九七九年)一〇九ページ。

2 ロバート・K・マートン『社会理論と社会構造』森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳(みすず書房一九六一年)三九〇ページ。

3 マートン、前掲訳書、三八七ページ。

4 前掲訳書、三九六ページ。

5 ウェーバー『社会学論集――方法・宗教・政治』浜島朗・徳永恂訳(青木書店、一九七一年)「宗教的現世拒否のさまざまの方向と段階の理論」(徳永恂訳)二三九ページ。

6 学術的なものではないが、この点を明確に指摘し具体的に告発した活動記録として、門野晴子・中山千夏・丸山友岐子・日方ヒロコ(おんな通信社編)『女子高生コンクリート詰め殺人事件――彼女のくやしさがわかりますか?』(社会評論社、一九九〇年)。

7 スーザン・グリフィン『性の神話を超えて――脱レイプ社会の論理』幾島幸子訳(講談社選書メチエ、一九九五年)三七ページ。

8 前掲訳書、三一─四一ページ。

9 江原由美子『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房一九九一年)。江原由美子「セクシュアル・ハラスメントのエスノメソドロジー――週刊誌にみる解釈の政治学」『装置としての性支配』(勁草書房一九九五年)。具体的事件を取材したルポルタージュとしては、宮淑子『セクシュアル・ハラスメント』(朝日文庫、一九九三年)を参照。

10 脱領域的な社会理論に踏み入っている多くのフェミニズム研究が思い当たるが、ここでは代表的なものとして、ふたりの研究者の著作をあげておきたい。上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店、一九九〇年)。上野千鶴子『近代家族の成立と終焉』(岩波書店、一九九四年)。江原由美子『女性解放という思想』(勁草書房、一九八五年)。江原由美子『フェミニズムと権力作用』(勁草書房、一九八八年)。江原由実子『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房、一九九一年)。江原由実子『装置としての性支配』(勁草書房、一九九五年)。

11 奥村宏『[改訂版]法人資本主義――[会社本位]の体系』(朝日文庫、一九九一年)。

12 井上順孝『新宗教の解読』(ちくまライブラリー、一九九二年)。

13 この皮肉な事態が集約される場面は死刑執行である。その実態を取材したルポルタージュとして、大塚公子『死刑執行人の苦悩』(角川文庫、一九九三年)。

14 ここでは単純化して説明したが、じっさいは相当複雑である。安積純子・岡原正幸・尾中文哉・立岩真也『生の技法――家と施設を出て暮らす障害者の社会学』(藤原書店、一九九〇年)。

15 丸山ワクチン問題については、井口民樹『増補版・再考丸山ワクチン』(連合出版、一九九二年)。ちなみに「クレスチン」は年間売り上げ五百億円の抗ガン剤として広く使われ続けるが、一九八九年厚生省は「単独ではガンに効かない」ことを公式に認めた。これは医学薬学界の学閥集団のダブル・スタンダードがもたらした悪質な行為である。医学薬学界にはこの種の話が多い。

16 報道におけるダブル・スタンダードについては、とくにダブル・スタンダードという概念は使用していないが、浅野健一『客観報道――隠されるニュース・ソース』(筑摩書房、一九九三年)がさまざまな事例を提供している。

17 ゲオルク・ジンメル『社会学――社会化の諸形式についての研究(下)』居安正訳(白水社、一九九四年)。G・ジンメル『秘密の社会学』居安正訳(世界思想社、一九七九年)も参照した。なお、Fremdeは、前者では「異郷人」、後者では「余所者」と訳されているが、本稿では「よそ者」という訳語に統一した。参照および引用のページは前者による。ところで、ジンメルの形式社会学の大きな特徴は、その脱領域的な性格である。形式社会学は、たとえば支配現象を政治領域の枠内で捉える従来的な発想──これはジンメル以降もますます強くなっている──に対して、宗教や経済や教育や芸術やアカデミズムなど、さまざまな領域を貫通する脱領域的な現象として捉える。それは「通分する知性」なのである。それゆえジンメルの形式社会学はアカデミズムになじまない。なぜならそれは専門知識という閉鎖的言説空間を大きくはみでる脱領域性を帯びるからである。この脱領域性は知識の拡張であるはずなのだが、じっさいには無作法な逸脱行為と見なされがちである。当のジンメルがその視線によって万年私講師の道を余儀なくされた。形式社会学は、これまで社会学史においてステレオタイプ化されてきたようなアカデミックな分類癖症候群ではなく、専門分化によって視野が狭まる知的物象化の傾向に対する一種の知的抵抗であることを確認しておきたい。本稿でいう形式社会学はそのような意義において使用されている。なお、詳細は別稿を期したい。

18 前掲訳書(一九九四年版)、二八五ページ。

19 前掲訳書、二八六ページ。

20 前掲訳書、二九一ページ。

21 赤坂憲雄は「異人」ということばで非常に広範な概念化を試みている。本稿でも以後はこのような広い意味で「よそ者」という概念を使用することにする。赤坂憲雄『異人論序説』(砂子屋書房、一九八五年)。

22 前掲訳書、二八八ページ。なお、アルフレッド・シュッツも「よそ者――社会心理学的一試論」で同様のことを指摘している。A・ブロダーゼン編『アルフレッド・シュッツ著作集第3巻 社会理論の研究』渡部光・那須壽・西原和久訳(マルジュ社、一九九一年)。

23 残念ながら社会学においてさえそれがいえる。そのあたりを鋭く指摘したものとして、ドロシー・B・スミス「女性のための社会学」(田中和子訳)J・シャーマン&E・ベック編『性のプリズム――解放された知を求めて』田中和子編訳(勁草書房、一九八七年)。田中和子「女性社会学の成立と現状」女性社会学研究会『女性社会学をめざして』(垣内出版、一九八一年)。田中和子「フェミニスト社会学のゆくえ」井上輝子・上野千鶴子・江原由美子編、天野正子編集協力『日本のフェミニズム2 フェミニズム理論』(岩波書店、一九九四年)。江原由美子「フェミニズムとジェンダー」『装置としての性支配』前掲書。

24 これはフーコー自身の定義ではないが、その後の権力作用論の通分的な定義にはなっていると思う。フーコーは「権力は遍在する」「権力は下からくる」「権力の司令塔を求めるのはやめよう」といい、権力を「意図的であるが、非主体的」であり、「抵抗や闘争も権力の内部要素」という考え方はきわめて社会学的である。ミシェル・フーコー『性の歴史I知への意志』渡辺守章訳(新潮社一九八六年)一二一─一二四ページ。

25 ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣──アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房、一九九一年)三三一ページ。

26 ピエール・ブルデュ『実践感覚1』今村仁司・港道隆訳(みすず書房、一九八八年)。ここではこれらの概念の異同についてはふれない。ここではこれらの共通因数を概念内容として使用している。

27 いずれもコーザー、前掲訳書、一四七─一四八ページによる。

28 江原由美子『ラディカル・フェミニズム再興』前掲書、二二〇ページ。

29 ジンメルのよそ者論は、ベルリン大学でジンメルの講義を聴いたパークによって、移民の国アメリカの社会学に導入され、広く影響を及ぼすことになる。しかし、今日、わたしたちがジンメルのよそ者論を読んでも、そうした感銘を受けることはない。なぜか。それは、よそ者論だけをとりだして読もうとするからである。よそ者の理論は、それがふくまれている『社会学』第九章「空間と社会の空間的秩序」によって反転させなければならない。よそ者は社会秩序の反転的投影なのである。ジンメル、前掲訳書、下巻参照。

30 L・A・コーザー『社会闘争の機能』新睦人訳(新曜社、一九七八年)三七ページ。

31 前掲訳書、一一二ページ。

32 前掲訳書、一一三ページ。

33 G・ジンメル『秘密の社会学』居安正訳(世界思想社、一九七九年)一一一ページ。

34 前掲訳書、一〇九ページ。

35 「知識過程」ということばは、ジンメルが「社会はいかにして可能か」で「知識事実」として指摘した現象を時系列的に捉えなおしたもので、わたしの造語である。これについては、野村一夫『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社、一九九四年)第三章。

36 A・ブロダーゼン編、前掲訳書、三二一ページ。なお、レリヴァンスとは「適切さ」ということであり、より正確に訳すと「有意妥当性」となる。レリヴァンス領域とは、有意妥当性のおよぶ範囲ということで、その内部においては自明性があり理に適ったものと見なされる。ただし、シュッツ自身の用語法も不安定でさまざまな含意をもっている。この点に関しては、江原由美子『生活世界の社会学』(勁草書房、一九八五年)第5章「シュッツにおけるレリヴァンスの問題」参照。

37 前掲訳書、三三〇─三三一ページ。

38 これは「対他反照規定」である。シュッツはクーリーにならって「鏡映効果」と呼ぶ。前掲訳書、三三一ページ。これは「鏡像効果」でもよいと思うが、「鏡映効果」のほうがreflectionのニュアンスをよく伝えていると思うので本稿ではマルジュ社版に従っておく。

39 前掲訳書、三三九ページ。

40 前掲訳書、三四八ページ。

41 ジンメル、前掲訳書、一二〇ページ。

42 江原由美子『フェミニズムと権力作用』(勁草書房、一九八八年)一四ページ。

43 前掲書、三二ページ。

44 マートン、前掲訳書、三八七ページ。

45 前掲訳書、三九六ページ。

46 たとえばフェミニズム的ディスクールに対する人びとの反応が否定的な理由のひとつには、この脱個性化=標本化への反感が混じっているのではないかと思う。もちろんフェミニズム自体が男性中心的な脱個性化=標本化への反感として生まれてきたものなのに、である。江原由美子、前掲書、二ページほか随所。

47 マートン、前掲訳書、三八六ページ。

48 ギデンスによる「共有知識」(mutual knowledge)の定義については、アンソニー・ギデンス『社会学の新しい方法規準──理解社会学の共感的批判』松尾精文・藤井達也・小幡正敏訳(而立書房、一九八七年)一五一─一五二ページ。

49 マートン、前掲訳書、三八三ページ。

50 エドワード・W・サイード『イスラム報道──ニュースはいかにつくられるか』(みすず書房一九八六年)七六ページ。同様に、よく知られた代表作『オリエンタリズム』も本稿のテーマについて深い洞察をあたえてくれる。

51 前掲訳書、七九ページ。

52 前掲訳書、六八ページ。

53 G・タックマン『ニュース社会学』鶴木眞・櫻内篤子訳(三嶺書房、一九九一年)一八ページ。

54 この点については、浅野健一『客観報道――隠されるニュースソース』参照。さらに犯罪報道については、浅野健一『犯罪報道の犯罪』(講談社文庫1987年)と、浅野健一『新・犯罪報道の犯罪』(講談社文庫1989年)参照。日本の場合この傾向が典型的に現れたのが天皇報道だった。議題設定機能もしくは沈黙のらせんによって、昭和の終わりの日本に自粛ムードが醸成されたのは記憶に新しい。なお、ステレオタイプな報道については、近年、マス・メディアにおける女性の描かれ方についての研究がさかんになっているが、これらを読むと、女性が最大の外集団としてあつかわれていることが如実にわかる。メディアの中の性差別を考える会『メディアに描かれる女性像――新聞をめぐって〈増補・反響編付〉』(桂書房、一九九三年)。井上輝子・上野千鶴子・江原由美子編、天野正子編集協力『日本のフェミニズム7表現とメディア』(岩波書店、一九九五年)。とくに田中和子と女性と新聞メディア研究会の一連の研究が明確にダブル・スタンダード概念を中心に分析しており注目される。新しいものでは、田中和子・女性と新聞メディア研究会「新聞紙面にあらわれたジェンダー(その2)――性差別表現をめぐる一九九一年の紙面分析を中心に」『國學院法學』第32巻第3号(國學院大學法学会、一九九四年)。

55 広く読まれたエッセイとして、中島梓『コミュニケーション不全症候群』(

56 デニス・マクウェール『コミュニケーションの社会学――その理論と今日的状況』山中正剛監訳、武市英雄・松木修二郎・山田實・山中速人訳(川島書店、一九七九年)一五ページ以下参照。シャノン−ウィーバー・モデルは、Claude E. Shannon and Warren Weaver, The Mathematical Theory of Communication, Illini Books edition,1963に由来する。

57 ミード『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳(青木書店、一九七三年)。

58 ディスコミュニケーション概念のコノテーションについては、野村一夫「社会学的反省の理論としてのジャーナリズム論」『新聞学評論』第三六号(日本新聞学会、一九八七年)。あるいは、野村一夫『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社、一九九四年)一五三─一六五ページ。

59 コーザー、前掲訳書、一六五ページ。

60 前掲訳書、一三八ページ。

61 コーザー、前掲訳書、一三七ページ。

62 間庭充幸『日本的集団の社会学――包摂と排斥の構造』(河出書房新社、一九九〇年)五一ページ。

63 前掲書、一二七ページ。

64 前掲書、一二七─一二八ページ。

65 工場の場合については、熊沢誠『新編 民主主義は工場の門前で立ちすくむ』(現代教養文庫1993年)ならびに熊沢誠『日本的経営の明暗』(筑摩書房1989年)参照。

66 T・M・ニューカム『社会心理学』森東吾・萬成博訳(培風館、一九五六年)六一二ページ。

67 森田洋司・清水賢二『新訂版 いじめ――教室の病い』(金子書房1994年)。『現代のエスプリ』二二八号「いじめ・家庭と学校のはざまで」特集(至文堂1986年)。

68 マートン、前掲訳書、三九七ページ。

69 サイード、前掲訳書、一二ページ。

70 マートン、前掲訳書、三九一ページ。

71 野村一夫、前掲書、一九四─一九七ページ。


現在地 ソキウス(トップ)>ダブル・スタンダードの理論のために
SOCIUS.JPドメインへの初出 1/21(Tue), 2003  
このページのURLは http://
Kazuo Nomura(野村一夫) 無断転載はご遠慮ください。リンクはご自由に。
Valid XHTML 1.0!Document type: XHTML 1.0 Transitional