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4月 12017

社会学感覚25医療問題の構造

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社会学感覚
25 医療問題の構造
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医療について考え始める
本編では患者論に限定して医療問題をあつかった。ここでは広く医療問題全般について考えるための基本資料を紹介しよう。
向井承子の『病いの戦後史――体験としての医療から』(筑摩書房一九九〇年)。患者の側から見た医療を体験的に、しかも問題を客観的に知ろうとする姿勢に貫かれた医療戦後史。永井明『医者が尊敬されなくなった理由』(集英社文庫一九九五年)は「理由」シリーズの中の一作。話題になった旧作もおもしろいが、これは医者の側から見た医療のさまざまな側面をバランスよく描いているのがよい。患者の視点と医者の視点とを対照させて読みくらべてほしい。
その他、柳田邦男『人間の事実』(文藝春秋一九九七年)で紹介されている数多くの手記を手に取ってみてほしい。この本の前半部は医療系のノンフィクションの紹介にあてられている。
文化現象としての医療
医療は医学や薬学だけの特権的領域ではない。それはすぐれて文化現象である。その視点から医療の文化的社会的側面に関するキーワードを徹底的に網羅した用語集として、医療人類学研究会編『文化現象としての医療――医と時代を読み解くキーワード集』(メディカ出版一九九二年)がある。もちろん事典として使えるが、むしろ「どこからでも読める現代医療入門」といったユニークな本。医療問題を議論する上で欠かすことのできない基本知識を学ぶのに最適だ。
医療社会学
医療社会学についての基本書として二点あげておきたい。黒田浩一郎編『現代医療の社会学――日本の現状と課題』(世界思想社一九九五年)と、佐藤純一・黒田浩一郎編『医療神話の社会学』(世界思想社一九九八年)。前者は、医師・病院・患者・看護婦・製薬業界といった、医療にかかわるさまざまな主体ごとに問題を整理したもの。近代西洋医学を相対化する視点から構成されているのも特徴である。後者は、人間ドック・野口英世・赤ひげ・脳死と臓器移植・不妊治療・ホスピス・インフォームドコンセントについてのステレオタイプ化された言説を「医療神話」と押さえ、それぞれを社会学的に批判したもの。福祉国家の起源を軍国主義時代に求める論文もある。概して歴史社会学ないし社会史的なスタンスから神話を解体するという流れになっている。大ざっぱな医療批判でなく、緻密な議論になっている。
この二点に、学説中心の進藤雄三『医療の社会学』(世界思想社一九九〇年)を加えると、ほぼ日本の医療社会学の現状が把握できる。
最近のイギリス系の社会学では、「医療社会学」から「健康と病気の社会学」への転換が生じている。かつてはもっぱら病院・医師・ナース・薬といった要素を対象としていた医療社会学だが、健康食品や民間療法などの「健康関連問題」も射程に入れなければならなくなり、何よりもライフスタイルという複合的な要素がたち現れてきたからだ。もはや公式の医療制度に属するものだけが「健康と病気の社会学」の対象ではなくなっている。日本の研究も近いうちにそういう流れになってくるだろう。
医学の不確実性
すでに紹介した『医療神話の社会学』を読むと、西欧近代医学が意外に「はりぼて」仕様の、脆弱な基盤しかもたない営みであることがわかる。それが確固たるものに見えるのは、私たちが「近代医学」という神話を信じて制度をこしらえてきたという事実に起因するのだ。医師でもあった中川米造の『医学の不確実性』(日本評論社一九九六年)もそれを主題とした概説書。
そもそも医学の不確実性という問題は、一九七〇年代あたりの精神医学批判から連綿と指摘されつづけてきた。イングレビィ編『批判的精神医学』宮崎隆吉他訳(悠久書房一九八五年)におさめられたコンラッドの有名な論文「逸脱とその社会的コントロールの医学化」がその代表的なものである。さまざまな診断的カテゴリーの応用は、技術的に中立な営みというよりむしろ政治的な営みだというのが批判者の見方である。
ネトゥルトンのまとめ[Sarah Nettleton, The Sociology of Health and Illness, Polity Press, Cambridge, 1995. ]を借りれば、「生体臨床医学」(biomedicine)をメインパラダイムとする西洋近代医学は五つの仮説を基礎としている。
(1)心身二元論(精神と身体は分離して取り扱うことができる)
(2)機械メタファー(身体は機械のように修理できる)
(3)技術的命令の採用(過剰な技術的介入)
(4)還元主義(生物学的変化によって病気を説明して社会的・心理学的要因を無視)
(5)特殊病因論の原則(19世紀の微生物病原説のように、すべての病気がウィルスやバクテリアのように同定可能な特殊な作用因によってひきおこされると考える)
このような生体臨床医学は、この二十年ほどのあいだに多くの批判にさらされてきた。
(1)医学の有効性は強調されすぎてきた。
(2)身体を社会環境的文脈に位置づけるのに失敗している。
(3)患者を全体的人格ではなく受動的対象としてあつかう。
(4)出産を病気のようにあつかう。
(5)科学的方法によって病気の真実を確認していると想定しているが、じっさいにはそれは社会的に構築されたものである。
(6)医学的専門家支配の存続を許してきた。
このような論点をカバーするものとして「健康と病気の社会学」が位置づけられる。医学はたしかに身体の経験科学なのだが、こちらも身体の経験科学であることにはちがいないのだ。
医療人類学
近代医学を相対化し、それに対する各自の信仰的な態度を払拭させるには、非西洋医学の実態を知ることが有効である。その点で医療人類学は大いに参考になる。
医療人類学のデファクト・スタンダートとしては、G・M・フォスター、B・G・アンダーソン『医療人類学』中川米造監訳(リブロポート一九八七年)。人類学ではあるが、西洋世界の医療のところはほぼ医療社会学とほぼ重なる。コンパクトなものでは、宗田一監修、池田光穂『医療と神々――医療人類学のすすめ』(平凡社一九八九年)の「第二部 医療人類学入門」が百ページほどで系統的に概観を描いている。それに対して、波平恵美子『医療人類学入門』(朝日選書一九九四年)は、短いエッセイを積み上げたような入門書。波平の本はどれも読みやすいので、初学者は彼女の本から入るといいだろう。
社会史的研究とフーコー
医療人類学が近代医学に対する空間的比較のまなざしをもたらしてくれるのに対して、時間的比較のまなざしをもたらしてくれるのが社会史的な医療研究である。
クロディーヌ・エルズリッシュ、ジャニーズ・ピエレ『〈病人〉の誕生』小倉孝誠訳(藤原書店一九九二年)はその代表的な研究。理論的には社会構築主義の立場に立った研究である。
この分野の隆盛を導いたのは何といってもフーコーである。ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生――医学的まなざしの考古学』神谷美恵子訳(みすず書房一九六九年)がここでの文脈に一番近い著作であるが、もともとフーコーは精神医学の批判的研究からその思索を始めた人であり、終生、医学的知識の歴史的構築をめぐって思想を展開した。主要著作の解説書としては、中山元『フーコー入門』(ちくま新書一九九六年)が比較的やさしい。
女性と医療
B・エーレンライク、D・イングリシュ『魔女・産婆・看護婦――女性医療家の歴史』長瀬久子訳(法政大学出版局一九九六年)という本がある。原著は二冊あって、それが翻訳では第一部と第二部に編成されているのだが、注目してほしいのは、第二部の「女のやまい――性の政治学と病気」の方だ。典型的なフェミニストのスタイルで論旨は明快。医療においてもまたジェンダー・バイアスの問題が存在することに気づいてほしい。一連の看護婦不足問題も、こうしたジェンダー構造との関係で見ることもできるのではないか。
ヘルシズム(あるいは健康幻想)
お昼時の「みのもんた」の一言で多くの人たちが右往左往する昨今である。「健康にいい」というフレーズはすべてに優先する。それはもはや現代の民俗宗教である。
こういう言い方に違和感のある人は、田中聡『健康法と癒しの社会史』(青弓社一九九六年)のような著作を読んでみるといいだろう。健康法についての図版満載の社会史であるが、そこで描かれているのと大して変わりない言説が現在もマス・メディア上で日々生産され続けており、しかも人びとの大きな支持をとりつけている事実に気づくにちがいない。ヘルシズムは医療文化の非常に大きな部分を占めているのである。小野芳朗『〈清潔〉の近代――「衛生唱歌」から「抗菌グッズ」へ』(講談社選書メチエ一九九七年)も、近代国家の歩みに即して「国家衛生システム」の展開をたどったもの。よく調べてある。
こうした状況に批判的なスタンスから論じた文献としては、イヴァン・イリイチ『脱病院化社会――医療の限界』(晶文社一九七九年)が基本書であるが、アーヴィング・ケネス・ゾラ「健康主義と人の能力を奪う医療化」という基本論文がおさめられた、イバン・イリイチ他『専門家時代の幻想』(新評論一九八四年)にもあたりたい。
このほかにも基本文献は多数あるが、健康概念を対象としている「保健社会学」サイドからの研究書もでている。園田恭一『健康の理論と保健社会学』(東京大学出版会一九九三年)。園田恭一・川田智恵子編『健康観の転換――新しい健康理論の展開』(東京大学出版会一九九三年)。 いずれも公衆衛生学系のテイストの研究書。もちろん論調はかなりちがう。
脳死
一九九七年に臓器移植法が施行され、日本でも「脳死」の概念が制度的な根拠をもつにいたった。あちらこちらでドナーカードが配布され、臓器移植の準備体制も整いつつある。
「脳死の社会学」はまだ形を整えていないが、脳死を社会関係の文脈の中で考える試みは他の分野ですでに始まっている。森岡正博『脳死の人――生命学の視点から』(福武文庫一九九一年)はその代表的な作品。タイトルに表れているように、脳死を抽象的な議論ではなく、あくまでも人のありようとして考えようとする論考である。
もうひとつ注目すべきノンフィクションとして、柳田邦男『犠牲(サクリファイス)――わが息子・脳死の11日』(文藝春秋一九九五年)。柳田は著名なノンフィクション作家で医療ジャーナリズムの第一人者だが、これは当事者としての生々しい手記であり、グリーフワークでもある。家族としての視線とジャーナリストとしての視線の交錯する印象深い作品だ。
病院死
山崎章郎『病院で死ぬということ』(主婦の友社一九九〇年)がベストセラーになり、映画化されたりテレビドラマにもなった。終末期医療が多くの人びとにとって実感のともなうことがらになった、これはそのひとつの証左であろう。エッセイともフィクションともつかぬ語り口をそのまま社会学的思考に組み入れるわけにはいかないが、とりあえず議論の導入として読んでおく必要があるだろう。続編の山崎章郎『続 病院で死ぬということ―そして今、僕はホスピスに』(主婦の友社一九九三年)とともに現在は文春文庫に入っている。
病院死の問題は社会学でも比較的早い時期に研究されてきた。たとえば最近翻訳のでた、デヴィッド・サドナウ『病院でつくられる死――「死」と「死につつあること」の社会学』岩田啓靖・志村哲郎・山田富秋訳(せりか書房一九九二年)は、一九六七年刊行のエスノグラフィである。Barney G. Glaser, Anselm L. Strauss『死のアウェアネス理論と看護――死の認識と終末期ケア』木下康仁訳(医学書院一九八八年)も原著は一九六五年にでた研究書である。いずれも、このテーマについては広く知られているキュープラー・ロスの『死の瞬間』に先行する。
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4月 12017

社会学感覚22ジェンダー論

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社会学感覚
22 ジェンダー論
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女と男について考え始める
当初の計画ではジェンダー論の章も予定していたのだが、たまたま執筆順序があとになったため紙数調整の犠牲になってしまった。しかし、ジェンダーは権力行使の日常的かつ最大規模の現場である。ジェンダーへの言及なき権力論は、それ自体、権力作用の罠に陥っているというべきだろう。
セックスが生物学的に定義された性であるの対して、ジェンダーは社会的に定義された性のこと。私たちは「女であること」あるいは「男であること」をとかく生物学的な性を基準に議論することが多いが、じつは議題になっているのは生物学的な性ではなくて社会的な性である。そこをきちんと立て分けないと混乱する。しかも、生物学的な性は、しばしば偏見的主張の絶対的正当性としてもちだされてしまうことが多くて、ろくなことがない。理性的な議論にはじゃまな道具立てなのである(それを社会学者は「イデオロギー装置」と呼ぶ)。
何より考え始めるのがたいせつだ。熊田亘『女と男――男も考える性差別の現在』(ほるぷ出版一九九一年)は、おそらく高校生向けに書かれたものだが、社会学的な見識のあふれたわかりやすい入門書。全体が二十時間分の授業の形式で「です・ます」調で書かれている。「文化・スポーツのなかの性差別」「『性』のモノ化と究極の性差別」「結婚と家族をめぐって」「職場における性差別」「世界の中の日本の女性・男性」の五部構成で、ジェンダーについての主な論点が網羅されている。
社会学者によるものでは、この分野を一気に日本の読書界と論壇上に押し上げた上野千鶴子の一連の著作をすすめたい。なかでも、上野千鶴子『ミッドナイトコール』(朝日文庫一九九三年)は、朝日新聞夕刊に連載されたエッセイで、フェミニズム以後の社会学者の忌憚ない心情が吐露されていて入りやすい。深読みもできるし、触発されるところも多い[本書四八ページ脚注10参照]。
ジェンダーの社会学[総論]
この分野ではここ十数年に多くの本が出版されている。フェミニズムについては最新のアンソロジーが二組もあり、それぞれ文献情報が充実しているので、まず、これらをチェックするといいだろう。加藤秀一・坂本佳鶴恵・瀬地山角編『フェミニズム・コレクション(全三巻)』(勁草書房一九九三年)。井上輝子・上野千鶴子・江原由美子編、天野正子編集協力『日本のフェミニズム(全七冊・別冊一)』(岩波書店一九九四―一九九五年)。
論争的な議論になりがちな領域なだけに、きちんとデータを確認した上での議論が必要だが、そのための一冊が、井上輝子・江原由美子編『女性のデータブック(第二版)』(有斐閣一九九五年)。見開きワンテーマで構成され、パラパラめくっていくだけでもいろいろ発見がある。たとえば、新聞社内で女性の記者は二・五パーセントしかいないとか、女性の賃金は男性の半分であるといった現実を見ると、何かと「逆差別だ」といいたがる中年男性の現実認識がいかに科学的でないか、よくわかる。
フェミニズムの争点
フェミニズムについて概観を与えてくれるものとして、江原由美子・金井淑子編『フェミニズム』(新曜社一九九七年)。フェミニズムといってもいろいろあるのだ。
フェミニズムには争点も多い。江原由美子編『フェミニズムの主張』(勁草書房一九九二年)と、江原由美子編『性の商品化――フェミニズムの主張2』(勁草書房一九九二年)は、フェミニズムの争点を明確にして議論したもの。
江原由実子『装置としての性支配』(勁草書房一九九五年)は論文集で、読みやすいエッセイもふくまれているが、とくに一九九一年以降の上野千鶴子との論争(九〇年代上野・江原論争)についての考察が大きなテーマになっている。ごくかんたんにいうと、この論争は、「労働」を重視する上野のマルクス主義的立場に対して、「身体」(社会的身体)を重視する江原のラディカル・フェミニズムという構図をもっている。一口でフェミニズムといっても、じつにさまざまな考え方が存在している。それを知ることも必要である。
男性学
女性論が隆盛して男性論も始まった。男性には男性なりの「抑圧」ももちろんあるわけで、「男らしさ」への疑念も論じられるようになった。渡辺恒夫『脱男性の時代』(勁草書房一九八六年)は、日本におけるその先駆け的存在で、アンドロジナスがキーワード。岩波版の『日本のフェミニズム』シリーズでも別巻に『男性学』が用意されている。
小浜逸郎『男はどこにいるのか』(ちくま文庫一九九五年)は、フェミニズムの言説に対抗するスタンスが前面に出た評論で、男性としての綿密な自己分析などがあり、社会学の議論とは少しずれるが、議論を鍛えるのによいテキストだと思う。この文脈では、M・コマロフスキー『男らしさのジレンマ――性別役割の変化にとまどう大学生の悩み』池上千寿子・福井浅子訳(家政教育社一九八四年)が、正統派役割理論による調査研究。男らしさ研究の古典である。
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4月 12017

社会学感覚21暴力論/非暴力論

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21 暴力論/非暴力論
21-1 さまざまな暴力概念
暴力とはなにか
暴力の定義は一見自明である。暴力は「人や財産を傷つける行為」である。しかし、これだけでは、外科医が手術するのも暴力ということになってしまう。現に「脳死状態」における日本初の心臓移植手術が「脳死は死でないから、脳死状態のドナーから心臓を摘出する行為は殺人である」として告発されたことがかつてあった▼1。「湾岸戦争」のように公然と「正義」がまかりとおる戦争も多い。個人が勝手に他人を監禁し拘束するのは暴力だが、国家の官吏がそれを犯罪人に行使するのは暴力とはいわない。人を殺すのは暴力の極致だが、死刑囚を殺すのは法的には正当なこととされている。このように「人や財産を傷つける行為」が「暴力」であるかどうかは、ひとえに「他者の反応」つまり「反作用=リアクション」によるのである▼2。じっさい、〈反応する他者〉といってもいろいろである。だから暴力の定義もいろいろということになる。
暴力という現象は多面的な性格をもっている。まず大切なのは、この多面的性格を認識することだ。本章では暴力の多面性を認識するために、便宜的に暴力を三つに分けて論じることにする。
(1)犯罪的暴力
(2)国家的暴力
(3)構造的暴力
犯罪的暴力
通常わたしたちが常識的に「暴力」とイメージする暴力現象を「犯罪的暴力」と呼ぶことにする▼3。この場合の「犯罪的」とは、法的な犯罪要件をみたすというだけでなく、大多数の人びとの非難を招くという意味で用いられる。これはデュルケムの「われわれはそれが犯罪だから非難するのではなく、われわれが非難するから犯罪なのだ」という卓抜な発想にもとづいている。
それゆえ犯罪的暴力は現代社会において正当性をもたない。しかし、それらは突発的に――特定の空間では恒常的に――発生する。それはなぜか。
宝月誠の整理によると、およそ四つの考え方[理論]があるという▼4。
(1)緊張論――特定の社会構造の緊張の圧力の下により多くさらされたものがフラストレーションに陥り、その心理的緊張の解消の一手段として、一定の機会構造によって水路づけられたとき暴力が発生する。
(2)統制論――発想を逆転して、人びとがなぜ暴力をふるわないのかを考えると、それは一定の社会的絆によって拘束されているからである。したがって、拘束する社会的絆が弱い人間は暴力にコミットしやすいと考えられる。
(3)文化的逸脱論――暴力に好意的なサブカルチャーがあって、そのなかで暴力に価値を認めることを学習した者は、その価値の追求としてさまざまな場面で暴力をふるうようになる。
(4)レイベリング論――共同体のなかで、他者が特定の人びとに「乱暴者」「ならず者」といった烙印を貼りつけ、そのようにあつかっているうち、烙印を押された当人がそのラベルにふさわしい暴力者の役割を演じるようになる。たとえば学校でたまたま友人と口論になり暴力を振るってしまった少年が、それ以後、みんなから「乱暴者」あつかいされているうちに、ますます嫌われ者になり、その反動として暴力をエスカレートしていくケースなど。
それぞれ有意義な考え方だが、最近の犯罪的暴力のケースを考えると(3)と(4)を合わせて考えるのが有効だ。宝月誠はこのあたりをつぎのように説明している。
暴力のコミュニケーション論的解読
宝月誠によると、「暴力のサブカルチャー」を学習した者は、直面した「問題」を暴力によって解決しようとするが、かれらにとって無視できない「問題」のひとつは、他者の「挑戦」であるという。他者が主観的に意図していなくても、注意したり怒鳴ったり悪者のレイベリングをするだけで、「暴力のサブカルチャー」を学習した者は「挑戦」と受け取ることが多い。しかし、暴力は「挑戦」されればただちに発せられるわけではない。暴力行為が現実化するには、相手に勝てるかという合理的な判断と、相手や警察などの統制者からなされるリアクショを計算してからである。もちろん不利とわかっていても暴力行為にいたる「感情暴発」の場合もあるが▼5。
これはやはり「暴力のサブカルチャー」にもとづいたコミュニケーションというべきであろう。すでにコミュニケーション論のところで説明したように、コミュニケーションの現実的な意味を決定するのは「送り手の意図」ではなく「受け手の反応」である。だから受け手のもっている解読コードが決定的に重要なのであり、その解読コードを提供する「暴力のサブカルチャー」が重要な働きをしているというわけである。
国家的暴力
犯罪的暴力は正当性をもたないが、正当性をもつ合法的な暴力も存在する。それは国家の暴力――ここでは国家的暴力と呼ぶことにする――である。
そもそも国家が合法的な暴力を所有しているというよりも、むしろ正当化された暴力を所有している組織体を国家と呼んでいるのである。これについてはマックス・ウェーバーによる明晰な国家定義がある。ウェーバーは一九一九年に出版された講演『職業としての政治』のなかで、国家についてつぎのようにのべている。「国家とは、ある一定の領域の内部で――この『領域』という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である▼6。」だから、個人や集団は、国家の側で許された範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められない。これは近代的な現象である。かつては、さまざまな集団――氏族――が、物理的暴力をまったくノーマルな手段として使用していたのだから。
この「国家によって独占された正当な物理的暴力」とは、具体的にはどういうものをさすのか。代表的なものは、つぎの三つである。
(1)戦争
(2)警察
(3)死刑
戦争・警察・死刑
戦争は個人ではできない。基本的に国家が戦争の主体である。内戦というものもあるが、それも結局国家権力をめぐる闘争であるから、本質は同じである。また、正義でない戦争もない。いずれの戦争当時国にとっても戦争は国家の正義をかけた正当なものである。ただ正義はひとつではなく、いっぱいあるところに戦争の不幸がある。
さて、戦争について科学的研究が本格的に始まったのは、じつは一九四〇年代、第二次世界大戦中のことである。「戦争を防ぐためには、戦争を解明しなければならない」と考えたクインシー・ライトという国際政治学者が共同で『戦争の研究』という大きな本を著したのが最初である。それまであった戦争論はたいてい「いかにして戦争に勝つか」といった戦略論だった。戦略論にとって戦争は政治の延長であり一手段にすぎない。その意味で、戦争現象の科学的研究-とくに行動科学的研究-の歴史は浅い▼7。
つぎに、警察は、自衛隊・海上保安庁・厚生省麻薬取締官事務所とともに、ピストルやガス銃などの武器の携行使用が認められた官公庁であり、わたしたちにとっても身近な存在である。それだけにその暴力行使の実態について論ずべきところだが、警察についてはとくにまとまった社会学的研究がないので、ここでは省略せざるをえない。犯罪研究がこれだけさかんになされているのだから、警察研究についても同じだけなされてもいいのだが▼8。
さて、国家によって独占された正当な物理的暴力の第三のものとして死刑をあげておきたい。戦争と同じく、人を殺すことが正当性をもっている点に注意しておいてほしい。死刑については目下賛否両論があり、社会問題としてとりあげられることも多いので、死刑存置論と死刑廃止論の論拠について若干説明しておきたい。
死刑存置論の第一の根拠は、他者の生命をうばったことに対して自分の生命によってつぐなうというものであって、一種の応報感情にもとづいている。これは被害者およびその家族関係者の率直な感情を重視したものといえる。第二の論拠は、死刑の犯罪抑止力である。それは、死刑制度があるから犯罪のエスカレートを未然に防いでいるというものである。それに対して、死刑廃止論の論拠はつぎの六点である。
(1)人命はなにものにもかえがたいものであり、人命の尊重は絶対的であるからいかなる殺人も許されてはならない。
(2)死刑そのものが、憲法第三六条が禁じている「残虐な刑罰」にあたる。
(3)万が一、誤判(誤った裁判)で死刑が確定し執行された場合、とりかえしがつかない。現に、免田事件・財田川事件・松山事件・島田事件のように死刑囚に対する再審公判によって一転無罪になったケースが少なくない。
(4)死刑は犯罪抑止力をもたない。
(5)生かしておいて[たとえば終身刑]刑務作業による収入で被害者賠償をさせるべきである。
(6)「自白すれば死刑にしない」として、死刑が自白強要の道具として使われる危険がある。これまでの冤罪事件においても、これがウソの自白をひきだしてきたのである。
このうち(4)の犯罪抑止力について一言。死刑が犯罪を抑止する効果があるかどうかは、じつは科学的に証明されていない。T・セリンという社会学者は、死刑制度の有無が州によって異なるアメリカの各州の殺人率を調べ、死刑制度の有無と関係がないと結論しているが、反対の結論をだす研究者もいるという。いずれにせよ、科学的に認定されたことではない▼10。
▼1 一九六八年のいわゆる「和田移植」のこと。結局検察庁は「充分な証拠がない」として不起訴処分にしている。この「事件」の経緯とその背景については、立花隆『脳死』(中公文庫一九八八年)とくに五三ページ以下参照。臓器移植のその後の展開については、後藤正治『空白の軌跡――心臓移植に賭けた男たち』(講談社文庫一九九一年)。
▼2 この論点については、宝月誠『暴力の社会学』(世界思想社一九八○年)三四-三九ページによった。
▼3 日本の犯罪状況については、間庭充幸による豊富な事例にもとづく類型学的研究を参照されたい。間庭充幸『犯罪の社会学――戦後犯罪史』(世界思想社一九八二年)。間庭充幸『現代の犯罪』(新潮選書一九八六年)。
▼4 宝月誠、前掲書一五五ページ以下。
▼5 宝月誠、前掲書一七〇ぺージの著者による要約による。
▼6 マックス・ヴェーバー、脇圭平訳『職業としての政治』(岩波文庫一九八〇年)九ページ。
▼7 戦争研究の総合的な基本書として以下の本をあげておきたい。ガストン・ブートゥール、中原喜一郎訳『平和の構造』(文庫クセジュ一九七七年)。ガストン・ブートゥール、ルネ・キャレール、高柳先男訳『戦争の社会学――戦争と革命の二世紀(一七四〇~一九七四)』(中央大学出版部一九八〇年)。最近の決定版は、猪口邦子『戦争と平和』(東京大学出版会一九八九年)。
▼8 日本の警察の最新の実状については、大谷明宏『警察が危ない』(朝日ソノラマ一九九一年)がくわしい。また三一新書と講談社文庫にいくつかのルポルタージュがある。
▼9 菊田幸一『死刑廃止を考える』(岩波ブックレット一九九〇年)ならびに法学セミナー増刊総合特集シリーズ『死刑の現在』(日本評論社一九九〇年)を参照した。
▼10 前掲書二六六-二六七ページ。
21-2 構造的暴力と積極的平和
平和研究における平和概念
以上のような犯罪的暴力と国家的暴力は比較的みえやすい暴力である。つまり存在が公認されている。ところが、社会にはもっとみえにくい暴力も存在する。たとえばここに犯罪もなく戦争もない社会があるとして、そこに本当に暴力はないといえるだろうか。「平和な日本」といわれるけれども、現実にはけっこう「暴力的」と思われるようなことがいっぱいあるではないか、という思いにとらわれる。
たとえば、小学校の給食を全部食べ終わるまで許さないで午後も放課後も食べさせようとしたり、転校するクラスの女の子に「がんばれよ」と握手したのを校則違反[男女交際禁止]としてとがめられ職員室で殴られるとか、離婚した女性が子育てのために限られた時間で働こうとしても低賃金の仕事が多く結局水商売につかざるをえないとか、お金がないために十分な医療が受けられず命を縮めるといったこと、必要な睡眠もとらず働きつづけたために過労死してしまったのにもかかわらずデスクワークのため労災適用を認められない――これらも一種の「暴力」にはちがいないのだ▼1。
そう考えると、犯罪的暴力と国家的暴力だけでは不十分である。前章で説明した「権力作用」のレベルにみあった暴力の存在をも問題にする必要があろう。これを「構造的暴力」(structural violence)と呼ぶ。
じつはこの用語は「平和研究」(peace research)という学際的科学の基本概念である。最初にこのことばを概念として使ったのは、ヨハン・ガルトゥングというオスロの平和研究者だった。
平和というだけで「世界は一家、人類はみな兄弟」というイメージをいだく人が多いのだが、平和研究はれっきとした学際研究の一部門である。従来は国際関係論とか国際政治学がその中心的な位置を占めてきた。というのは、平和概念は常識として「戦争の欠如」「戦争のない状態」と考えられてきたからだ。ところが、第三世界などの現実をみるかぎり――たとえば南アフリカのアパルトヘイト――戦争状態ではないが、とても平和とはいえない状況がある。これをどういう形でとらえればよいのかが問題となる。
そこでガルトゥングは、従来「戦争の欠如」と定義されてきた平和概念を「暴力の欠如」ととらえなおし、暴力に「人為的暴力」と「構造的暴力」とがあり、それに対応して「人為的暴力の欠如」を「消極的平和」(negative peace)と呼び、「構造的暴力の欠如」を「積極的平和」(positive peace)と名づけた。国際政治学中心の平和研究は従来「消極的平和」を研究していたにすぎない、「積極的平和」を追求すべきだ、そのためにも「構造的暴力」を科学的に学際的に研究すべきだと主張し、平和研究の流れを大きく変えた▼2。
図式化すると――
暴力─人為的暴力←→人為的暴力の欠如=消極的平和─┐
└─構造的暴力←→構造的暴力の欠如=積極的平和─平和
その後、「構造的暴力」の概念は定着し、これによって平和研究のすそ野もぐんと広がった。社会学にとっても出番が多くなった。さらに社会学の存在意義を、以上のような「構造的暴力」をなくしていく科学研究としての平和研究――最近では「平和学」とも呼ばれる――の一環として位置づけなおすこともできる。
教育・労働・性・マスコミの現場における構造的暴力
本来、構造的暴力という概念は、第三世界の抑圧や飢餓・人権侵害などを国際的な枠組のなかでとらえなおすために提唱された概念だが、その後、この先進国日本の「一見平和だが、どうもそうでもないらしい」という側面に光を当てる概念として使われるようになってきている。たとえば、一九八五年に日本平和学会が「構造的暴力」を大会テーマにとりあげて、教育・労働・性・マスコミというそれぞれの現場の実態を報告し討論したことがあった。すでに本節冒頭でその一部を紹介したように、教育における徹底した管理が生徒と教師をともに追い込んでいくようすが、校則・体罰・人権侵害・いじめ・怠学・校内暴力の問題として語られ、他方、経営陣と労働組合の双方から締めつけられている労働者のようすが、職場八分・人事考課の問題としてとりあげられている▼3。
これらに対して一様に構造的暴力という概念をかぶせるだけでいいものか若干の問題はあるかと思うが、これらをいったん「暴力」として認識することは意義あることである。
▼1 日本平和学会編『構造的暴力と平和』[平和研究双書3](早稲田大学出版部一九八八年)に盛られた多くの事例からピックアップした。したがって、これらはすべて実話である。
▼2 Johan Galtung,Violence,Peace,and Peace Research,in:Journal of Peace Research,Vol.VI,No.3.なお平和研究の全体像については、日本平和学会編集委員会編『平和学――理論と課題』[講座平和学I](早稲田大学出版部一九八三年)。
▼3 日本平和学会編、前掲書。報告と討論がそのまま掲載されており、かえって一般の人には読みやすい。
21-3 非暴力的行動
暴力のダブル・スタンダード
社会の多層的な暴力的現実を具体的に支えているのは、わたしたち自身である。というのも、わたしたち自身のなかに、暴力的現実を正当化する論理が働いているからだ。それをここでは「暴力のダブル・スタンダード」と呼ぼう。
ダブル・スタンダードとは、集団の内部と外部とで道徳基準を使い分けることである。ウェーバーはこれを「対内道徳(Binnemoral)と対外道徳(Aussenmoral)の二元論」と呼んだことがある。この両者が区別されるのは、しばしば両者がまったく正反対を示すことが多いからだ。たとえば、夫の浮気は「甲斐性」といわれ、妻の不倫は許されずに離縁の理由とされた戦前の日本のような男性中心社会では、性行為に対する規範が男と女でまったくちがっていた。
暴力もまたダブル・スタンダードになりがちである。
暴力はいけないといいながら、現実に暴力を行使した集団に対しては、暴力で制裁することを認めることは多い。凶悪犯人は「暴力的で残忍だから死刑にすべきだ」とか、隣国に侵略した国家は「暴力的で非人道的だから総掛かりで攻撃しよう」という反応がそれだ。結局日本もこの論理で原爆を二発もおとされたことを思うと、このような発想があるかぎり、地球の平和なるものは達成されないだろう。
前章で考察した排除現象において、排除された側には、通常の基準は適用されないことが多い。排除された人びとは一種の〈異人〉として定義され、自分たちと同じ人間とみなされない。たとえば、一九八三年の「横浜浮浪者殺人事件」で、犯人の中学生グループは、浮浪者たちを一種の「汚物」とみなして「掃除」するかのように暴行した。したがって、かれらに罪の意識はなかったという▼1。同じことが、日本軍の南京大虐殺やナチスのユダヤ人虐殺、アメリカ軍のベトナム人殺りくについてもいえる。同じ人間ではないと認識することで、かれらの良心は免責され、むしろ誇りに転化してしまうのである。
非暴力的行動の意義
では、このような「暴力のダブル・スタンダード」の乗り越えは不可能なのだろうか。
原理的には不可能である。しかし、その弊害=悪循環を極少化することは可能である。それは対抗手段として「非暴力的行動」(nonviolent action)を選択することだ。ジーン・シャープによると、非暴力的行動とは「行動者が、それを遂行することを期待もしくは要求されているある事柄を物理的暴力を行使することなしに拒否するか、あるいは、それを遂行することを期待されぬか、もしくは禁止されているある事柄を、同じく暴力を行使せずに、あえて遂行するというような形での、プロテスト、非協力、および介入にかんする方法」のことである▼2。非暴力的行動は「市民的抵抗」と呼ばれることある。というのも「市民的」(civil)とは、そもそも「軍事的」に対抗することばであり、基本的に暴力の不使用を前提としているからである▼3。
暴力を使用しないからといって、非暴力的行動は、非行動でもなく無抵抗でもなく屈従や臆病でもない。それはあくまで行動することであり、闘争の手段とされる。したがって非暴力的行動は、いわゆる平和主義とは異なる▼4。
非暴力的行動の技術
どういうことが非暴力的行動なのか想像できるだろうか。非暴力的行動に関して現代のおおかたの日本人の想像力は閉ざされているのではなかろうか。そこでシャープによる非暴力的行動の方法についての集大成を借りて、それらを類型化しつつ一覧してみよう。シャープによると非暴力的行動には、あわせて一九八の方法があるという▼5。
(1)非暴力的抗議と説得(nonviolent protest and persuasion)
a 意見・異議・意志の公式表明
街頭演説、抗議や支持の手紙を書く、組織と団体による宣言をだす、署名活動、告発と意志を宣言する、集団あるいは大衆による請願活動
b 広範なオーディエンスとのコミュニケーション
抗議のスローガンや風刺マンガやシンボルをつくったり印刷したりジェスチャーする、抗議の旗やポスターをかかげる、ビラ・パンフレット・本の発行と配布、新聞と定期刊行物の発行と配布、レコード・ラジオ・テレビを通じて抗議の意志を表明する、飛行機によるスカイライティングとアースライティング[空中文字と地表文字]
c 集団によるプレゼンテーション
代表団を送って抗議と不同意を表明する、皮肉のきいた賞をつくる、ピケを張る、皮肉のきいた選挙をおこなう
d 象徴的な公的行動
グループの旗やシンボリック・カラーをかかげる、シンボルの入った服を着る、抗議をこめて祈りや礼拝をする、徴兵カードやパスポートなどの象徴的な対象物を手放す、宗教的不同意や政治的抗議をあらわすため公共の場で裸になる、自分自身の財産の破壊、抗議パレードでろうそくなどの象徴的な火をともす、指導者のポートレイトをかかげる、抗議としてぺンキを塗る、通りの名前や町の名前を新しく呼び変えて混乱させる、抗議を象徴する音をだす、象徴的な開墾、権威に対してわざと無礼なジェスチャーをする
e 個人への圧力
役人につきまとう、役人をあざける、敵対する兵士や警官と親しくなって影響をあたえる、不眠不休で監視する
f 演劇と音楽
ユーモラスな寸劇といたずら、演劇と音楽の上演、国民的・宗教的な歌を口づさむ
g 行進
デモ行進、パレード、宗教的行進[葬列をつくる]、巡礼、自動車パレード
h 死をたたえる
犠牲者の死を喪して抗議の意をあらわす、模擬葬列を組む、示威的葬列、埋葬地で誓いをたてる
i 公的集会
抗議集会や支持集会、抗議のミーティング、カモフラージュされた抗議ミーティング、ティーチイン[専門家などを招いた討論集会]
j 退出と放棄
抗議のための退場、道徳的非難をあらわす一団となった沈黙、栄典の放棄、相手に背中を向ける
(2)社会的非協力(social noncooperation)
a 特定人物の排斥
社会的ボイコット[通常の社会関係の継続を全面的に拒否すること]、選択的な社会的ボイコット[部分的]、好戦的な夫に対して妻がセックスを拒絶する、破門、聖務禁止令
b 社会的なイヴェント・慣習・制度への非協力
社会的活動およびスポーツ活動の停止保留、レセプションやパーティなどの社会的行事のボイコット、学生ストライキ[授業ボイコット]、社会的慣習や規制への不服従、社会的団体から脱退する
c 社会システムからの脱退
自宅からでない[自宅待機]、全人格的非協力、労働者の逃亡、聖域[避難所]をつくる、集団失踪、抗議の移民
(3)経済的非協力(1)経済的ボイコット(economic boycotts)
a 消費者による行動
消費者によるボイコット、ボイコットされた商品の不買、質素な暮らしを貫く、賃借料[家賃や地代など]の保留、土地や建物を借りない、国民的規模の消費者によるボイコット、国際的規模の消費者によるボイコット
b 労働者と生産者による行動
労働者によるボイコット、生産者によるボイコット[不売]
c 仲介者による行動
部品製造業者・流通業者によるボイコット
d 所有者による行動と経営
貿易業者によるボイコット、財産を貸したり売ったりするのを拒否する、ロックアウト[工場や学校の閉鎖]、産業上の支援の拒否、商人のゼネスト
e 財政資源の保有者による行動
銀行預金の引きだし、公共料金・会費・税金の支払い拒否、借金や利息の支払い拒否、資金や信用貸しの契約解除、歳入拒否、政府紙幣の拒否
f 政府による行動
国内の通商制限、対象国から貿易禁止品を輸入した貿易業者のブラックリスト作成、国際的販売者の通商制限、国際的バイヤーの通商制限、国際貿易の通商制限
(4)経済的非協力(2)ストライキ(strike)
a 象徴的ストライキ
抗議ストライキ、比較的マイナーな問題に対して短く軽いストライキ、
b 農業ストライキ
農民ストライキ、農場労働者ストライキ
c 特定集団によるストライキ
強制労働の拒否、囚人ストライキ、同業者ストライキ、専門職ストライキ
d 通常の産業ストライキ
営業所ストライキ、産業ストライキ、同盟ストライキ
e 限定ストライキ
項目別ストライキ[ある特定の業務だけを拒否]、バンパーストライキ[ひとつの産業についてひとつの企業だけがストライキに入ることによって、その企業を他の企業の競争にさらす]、スローダウンストライキ[減速減産スト]、順法ストライキ、シックイン[仮病で休む]、辞職によるストライキ、特定の周辺的業務の拒否、選択的ストライキ
f 複数産業規模のストライキ
準ゼネスト、ゼネスト
g ストライキと経済封鎖の組み合わせ
同盟休業・同盟閉店、経済的シャットダウン
(5)政治的非協力(political noncooperation)
a 権威の拒絶
忠誠の保留もしくは撤回、公的援助の拒否、レジスタンス[抵抗]を支持する文献や発言を公表する
b 政府に対する市民の非協力
国会・議会などの立法府のボイコット、選挙のボイコット[棄権]、政府機関への就職拒否、政府諸機関・諸団体のボイコット、政府教育施設からの撤退[退学する]、政府が支援する組織のボイコット、法律執行機関を援助するのを拒否する、自分の名前や住所をとりかえ混乱させる、任命された役人の受け入れを拒否する、現存制度の解体を拒否する
c 服従に対する市民の代替策
非民主的権力などにしぶしぶとまたゆっくりとしたがう、直接的指示のない不服従、全人民規模の不服従、わざとめだつ不服従、集会の解散拒否、すわりこみストライキ、徴兵と国外追放に対する不服従、身元詐称、非合法的法律に対する市民的不服従
d 政府職員による行動
政府援助者による支援の選択的拒否、命令系統と情報系統の封鎖、立ち往生させて妨害する、一般管理職の不服従、司法関係者の不服従、警官や兵士などの政府援助者によって意図的に能率を悪くして選択的に不服従する、上司・上官に対して反抗する
e 政府の国内行動
疑似法規的な回避と遅延、中央政府に対する地方政府や州政府による非協力
f 政府の国際行動
外交などの代表団の変更、外交上のイヴェントを遅延させたりキャンセルする、外交上の認定を保留する、外交関係の断絶、国際機関からの脱退、国際機関への参加拒否、国際機関からの除名
(6)非暴力的介入(nonviolent intervention)
a 心理学的介入
自分の身体を痛めつけるために身をさらす、断食、レヴァース・トライアル[訴追者と被告を反対にした逆裁判]、非暴力的いやがらせ
b 物理的介入
シットイン[すわりこみ]、スタンドイン[人種差別で入場を拒否された場所にじっと立ってその場を動かない]、ライドイン[人種差別で乗せてもらえない公共交通機関にむりやり乗ってしまう]、ウェイドイン[人種差別のため入れないビーチに入ってしまう]、ミルイン[敵対者の事務所などの象徴的意義のある場所に立ち入る]、プレイイン[慣習上入れないか閉めだされた教会に入って祈祷する]、非暴力的侵入、飛行機やバルーンによる非暴力的侵入、侵入禁止区域への非暴力的侵犯、非暴力的投入、非暴力的妨害、非暴力的占拠
c 社会的介入
新しい社会的パターンをつくる、諸機関の負担をキャパシティ以上に大きくする、ストールイン[合法的業務をできるだけゆっくりとおこなう]、スピークイン[抗議対象の場所で集会を開く]、ゲリラ・シアター、代替的な社会諸制度をつくる、独占的かつ管理的な既存のコミュニケーション・システムにかわる代替的なコミュニケーション・システムをつくる
d 経済的介入
逆ストライキ[農業従事者が過剰に働いて雇い主から給与を過剰に支払わせる]、ステイイン・ストライキ[職場にとどまったままのストライキ]、非暴力的土地占有、封鎖に対する果敢な抵抗、政治的動機にもとづいた貨幣の偽造、敵がこまるように戦略商品を買い占める、資産の差し押さえ、ダンピング、選択的にパトロンになる、代替的市場をつくる、代替的交通システムをつくる、代替的経済システムをつくる
e 政治的介入
行政システムの負担を大きくする、政府の秘密警察や秘密組織の正体を暴露する、投獄拘禁の探索、道徳的に中立とみなされる法律に対しても市民的不服従をする、協力しないで働く、並行政府の樹立
理論的根拠としての正当性根拠のほりくずし
このような非暴力的行動の技術は、すでにさまざまな社会運動に取り入れられているが、いずれも支配社会学的な理論的根拠にもとづいている。
支配の社会学のところでのべたように、支配が成立するためには「服従者の服従意欲」というものが決定的に重要である。結局人びとの支持と具体的な協力がなければ、支配は成り立たない。だから、支持と協力のシステムを断ち切るのが、もっとも大きな打撃になる。つまり、抵抗が非暴力でなければならない理論的な理由は、相手の正当性根拠をほりくずすことにある。つまり、〈自発的服従〉をコントロールすることによって、暴力現象や権力の不正義をコントロールするというパラドキシカルな方法なのである。
それに非暴力の場合、相手は暴力的手段を使いにくくなる。暴力で立ち向かってくる者たちを暴力で抑えるのはやさしいが、非暴力だとそうはいかない。よしんば暴力的手段を講じたとしても、それに正当性はあたえられない。つまり犯罪的暴力とみなされる。それは国内的にも国際的にも非難をあびて制裁を受けることになる。したがって暴力を行使する側は大きなリスクを犯すことになる。このことに関しては、近年にわかに大きな動きをみせた東ヨーロッパ・中国・旧ソ連などの場合を比較してみるといいだろう。
いずれにせよ、社会のなかのさまざまな暴力――すなわち犯罪的暴力・国家的暴力・構造的暴力――に対して、無気力・無抵抗でいることは、じつは暴力に支持をあたえることにほかならない。たとえば選挙で棄権することは、往々にして、保守政権に支持をあたえるのと同じ働きをする。犯罪的暴力に対して泣き寝入りすることも同じであるし、公害企業の商品を買い続けることも、結局暴力現象に正当性を付与することになる。
その意味では、非暴力的な社会運動によってしか、こうした暴力は封じられないし、構造的暴力としてとらえられたさまざまな現象もなくならないだろう。そこに非暴力的社会運動の可能性が存在するわけであり、これは、ヒロイズムやロマンティシズムやセンチメンタリズムから脱却して社会学的に自己認識することから始まるのである。
▼1 間庭充幸、前掲書二〇二-二〇四ページ。赤坂憲雄『新編排除の現象学』(筑摩書房一九九一年)第2章「浮浪者/ドッペルゲンガー殺しの風景」参照。
▼2 G・シャープ、小松茂夫訳『武器なき民衆の抵抗――その戦略的アプローチ』(れんが書房新社一九七二年)六八ページ。
▼3 G・ウッドコック、山崎時彦訳『市民的抵抗――思想と歴史』(御茶の水書房一九八二年)。
▼4 シャープ、前掲訳書六八ページ。
▼5 Gene Sharp,The Polifics of Nonviolent Action,Boston,1973.Part Two:The Methods of Nonviolent Action.全三巻全九〇二ぺージの大作であり、この分野についての理論的歴史的研究の代表的存在といっていいものだが、残念ながら邦訳はない。なお、以下の各項は相互に区別されるが、定義の水準はまちまちである。たとえば、ある項がその前の項の特殊事例であることがある。なお『FOR BEGINNERSシリーズ(日本オリジナル版)非暴力』(現代書館一九八七年)で阿木幸男が、このうちの半分の項目について紹介しており参照した。
増補
犯罪を社会学する
近年、一般には理解しがたい少年犯罪が続出し、その社会的文脈に関心が集まっている。一般に時代背景と呼ばれているものは、その時代の若い人には自明であっても、少しでも時間がたつと、とたんにわからなくなるものである。戦後日本の未成年者の犯罪を類型化し、社会学的に背景をたどったものとして、この分野の第一人者による、間庭充幸『若者犯罪の社会文化史――犯罪が映し出す時代の病像』(有斐閣一九九七年)がある。日本の犯罪史を学ぶのにちょうどよい本である。
それに対して、鮎川潤『犯罪学入門――殺人・賄賂・非行』(講談社現代新書一九九七年)は、犯罪をタイプごとに整理した犯罪社会学の入門書。殺人・薬物犯罪・性犯罪・企業犯罪・少年非行についての説明のあと、司法制度の問題と被害者学の必要性について論じている。
犯罪社会学とまったく別の手法で少年犯罪の社会的文脈を考察したものとして、宮台真司『まぼろしの郊外――成熟社会を生きる若者たちの行方』(朝日新聞社一九九七年)と、宮台真司『透明な存在の不透明な悪意』(春秋社一九九七年)もあげておきたい。フィールドワークを駆使した理解社会学ともいうべき手法で問題に迫るこの二著には、じつに多くの分析アイデアがふくまれており、書き下ろしによる今後の精緻な分析を期待したいところ。
じっさい、不可解な若者犯罪が生じるたびに「心の教育」が叫ばれるという、日本の「アドミニストレーター」たちの分析力のなさにあきれる日々が続いている。自省能力の欠けたモラル・パニックの悪循環を断ち切るためには、有無を言わさぬ完璧な分析を突きつけるしかない。
性暴力とセクシュアル・ハラスメント
性暴力事件やセクシュアル・ハラスメント事件は、被害者が男性の場合とまったく異なる経緯をたどる。被害者の落ち度が問われやすいのである。そのため、被害者は加害者の犯行を証明する過程において、いわゆるセカンド・インジュアリー(もしくはセカンド・レイプ)を受けるはめになる。
日常的なセクシュアル・ハラスメントの場合も、同様に女性被害者を(男性加害者を、ではなく)ジレンマに取り込む。女性被害者にとっては深刻な「セクシュアル・ハラスメント」として定義される行為であっても、それを抗議する(最終的には訴訟にいたる)者には、「たんなる別れ話のもつれ」ではないか、あるいは女性側の「被害妄想」や「自意識過剰」ではないかとの疑惑がたえずかけられる。この解釈変更要求への圧力は強力である。たとえ職場の上司が雇用や昇進を理由にして脅迫的にセクシュアル・ハラスメントにおよんだとしても、そのさい女性被害者がその場で命をかけての抵抗をしていないと見なされると、即座にそれが「納得づく」の行為と解釈されてしまう[江原由美子『ラディカル・フェミニズム再興』(勁草書房一九九一年)。江原由美子「セクシュアル・ハラスメントのエスノメソドロジー――週刊誌にみる解釈の政治学」『装置としての性支配』(勁草書房一九九五年)]。この解釈変更圧力によると、被害者が被害者と社会的認定を受けないばかりか、加害者男性こそ「被害者」であるとの解釈さえ生じてしまう。抗議することさえ正当なものと認められないという、当事者にとってはまことに不条理な事態がここに生じるのである。
この問題については、スーザン・グリフィン『性の神話を超えて――脱レイプ社会の論理』幾島幸子訳(講談社選書メチエ一九九五年)参照。具体的事件を取材したルポルタージュとしては、宮淑子『セクシュアル・ハラスメント』(朝日文庫一九九三年)がある。
死刑
日本の死刑制度は相変わらず続いている。むしろ近年は政治的な配慮から積極的に執行がなされているようだ。死刑執行は一般には非公開であるため、ややもすれば抽象的な印象を結びがちであるが、やはり人が人を殺すことの生々しさは知っておきたい。大塚公子『死刑執行人の苦悩』(角川文庫一九九三年)は、死刑執行者の心理的葛藤を取材し、かれらを国家の犠牲者として描いたルポ。これを読むと、死刑制度を存続させるというのであれば、少なくとも死刑執行に法務大臣か最終審の裁判長が立ちあうべきだとの感想を抱く。
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4月 12017

社会学感覚15現代家族論

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社会学感覚
15 現代家族論
15-1 家族機能の変容――伝統家族と現代家族
伝統家族の機能
家族は社会に対して、また個人に対して、さまざまな働きをしている。そうした働きのことを「機能」(function)という。「機能」は、意図してそういう働きをしていることでなく、結果的にそういう働きをしてしまっていることをさす。現代家族論にさいして、家族が結果的に果たしている機能にはどんなものがあるか、ということから始めよう▼1。
世界的視野からみると、家族には、大きくわけて五つの機能があるといわれてきた。
(1)性的機能――結婚という制度は、その範囲内において性を許容するとともに婚外の性を禁止する機能を果たす。これによって性的な秩序が維持されるとともに、子どもを産むことによって、社会の新しい成員を補充する。
(2)社会化機能――家族は子どもを育てて、社会に適応できる人間に教育する機能をもつ。子どもは家族のなかで人間性を形成し、文化を内面化して、社会に適応する能力を身につけていく。
(3)経済機能――共同生活の単位としての家族は生産と消費の単位として機能する。
(4)情緒安定機能――家族がともに住む空間は、外部世界から一線をひいたプライベートな場として定義され、安らぎの場・憩いの場として機能する。
(5)福祉機能[保健医療機能]――家族は家族成員のうちで働くことのできない病人や老人を扶養・援助する働きをする。
これらは伝統的な家族には大なり小なり観察される機能である。ところが、このような家族機能を現代家族にそのままあてはめるとなると、大きな問題につきあたることになる。
現代家族における家族機能の縮小
たとえば、性的機能についてみれば、結婚以外の性に対する統制力がゆるんだため、婚前交渉や不倫などのように性的関係がかならずしも夫婦だけの特権的なことでなくなったし、少産化傾向や後述するディンクスに示されるように、子どもを産むことが家族の必要条件ではなくなってきた。子どもの社会化についても、もはや社会化のエージェントは学校や塾・スポーツクラブそしてマス・メディアヘと主軸が移動しつつある。また経済機能も、第一次産業中心の時代にもっていた生産の場としての機能はほぼ喪失したといっていいだろう。生活維持の責任を家族が負う形で、いまはかろうじて消費の単位であるにすぎない。
ゲマインシャフトとしての家族
こうした変化のなかで、経済機能のように家族にとってかならずしも本質的でない機能は外部に排出されるが、情緒安定機能や福祉機能のように家族でなければ果たせない専門的な機能の重要性は増すという考え方がでてきた▼2。これは、たとえば多くの人が「安らぎの場」として家族を位置づけ、老後は家族とともにすごしたいと考えている社会意識状態にほぼ対応している。
社会学でも一九六〇年代まではそう考えることが多かった。古くはフェルディナンド・テンニエスの『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』が家族の超歴史的かつ通文化的な本質を〈ゲマインシャフト〉に求めている。ゲマインシャフトとは「信頼にみちた親密な水いらずの共同生活」のことだ▼3。テンニエスは「家族生活は、ゲマインシャフト的生活様式の普遍的な基礎である」としていた▼4。また、クーリーは家族をフェイス・トゥ・フェイスの親密な結びつきと協力を中心とする「第一次集団」(primary group)に位置づけ、家族の社会化機能を重視した▼5。そしてパーソンズは社会化機能と情緒安定機能――かれのことばでは「子どもの社会化」と「成人のパーソナリティの安定化」――に家族の本来的機能をみた▼6。このような考え方は〈ゲマインシャフトとしての家族〉論と総称すべきものであり、多分に理想的局面――より正確にはイデオロギー的局面――をもっていた。
ところが、この考え方は現在いくつかの現実的局面から挑戦を受けている。第一の局面は共働きによる家族役割構造の変化であり、第二の局面は高齢化によってつくりだされる福祉構造の変化であり、第三の局面はライフスタイル意識による家族形態の多様化である。この三つの局面をぬきにして現代家族を語ることはできない。結論からいうと、この三局面は〈ゲマインシャフトとしての家族〉が現代において幻想あるいは幻影であることを鮮明に提示しているのである。本章ではここに論点をしぼって、家族についての常識的知識を洗い直すことにしたい。
▼1 家族機能についてのスタンダードな説明として、森岡清美・望月嵩『新しい家族社会学』(培風館一九八三年)一九章参照。
▼2 前掲書。
▼3 F・テンニエス、杉之原寿一訳『ゲマイシャフトとゲゼルシャフト――純粋社会学の基本概念』(岩波文庫一九五七年)(上)三五ページ。
▼4 前掲訳書(下)二〇二ぺージ。
▼5 C・F・クーリー、大橋幸・菊池美代志訳『社会組織論』(青木書店一九七〇年)。
▼6 パーソンズ、ベイルズ、橋爪貞雄ほか訳『核家族と子どもの社会化』(黎明書房一九七〇-七一年)。
15-2 家族の役割構造――共働きによる構造変動
性別役割分担
家族の役割構造の基本となっているのは、「男は仕事、女は家庭」「夫は外、妻は内」という性別役割分担である。たとえばある調査によると、九割近くの家庭が「生活費を得る」のを夫(父親)の役割としているのに対して、掃除洗濯・食事のしたく・食事のあと片づけ・家計管理・日常の買い物は、ほぼ九割の家庭が妻(母親)の役割になっている。また、子どものしつけと勉強・親の世話・近所づきあい・親戚づきあいがもっぱら夫の役割という家庭は一割以下である▼1。
性別役割分担はあたかも封建時代の遺物のように論じられることが多いが、日本の場合、「男は仕事、女は家庭」式の性別役割分担が一般化したのは、ちょうど高度経済成長が本格的にはじまった一九六〇年あたりからのことである。家事労働だけに携わるいわゆる「専業主婦」が一般化したのも同じころと考えてよい。もちろん一部の上流・中流の家庭ではずっと早く性別役割分担は存在していたが、多くの一般庶民は農業を中心とする職住一体の生活をしており、ともに家業に従事していた。広い意味での「共働き」だったわけだ。性別役割分担はいわば近代の産物であり、これを日本古来の伝統とみなす考え方は一種のイデオロギーなのである▼2。
六〇年代に〈腰かけ就職→退職・結婚→主婦として出産・育児〉という女性の生活史のスタイルが確立するが、このころから育児を終えた既婚女性の職場進出がさかんになる。いわゆる「M字型就労」のはじまりである。つまり〈腰かけ就職→退職・結婚→主婦として出産・育児→パートタイム〉というパターンである▼3。そして現在、少なく見積もっても八〇〇万組をこえる共働き家族が存在し、これに農業や商工自営をふくめると一五〇〇万組以上の共働き家族が日本に存在する▼4。
この場合の「共働き」は、伝統的な意味での共働きではなく、妻の賃労働者化をともなう共働きのことである。この意味での共働き家族の圧倒的な増加によって、家族のあり方が大きく変わりつつある。
新・性別役割分担と女性の二重役割
共働きの目下の主流パターンは〈夫定職・妻パートタイム〉である。出産と育児が一段落したのち妻がパートタイムとして再就職する形だ。なぜパートタイムかというと、夫の了解をえるさい「家庭内のことをおろそかにしない」という条件をつけられているからである。家事と子どもの世話を専業主婦なみにこなそうとするとフルタイムではむりなケースが多いのである▼5。
この場合の問題点は、家庭の責任は妻が負うという前提に夫も妻も立っていることだ。つまり、夫と妻が対等に家庭責任を負担するものだという認識が希薄なのである▼6。こうして「男は仕事、女は家庭と仕事」という「新・性別役割分担」が成立する。つまり、妻は賃労働者の役割と家事労働者の役割というふたつの役割を同時に背負い込むことになる。
この場合、二重役割を抱えた妻は微妙に役割葛藤を回避するとはいえ▼7、パートタイムではなくフルタイムの労働者として共働きする場合、役割葛藤を起こすのは時間の問題である。というのは、現状において共働き家族の夫は意識面では性別分担に否定的だが、じっさいの家事参加となると、妻が無職の夫とたいして差がないからである▼8。「わかってはいるんだけどカラダが動かない」夫がまだまだ多いということだ。
女性が家庭責任を果たしつつ職業労働者としても責任を果たすべきだという二重役割=二重負担=二重責任が、多くの働く女性を苦しめてきた。ただでさえ二重役割をこなすのにたいへんな思いをしているのに、彼女たちは、職場と家庭の両方から「無責任だ」などと非難されつづけてきた。この不当な状況に対して異議申し立てしようとしたのが、ほかならぬ六〇年代から七〇年代にかけて台頭した女性解放運動すなわちフェミニズムだった▼9。
問題はあきらかに「女性のみが家庭責任をもつ」という考え方にある。すでに実生活にそぐわない性別役割分担意識を変え「男も女もすべての労働者が二重役割・二重労働を行うべき位置にあるのだという認識を確立させていく方向にしかない。女性が家庭責任を放棄するのではなく、男性にも家庭責任を強く要求する必要がある」ゆえんである▼10。
今後、女性の高学歴化と専門職化にともなって、共働きは確実に家族の役割構造を変えることになると予想される。共働きによって家族の再編がうながされつつあるわけだ。
▼1 総理府広報室「家族・家庭に関する世論調査」一九八六年全国調査。湯沢雍彦編『図説現代日本の家族問題』(NHKブックス一九八七年)八一ページによる。
▼2 上野千鶴子『家父長制と資本制――マルクス主義フェミニズムの地平』(岩波書店一九九〇年)。たとえば一九七ページ。要するに、産業界の性別役割分業に対応して家族内の性別役割分担が確立したと考えてよい。
▼3 鹿島敬はこれを「日本型『職』生活」と呼んでいる。鹿島敬『男と女変わる力学――家庭・企業・社会』(岩波新書一九八九年)一三一ぺージ以下。
▼4 布施晶子『新しい家族の創造――「母親」と「婦人労働者」のはざまで』(青木書店一九八四年)四-八ぺージ。なお、この本の巻末には「共働き家族研究文献抄録」がおさめられている。
▼5 鹿島敬、前掲書。これにくわえて税制上の配偶者特別控除(一九九一年時点で非課税限度額の合計は百万円)への考慮が大きく響いている。菅原眞理子は「税制は本来家族のあり方に対して中立的であるべきだが、この配偶者特別控除は女性を家庭中心に生活するよう奨励するものである」とのべ「既婚の女性は一人前の労働者ではなく家計補助者であると位置づける制度」としている。菅原眞理子『新・家族の時代』(中公新書一九八七年)一〇八ぺージ。
▼6 鹿島敬、前掲書一三二ぺージ。
▼7 上野千鶴子、前掲書二一七ページ以下。
▼8 長津美代子「共働きは性役割にどう影響するか――日本の場合」湯沢雍彦・阪井敏郎編『現代の性差と性役割――性別と家族の社会学』(培風館一九八二年)七七ページ。雇用職業総合研究所の調査によると、共働き家庭での家事の九〇パーセント以上を妻が担当しているという。これは先進諸国ではまったく異例のことである。湯沢雍彦編、前掲書九二ページ。
▼9 江原由美子「性別分業論は成立するか――これからの女と男」『フェミニズムと権力作用』(勁草書房一九八八年)一七七-一七八ぺージによる。
▼10 前掲書一七九ページ。なお、少年犯罪・家庭内暴力・校内暴力・登校拒否などの増加の原因を共働きの母親に帰す議論や報道が八〇年代あいついだが、母親の就労が子どものトラブルの直接の原因とみる見方は、社会学の多くの調査研究によって否定されている。その大方の結論は「子どものパーソナリティに及ぼされる影響は、母親が就業しているかどうかではなくて、いかなる質の世話が子どもに与えられているかという問題であること」だという。布施晶子、前掲書三〇-三四ページ。
15-3 家族による看護と介護
家族における老人の介護担当者
共働きとならんで、将来ますます現代家族の大きな問題になるのは老人の介護である。一般に六五才以上を高齢者と呼ぶが、二〇二〇年ごろには八○才代の超高齢者――六○代の「ヤング・オールド」に対して「オールド・オールド」といわれる――が主流になってくる。これらの人びとを家族が介護できるかという問題だ。
これまでじっさいに老人の世話をしてきたのは、もっぱら女性だった。ねたきり老人の介護のじつに八九パーセントが女性によってなされている▼1。「粗大ゴミ」「濡れ落ち葉」という的確な表現で知られる樋口恵子の表現をかりると「女は老いを三度生きる。親の老い、夫の老い、自分自身の老い」それゆえ「老人問題は女性問題」なのである。
ところが、これまで介護の主軸になってきた嫁・妻・娘も共働きなどでずっと家庭にいるわけではない。六〇年代に一気に小規模化した日本の家族は、もはや福祉機能=保健医療機能を果たしえなくなっている。しかも、その家族は地域から遊離し孤立してしまっているために、家族の保健医療機能の点からみると、現代の家族はきわめて不安定かつ脆弱である。
ここから政府や財界のノスタルジックな大家族待望論がでてくる。たとえば「夕べの食卓で孫を抱き、親子三代の家族が共に住むことが、お年寄りにとってもかけがえのない喜びであると思うのであります。……明るい健康な青少年も、節度ある家庭の団らんから巣立ちます」とする一九八二年の中曽根元首相の施政方針演説などはその典型である▼2。介護サービスはきわめてコストのかかる社会資本であり、しかも教育とちがって生産にほとんど寄与しない。そのために社会資本整備の問題が家族というプライベートな問題に解消され、そのなかでの解決を要請するという構図になっている。しかし、これはもはやプライベートな問題ではなく、社会のあり方そのものを変えていくしかない問題だ。
対策の方向性
社会のなにを変える必要があるか。方向性として考えられるのは、さしあたりつぎの三つである▼3。第一に、家族内の性別役割分担を見直し、固定された性役割からの解放を意識面と実践面の両面でおこなうこと。とりわけ夫が家事・育児・介護の担い手であるという自覚をもち実践することが必要だ。つまり、男女の役割分担の相互乗り入れの方向である。第二に、性別役割分担を個々の家族に強いてきた男性型企業文化を再編成する方向。すでにサービス業で多く実施されている看護休暇・フレックスタイムの導入、そして女性・男性を問わず有給の育児休暇・看護休暇を認めていくことも必要だ。総じて労働時間の短縮が求められる。第三に、地域に看護・介護サービス体制を確立すること。現状では老人ホームや医療施設の充実が急務であるが、なによりもそこで働くホームヘルパーや看護職の待遇改善が急がれなければ深刻な事態になることは目にみえている。
▼1 湯沢雍彦編、前掲書一五六ぺージ。
▼2 布施晶子、前掲書二三一ページによる。
▼3 鹿嶋敬、前掲書一九八ぺージ以下と、金城清子『家族という関係』(岩波新書一九八五年)一八六ページ以下による。
15-4 多様に開かれた家族
家族の比較社会学/歴史社会学
家事を女性の当然の仕事と考えたり、老人の世話は家族ですべきだと思うことは自由だが、そのことが結果的に女性に一方的責任を押しつけることになっているという認識までくもらせてはならないだろう。そして、その前提にある家族観に対して科学的な反省をくわえることも市民としてとてもたいせつなことだ。
わたしたちが「家族とはなにか」「家族はどうあるべきか」という問いに接して考える家族像は、一見普遍的なものにみえて、じつはきわめて歴史的な産物である。それを最初に明らかにしたのはフランスの歴史社会学者[社会史研究者]のフィリップ・アリエスだった。アリエスは、わたしたちが自明なものと考えている「子ども時代」がじつは十七世紀末以降に成立したものであり、子どもをイノセントな存在として愛情を注がなければならないとする考え方も近代の産物であることを実証した▼1。この研究以来、わたしたちが普遍的なものとして想定している家族のあり方が歴史的にも文化的にもきわめて特殊な近代特有のものだということ、したがってそれは正確には「近代家族」(modern family)と呼ぶべきものだということがしだいに明らかになっている。
「近代家族」の理念型
落合恵美子によると、「近代家族」は、つぎのような特徴をもつという▼2。
(1)家内領域と公共領域の分離――そもそも家族がプライベートな領域として成立したのは近代になってから。近代市場の成立とともに、市場に参加者である個人を供給する装置として分離して位置づけられるようになった。
(2)家族成員相互の強い情緒的関係――家族成員は強い情緒的なきずなで結ばれている。家族愛が特権的に優先されるのは近代家族特有の現象。その始発点に位置する恋愛結婚もまた近代の産物である。これを「近代ロマンチックラブ・イデオロギー」という▼3。
(3)子供中心主義――家族のもっとも基本的な機能は子どもの社会化にあるとする考え方。
(4)男は公共領域・女は家内領域という性別分業――家族成員は性別により異なる役割をもつ。とりわけ家事労働は家族愛のあらわれとしてとらえられる。
(5)家族の集団性の強化――家族は開かれたネットワークであることをやめて集団としてのまとまりを強める。
(6)社交の衰退――家族は公共領域からひきこもる。
(7)非親族の排除――家族は親族から構成されるとする。非血縁者の排除は近代家族特有の現象。
(8)核家族――家族の基本型は核家族である。
以上のような家族像を普遍的なもの・規範的なものと錯覚すると、離婚の増加や共働きなどの現象が「家族崩壊」にみえてしまう。しかし、これらの現象はむしろ「脱〈近代家族〉化」ととらえた方が理にかなっている▼4。つまり〈近代家族〉がスタンダードとなった時代は終わりつつある。新しい家族への過渡的段階として現代家族をとらえるべきだろう。
ライフスタイルとしての家族
今日ひとりひとりの個人が、それぞれのライフスタイル・生き方をいろいろ選択できるようになりつつある。そうなると、家族の形だけでなく、結婚の形や、男女の関係、個人の生き方も多様化していくことになるだろうし、すでにそうなりつつある。たとえば、つぎのような家族の形もそうめずらしくない。
一時的に別居する家族[単身赴任家族]
通い婚・週末結婚・長距離結婚[職の少ない大学研究者などに多い]
ニュー・シングル[一人家族とか非婚と呼ばれる。シングルといっても、異性の友人がいたり、親と同居したりしている]
子どもをもたない共働き夫婦[DINKS=double income no kids]
離婚による母子家庭・父子家庭[片親家族・単親家庭]
娘の家族と同居する三世代家族[マスオさん現象]
婚姻届を出さないで夫婦別姓を貫く家族[事実婚・別姓結婚]
ステップ・ファミリー[継(まま)家族と訳される。離婚者どうしの子連れ再婚]
このようなさまざまな家族の形が社会のあちらこちらでみられるようになった。いわば〈選択されるライフスタイルとしての家族〉である。その結果、わたしたちは、家族を〈近代家族〉の型にはめてとらえることがもはやできなくなっている▼5。とくに看護職や教職やジャーナリズムに携わる人には、この点を強調しておこう。
最後に、ひとつの方向性を示すものとして、菅原眞理子のことばを引用して終わりたい。「役割分業によって部品化してしまう夫や妻ではなく、弾力的に互いの役割をカバーする適応力をもつこと、血縁で結ばれ同居している家族の間でだけ扶養や援助や感情的サポートを分かちあうのではなく、外部の個人や機関に支えられ、また支えあうネットワークをつくること、そのためには、家庭を社会から隔離するのではなく開かれた場とし、男性も女性も、人間としてトータルな能力をもつことなどが、これからの家族の活性化について不可欠である▼6。」
▼1 フィリップ・アリエス、杉山光信・杉山恵美子訳『〈子供〉の誕生――アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』(みすず書房一九八〇年)。
▼2 落合恵美子『近代家族とフェミニズム』(勁草書房一九八九年)一八ぺージ以下ならびに一五五ページ以下。あわせて金井淑子編『ワードマップ家族』(新曜社一九八八年)も参照した。なお、この本は現代家族について考える上で手ごろな新感覚の入門書。
▼3 上野千鶴子の要領のいい説明をかりると「未婚の男女が恋愛に陥り互いに結婚の約束をする。そして婚礼の床で二人は結ばれる。ついでに言うならこのセックスは再生産(生殖)に結びつくものでなければならないから、この夫婦の結びつきから嫡子が生まれ、二人は幸福な父と母になる。――こういうプロセスが『自然』だとする考え方のこと」上野千鶴子「ロマンチックラブ・イデオロギーの解体」『〈私〉探しゲーム――欲望私民社会論』(筑摩書房一九八七年)一四九-一五〇ページ。ミシェル・フーコーはこれが〈愛-性-結婚〉の三位一体をつくりだしたことを実証した。ミシェル・フーコー、渡辺守章訳『性の歴史I――知への意志』(新潮社一九八六年)。
▼4 落合恵美子、前掲書二二-二三ページ。
▼5 家族を集団ととらえることは自明な常識となっているが、このことから疑って考えてみなければならない。たとえば、一九七〇年代以降の東南アジア研究によると、東南アジア[とくにマレーの農村社会]では家族のあり方がかならずしも集団としてのまとまりをもたず、また特定の家族イデオロギーをもたないため、家族の概念が、出生や結婚のさいに各個人が自分を中心に認知する〈関係の集積〉ともいうべきものになっているという。家族の境界がきわめてルーズなのである。これを「家族圏」という。北原淳編『東南アジアの社会学――家族・農村・都市』(世界思想社一九八九年)二三-二六ページ。
▼6 菅原眞理子、前掲書一一ページ。なお、新しい家族のあり方についての実感のこもったエッセイとして、宮迫千鶴『ハイブリットな子供たち――脱近代の家族論』(河出文庫一九九一年)がある。
増補
家族社会学再入門
森岡清美・望月嵩『新しい家族社会学(四訂版)』(培風館一九九七年)は、データ中心のスタンダード・テキスト。公務員試験などでは必須。データ集としては、湯沢雍彦編『図説 家族問題の現在』(NHKブックス一九九五年)。現代家族に関する最新データを百のテーマに整理した定番データ集の新版。百テーマが見開きになっており、左が解説、右が図表という構成になっている。コンパクトな本だが、あらゆる家族問題が多角的な視点で網羅されている。たとえばゼミの討論資料としても使いやすい本。
それに対して、フェミニズムやエスノメソドロジーなど最新理論を通過した新しい世代の家族社会学としては、山田昌弘『近代家族のゆくえ――家族と愛情のパラドックス』(新曜社一九九四年)。他とくらべると理論志向が強く、考えさせてくれる。
また、落合恵美子『21世紀家族へ――家族の戦後体制の見かた・超えかた』(ゆうひかく選書一九九四年)は、歴史社会学的(社会史的)あるいは変動論的な視点から日本の近代家族について解説したテキスト。「です・ます」調の語り口で、通読しやすいが、「目からウロコ」的な解釈がいろいろある。
結婚の社会学
山田昌弘『結婚の社会学――未婚化・晩婚化はつづくのか』(丸善ライブラリー一九九六年)。結婚難の実態を赤裸々に分析した現代社会学らしい結婚論。ハイパーガミー(女子上昇婚)の厳然たる事実と経済状態とのからみによって、「経済力が高い父親をもつ女性」と「経済力が低い男性」の結婚が困難になるしくみがわかりやすく説明されている。経済階層と男女の差と「魅力の階層」という論点には、たいへん説得力がある。
働く女性
竹信三恵子『日本株式会社の女たち』(朝日新聞社一九九四年)は、働く女性たちの現状を徹底的な取材で描いた力作。著者は新聞記者だが、新聞記者にありがちなその場しのぎの分析ではなく、社会学的によく練り上げられた見識が全編を貫いている。実感のない人(とくに男性)は、まずはここから読んでほしい。
高齢化
日本の高齢化が特殊なのは、それが高速に進んでいることである。この「高速高齢化社会」の到来によって何が生じるか、また、どういう社会を構想すべきなのか。このマクロな視点で高齢化を論じた、金子勇『高齢社会・何がどう変わるか』(講談社現代新書一九九五年)がでて、ようやく推薦できる一書ができた。「高齢化は役割縮小過程である」との観点からの政策提言には社会学的見識を感じる。
なお、よりコンパクトに概要を知りたいときは、金子勇・長谷川公一『マクロ社会学――社会変動と時代診断の科学』(新曜社一九九三年)におさめられた金子の「高齢化」の章が便利である。
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4月 12017

社会学感覚13流言論

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社会学感覚
13 流言論
13-1 非合理的心性のメディアとしての都市空間
クチコミの反乱としてのうわさ
今日の日本のような、情報が大量に生産され、流通・消費される社会――「高度情報社会」においても、ほんとうに人びとがほしがっている知識が供給されていないために、それを補うかのようにさまざまなうわさが発生する。この状況は〈メディアの物神性〉と〈クチコミの反乱〉の対立する地平として、ひとまずとらえることができる。これまで〈メディアの物神性〉についてその内実を考察してきたが、本章では〈クチコミの反乱〉をとりあげ、一対一の対話でもなく、メディア依存の情報行動でもない、コミュニケーションのまったく別の局面に照明をあててみたい。
この局面は「うわさ」「流言」「都市伝説」などと呼ばれる社会現象からなり、「高度情報社会」とか「ハイテク」とか「劇場空間」といったことばで今日語られることの多い現代の都市空間の明るいイメージとは著しい対照をみせている。つまり、それらは人びとが現実に生きている都市空間の非合理的なありようを独特の形式で映しだしているのである。
都市伝説と現代民話
まず、近年日本でも関心を集めている「都市伝説」(urban legends)から題材を求めよう。ジャン・H・ブルンヴァンの『消えるヒッチハイカー』と『チョーキング・ドーベルマン』はそうした素材の宝庫である▼1。
たとえば「消えるヒッチハイカー」は、道ばたでひろった若い女性を車の後ろに乗せて、その子の家のあるという場所まで送ったところ、後ろの座席にいるはずの女性は消えてしまっていたという話である。また、「ボーイフレンドの死」は、夜のデート中、自動車が故障したためボーイフレンドが助けをもとめて外へでていったが、なかなか戻ってこない。女の子は置き去りにされ不安な一夜をすごすが、翌朝になって外にでてみると、車のうしろの木にボーイフレンドの死体がぶらさがっていたという話。「のどをつまらせたドーベルマン」では、ある女性が仕事から戻ると、飼っているドーベルマンがあえいでいたので、すぐに獣医のもとに犬をあずけ、家に戻ってきた。すると獣医から電話で「すぐに家をでて警察を呼べ」と警告された。獣医は犬の手術をして犬が呼吸困難に陥った原因が人の指であることをつきとめ、その指のもち主――つまり侵入者――がまだ彼女の家にいるのではないかと注意したのだった。じっさいに警察が彼女の家を捜索すると、指のない男が気を失っていた▼2。
日本でもこのような都市伝説の研究が始まっており、別冊宝島の『うわさの本』はその一例である▼3。これを読むと、近代的な都市空間が、非合理的な心性の宿る媒体=メディアとして存在することが、若干の恐怖とともに実感できる。
じつは「都市伝説」として注目されている一連の現象について、日本では別の研究系譜がある。「現代民話」論の系譜である▼4。柳田国男の『遠野物語』の現代版というところであるが、その豊富な資料収集には驚嘆してしまう。いずれにしても、人びとの〈語り〉に着目する民俗学的な視点から、現代の都市空間に帯電する非合理的な心性をさぐりだす試みとして学ぶべきことは多い。
現代のうわさ/流言
「都市伝説」のように、人びとが相互に語りあうなかで自然発生的に構成されるコミュニケーション現象を、社会学では一般的に「流言」(rumor)または「うわさ」と呼んでいる▼5。
周知のように、現代の日本社会においても、さまざまなうわさ・流言が語り継がれている。たとえば、若い読者の少年時代に焦点をあわせると、つぎのような有名なうわさがある。いくつご存知だろうか▼6。
「ドラえもん」「サザエさん」最終回のうわさ。
TVモニターの隅に見えかくれする亡霊のうわさ。
松坂慶子の出演するティッシュのCMについてのうわさ。
ファミコンの高橋名人の死亡説。
口裂け女。
なんちゃっておじさん。
もう少し古い七〇年代前半のものとして――
ネコバーガーのうわさ。
井の頭公園カップル破綻説。
トイレット・ペーパー・パニック――一九七三年末から七四年はじめのモノ不足によるトイパー・洗剤・灯油・塩・砂糖の買いだめパニック。
一九七三年の豊川信用金庫の取り付け騒ぎ。
終戦直後までのものとして――
お雇い外国人たちは、女工として集めた処女の血を絞って飲んでいるといううわさ。[明治初め]
西郷隆盛は生きてロシアにわたり、皇太子とともに帰ってくるといううわさ。
味の素の原料はへびだといううわさ。[大正]
一九二三年関東大震災直後の「朝鮮人の襲撃」のうわさ。
終戦直後マッカーサー将軍は日系人だといううわさ。
ことわっておくが、さわぎのもとになったうわさはいずれも事実ではない。
ごく最近さわぎになったうわさとしては、一九九〇年秋から冬にかけて埼玉県草加市から東武伊勢崎線沿線にひろがった外国人労働者についてのうわさがある。これは、犬の散歩にでていた中年夫婦が東南アジア系の浅黒い男たちにおそわれ、夫の目の前で妻が乱暴されたというものだった。母親と娘が乱暴されるというヴァージョンもあった。いずれも事実無根のうわさである。
これらが有名なのは、いずれもマス・メディアによって大きくとりあげられたからである。そのため、うわさ集団は全国規模にわたっている。しかし、本来うわさは、もっぱら身近なところで語られるものだ。たとえば、ゼミや研究室の選択のさい、どの先生の研究室がいいかについてうわさが乱れとぶ。また試験情報についても憶測や先輩の話などがクチコミで伝えられる。それらは事実であることもあれば、そうでないこともある。しかし、多くの人はうわさにもとづいて対策を講じるしかないのである。
オルレアンのうわさ
現代の都市空間を媒体として生じるうわさについて、わたしはまず〈メディアの物神性〉に対する〈クチコミ反乱〉として位置づけておいた。この〈クチコミの反乱〉は、人びとのなかにある「なにか」をあらわしていると考えられる。それはなにか。
社会学におけるもっとも有名なうわさ研究に、フランスの社会学者エドガル・モランの『オルレアンのうわさ』がある▼7。はじめてミニスカートが流行し、ジーンズがまだ一過性の流行と思われていたころ、フランスのある地方都市に発生したうわさを分析した古典的研究である。
この調査のもとになったうわさは、一九六九年五月オルレアンという都市[ロワール県の県庁所在地]でおこった女性誘拐のうわさである。ユダヤ人の経営する最新のオシャレなブティックの試着室で、若い女性が催眠薬の注射をうたれるか、あるいは薬いりのボンボンをあたえられて眠りこまされ、店の奥の地下通路を通って外国に売られるというのである。このうわさはみるみるオルレアン中に広まり、一種のヒステリー状態を生む。ついに名指しされたブティックの前に群衆が集まり、それをマスコミがとりあげたことで、それまで水面下でうごめいていたうわさは「事件」として広く知られることになる。
ところが、この女性誘拐のうわさは、まったくの事実無根だった。つまり現実には被害者はいなかった。
モランは、このオルレアンのうわさには三つのテーマがふくまれているとする。三つのテーマとは、すなわち(1)女性誘拐(2)都市化現象(3)ユダヤ人である。この三つのテーマの複合が、オルレアンのうわさの神話構造を構成しているとする。
すなわち、この地方都市にあって保守的で伝統的な大人たちは、古い街なかに忽然と出現した最先端のブティックを危険なものとみていた。都市化現象は、若い女性たちに危険な自由化をもたらすとかれらは感じていた。つまり、モダンな都市空間は、性の解放を象徴する場所と考えられていたのである。他方、当の若い女性たちは、そうした性の秘めやかさにイマジネーションをそそられていた。いずれにしても、試着室という密室は性への関心を呼びよせた。こうして女性誘拐という古典的な神話が現代的に変奏されたのである。これが最後に古典的なユダヤ人のイメージと結びつき、うわさに信憑性をあたえることになったというわけだ。
神話もしくは物語の変奏
ことわざに「火のないところに煙はたたぬ」というが、「火」は〈うわさされる側〉ではなく、じつは〈うわさする側〉にある、ということを「オルレアンのうわさ」は明確に示している。つまり、曖昧な状況や新しい事態に対する人びとの漠然とした不安やとまどいこそ、うわさの「火もと」なのである。このような漠然とした不安やとまどいからうわさが発生するプロセスで触媒のような働きをするのが、昔からいい伝えられてきた「神話」「フォークロア」あるいは「物語」と呼ばれる「語りのスタイル」である。
「オルレアンのうわさ」の場合、人びとの反感と想像が「女性誘拐」と「ユダヤ人への偏見」といった古典的な物語の構図によって形をあたえられた。その結果、あたかも古典的な神話・物語が「流行の先端をゆくブティックの試着室」という現代的な舞台装置でもって変奏されたかのように現れたのである。
たとえば日本でも、柳田国男の有名な『遠野物語』という説話集がある。これは岩手県遠野で人びとによって語られた話が集められた本だが、このなかに河童の話がいくつかでてくる。河童の話といっても二十世紀初頭の話である。たとえば、河童の子を生んだ女の話がある。その子は恐ろしい姿をしていたので、「生まれるとすぐ切り刻んで一升樽に入れて土の中に埋めた」というのだ。じつは河童とは間男のことである。つまり、不倫によって生まれた子どもや障害のある子どもが生まれたとき、村では河童の子として「処理」するのである。この場合も、村や家の秩序と調和を乱す現象を、伝統的な物語の構図によって整合的にストーリー構成し、それによって人びとがそれなりの納得をえようとしていたわけである▼8。
わたしたちは、このような民話の世界ならいともかんたんに距離をおくことができる。しかし、現代の都市空間にまことしやかに流れる都市伝説やうわさに対しては、なかなかむずかしいのではなかろうか。すでにみてきたように、本質は同じである。
うわさの法則
一般に、流言の発生を左右するのは、状況の「重要性」と「曖昧さ」である。アメリカの社会心理学者ゴードン・W・オルポートとレオ・J・ポストマンはつぎのように定式化している。
流言の発生量=重要性×曖昧さ
つまり自分たちにとってどうでもよいことは流言とかうわさにはならない。また重要なことでも、状況に対する知識が明確であれば流言は発生しない。逆に、適応を要求されている問題状況についての知識が不明確なとき、つまり環境がはっきりと定義づけられていない場合、人びとは不安をもち、この不安から逃れるために、自分たちの共有する〈物語〉が呼びよせられる。こうしてうわさが誕生する。
図式化すると――
曖昧な状況・新しい事態
↓←事態の重要性
それに対する漠然とした不安・とまどい
↓←物語的構図
うわさ
だから、うわさは、言論・思想の自由のない抑圧的な社会――たとえばかつての社会主義国――によく発生したものだった。とすれば、現代日本の都市空間に噴出する流言現象は、人びとがほんとうに知りたいことを知りえていない、考えたいことを考えられないことの反映だろうか。
たとえば、大塚英志は一九八〇年代後半の子どもたちによって語られた一連のうわさに、「今日のシステム的な社会、均質化した都市空間に対し何らかの違和感を抱き、これを破壊しようという子供たちの衝動」をみている▼9。また、本田靖春は東武伊勢崎線沿線の外国人労働者のうわさについて、戦後世代における差別的傾向を指摘している▼10。おそらく、うわさの担い手たちはそうした自覚はないかもしれないが、「火のないところに煙はたたぬ」というときの「火」は、あきらかに〈うわさする側〉にあることはたしかである。
▼1 ジャン・ハロルド・ブルンヴァン、大月隆寛・菅谷裕子・重信幸彦訳『消えるヒッチハイカー――都市の想像力のアメリカ』(新宿書房一九八八年)。行方均訳『チョーキング・ドーベルマン――アメリカの「新しい」都市伝説』(新宿書房一九九〇年)。
▼2 前の二話は『消えるヒッチハイカー』、後の話は『チョーキング・ドーベルマン』にさまざまなヴァリエーションとともに収められている。
▼3 別冊宝島九二『うわさの本』(JICC出版局一九八九年)。
▼4 松谷みよこ『現代民話考』(第一期全五巻・第二期全三巻・立風書房一九八五-一九八七年)。各巻のタイトルを列挙すると『河童・天狗・神かくし』『軍隊』『偽汽車・船・自動車の笑いと怪談』『夢の知らせ・ぬけ出した魂』『死の知らせ・あの世へ行った話』『銃後』『学校』『ラジオ・テレビ局の笑いと怪談』。
▼5 このふたつの概念を区別することもあるが、ここでは同じこととしてあつかい、「都市伝説」はその一形式としておく。
▼6 以下に例示するうわさは、つぎの文献であつかわれているものである。くわしくはそちらを参照のこと。廣井脩『うわさと誤報の社会心理』(NHKブックス一九八八年)。佐藤健二「『うわさ話』の思想史」『うわさの本』前掲書。藤竹暁「マス・メディア時代のうわさ――パニックと神話」中野収・早川善治郎編『マスコミが事件をつくる――情報イベントの時代(有斐閣選書一九八一年)。いずれもわかりやすい「うわさ論」であり、本章でも参照した。
▼7 エドガール・モラン、杉山光信訳『オルレアンのうわさ』(みすず書房一九七三年)。この研究の概要と意義については、杉山光信「モラン『オルレアンのうわさ』」杉山光信編『現代社会学の名著』(中公新書一九八九年)を参照。
▼8 間庭充幸『日本的集団の社会学――包摂と排斥の構造』(河出書房新社一九九〇年)六七-六八ぺージ。
▼9 大塚英志『物語消費論――「ビックリマン」の神話学』(新曜社一九八九年)三一ページ。
▼10 本田靖春「日本は人種差別国か」『暮しの手帖』一九九一年。
13-2 即興的につくられるニュース
うわさについての常識
そもそも、うわさとはなにか?うわさをコミュニケーション現象として社会学的にとらえなおしてみよう。
常識では、うわさは「連続的伝達における歪曲」と思われている。人から人へとクチコミで伝達されるプロセスにおいて内容がしだいに歪曲されてくるといった「伝言ゲーム」のイメージである。
しかし、最近の社会学では、このような考え方をとらなくなってきた。というのは、この前提には、コミュニケーションを直線的なプロセス――つまり〈情報の移転〉ととらえる伝統的かつ機械論的な見方があるからだ。そのために、最初の内容が「歪められる」として、うわさを暗黙のうちに「正常でない病理現象」と考えてしまっている。暗黙の価値判断がすでにふくまれてしまっているのだ。これはあまり科学的ではない。
ニュースの一形式としてのうわさ
そこで最近の社会学では、「即興的につくられるニュース」(improvised news)としてうわさをとらえている。タモツ・シブタニの定義によると「あいまいな状況にともに巻き込まれた人々が、自分たちの知識を寄せあつめることによって、その状況についての有意味な解釈を行おうとするコミュニケーション」である▼1。
シブタニによると、一般に人びとが自分たちの行動を決めるために求める知識――すなわちニュース――は、ふたつの経路[チャネル]でえることができる。制度的チャネル[公式的]と補助的チャネル[非公式的]である。たとえば、マス・コミュニケーションは制度的チャネルであり、クチコミは補助的チャネルである。通常、人びとは制度的チャネルを通じてニュースを知る。しかし、制度的チャネルが人びとのニュース欲求を満たさなくなったとき、人びとはクチコミという補助的チャネルを使ってニュース欲求を満たそうとする。たとえばそれは、災害によって制度的チャネルが全面的にマヒしたときであったり、検閲や特定集団によるメディア支配によって制度的チャネルのニュースが信頼できないときであったり、あまりに事件が劇的なのでニュース欲求が飛躍的に高まったときであったりする。
このようにニュース欲求が、制度的チャネルで供給されるニュースの量を上回るとき、うわさが生じる▼2。だから、うわさは人びとが生活の変化になんとか適応しようとする努力の結果であって、病理現象でもなんでもない。
うわさとの関わり方
ここで重要なのは、流言とかうわさというものは〈人びとが環境把握のためにおこなう集合的な解釈の試み〉だということだ。集合的な「状況の定義づけ」すなわち「人びとが共同しておこなう即興の状況解釈▼3」なのである。
このプロセスのなかで、人びとはさまざまな参加の仕方をする。人びとは「伝達者」「解釈者」「懐疑者」「主役」「聞き役」「意思決定者」として、うわさの形成に参加する▼4。これらの役割を担った人びとの相互作用の結果として、ことばとしてのうわさが成立するわけだ。わたしたちは、うわさの〈ことば〉としての側面にとらわれがちだが、むしろ〈相互作用〉としての側面をみていくべきなのだ。そうすれば、うわさが集合的な問題解決の一形式であることがわかる。環境になんらかの変化が生じると、かならずうわさが発生するのは、問題状況に対応するために人びとが活発に相互作用するからなのだ。
うわさの合理性
わたしたちは必要や自然な反応としてうわさに参加するが、ひとたびうわさについて論じるとなると、とたんにきびしい批評家となってうわさを愚かなことと非難する。自分たちがしていることに目を向けず、他人ごととしてみてしまいがちである。しかし、そのような態度が〈明識〉から遠いのはあきらかだ。
これまでのべてきたように、うわさは社会のなかで一定の機能を果たしている。都市伝説のように、それを〈語り-聞く〉関係のなかで連帯性を高めるタイプもあれば、災害流言のように、結果的に防災意識を高めるものもある▼5。中高校生によるマス・コミュニケーションを対象とするうわさは、マスメディアの提示する表層文化が巧妙に死を排除していることへの抵抗でもある。また、うわさは制度的チャネルが信頼できないか機能していない状況下における緊急避難的な行動である。したがって、うわさにはうわさなりの合理性があり、それはジャーナリズムがもっている合理性や政治経済組織がもっている合理性と同じものではないにせよ、資格において同等なものなのだ。ただ現代社会が機能的なシステム合理性を機軸にする社会であるために、それ以外の合理性――うわさや宗教など――があたかも非合理的なことかのように映じるだけなのである。
このようにとらえかえすならば、うわさを一種の集合的な〈知識構成過程〉と位置づけることも可能になる。科学的知識のように経験的に検証されたものではないし、ジャーナリズムの供給するニュースのように組織的に構成されるのでもなく、宗教の教義のように一貫した絶対的相貌で立ちあらわれるものでもないが、うわさは人びとが問題状況に対して集合的に構成し、かつ再構成しつづける〈知識〉のひとつの形式なのである。
▼1 タモツ・シブタニ、広井脩・橋元良明・後藤将之訳『流言と社会』(東京創元社一九八五年)三四ページ。
▼2 前掲訳書八八ぺージ。
▼3 前掲訳書四二ページ。
▼4 前掲訳書三一-三二ぺージ。
▼5 廣井脩、前掲書。
増補
うわさ研究入門
本編では思いつくものを並べておいただけだが、うわさの素材は無数である。うわさを集めた本は九〇年代になってちょっとした出版ブームになっており、枚挙にいとまない。ここでは一冊だけあげておく。池田香代子・大島広志・高津美保子・常光徹・渡辺節子編著『ピアスの白い糸――日本の現代伝説』(白水社一九九四年)。
うわさ研究の場合、素材収集よりも、それをどう解読するかという方がむずかしい。現代的なセンスをもった日本の社会学者による解説書が待ち望まれていたが、最近一気に出版されている。川上善郎『うわさが走る――情報伝播の社会心理』(サイエンス社一九九七年)は、最初に読む研究入門として最適。うわさが伝言ゲームのようなものでなく状況の解釈であるという、現在のスタンダードな理論から整理されている。おそらくうわさのあり方を一変するかもしれないネットワーク上のうわさにも言及されている。松田美佐『うわさの科学』(KAWADE夢新書一九九七年)と、川上善郎・佐藤達哉・松田美佐『うわさの謎』(日本実業出版社一九九七年)も読みやすく、このあたりから入っていくと無難である。
社会心理学的なアプローチ以外にも、うわさ研究のやり方はある。とくに社会史的なアプローチは社会学的研究としても重要だ。その事例として、松山巌『うわさの遠近法』(講談社学術文庫一九九七年)。
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4月 12017

社会学感覚11 マス・コミュニケーション論

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社会学感覚
11 マス・コミュニケーション論
11-1 コミュニケーション・メディア
メディアとはなにか
コミュニケーションにはなんらかのメディアが不可欠である。メディア(media)は「媒介するもの」の意味で「媒体」と訳される。
たとえば、対話においては話しことばが主要なメディアであり、ノンヴァーバルな側面に注目すると、人間の身体がコミュニケーションのメディアである。しかし、現代人は自分の身体をメディアとしてのみコミュニケートするわけではない。さまざまな人工的・技術的な手段を媒介にして複雑なコミュニケーションを展開する。それはたとえば楽器であり新聞であり雑誌でありテレビでありラジオであり電話でありマンガや写真やパソコン通信であったりする。
これらのメディアはそれぞれ独自の特性をもっており、それがコミュニケーションの内容を規定する。たとえば、同じ友人との対話でも、喫茶店でのおしゃべりと深夜の電話でのおしゃべりがおのずとちがったものになるように、また大学教授の講義が同じ教授の書いたテキストとは相当異なる印象をあたえるように、メディア特性という「形式」がしばしばコミュニケーションの「内容」を規定する。その意味で、マーシャル・マクルーハンのいうように「メディアはメッセージ」なのである▼1。
メディア特性
いくつかの代表的なコミュニケーション・メディアの特性をおもに日本のメディア状況のなかで概観してみよう▼2。
(1)書籍――グーテンベルクの発明した印刷技術にもとづく活字メディア。基本的に多品種・少生産であり、それが受容される過程である読書行為[多くは黙読]」はプライベートにおこなわれる。「読書とは、文字から読み取る意味を読者がイメージとして具体化し、そのイメージに自ら反応する行為」である▼3。したがって読者には一定のリテラシー[知識や想像力や能動性]が要求される一方、内容は一般的なものからごく特殊なもの・高度なものまで乗せることができる。
(2)新聞――定期的[毎日]かつ大量に提供され、世論形成と密接な関係をもつ公共性の高い活字メディア。もともと党派性・政治性の強いメディアであったが、商業性との関連で現在は「客観報道主義」を掲げる。一般に信頼性[メディアとしての権威]は高い。一種の情報パッケージとして、いつでも接触できる。経済性にすぐれ、宅配制によって確実に読者に到達する。また、ななめ読みや見出しの効果によって短時間に内容を把握できる一覧性にもすぐれている。広告以外のすべての紙面が原則的にジャーナリズムを目的とする。
(3)映画――コンサートのように観覧の時間と空間が限定され、劇場で集合的かつ集中的に鑑賞される映像メディア。その意味で非日常性をともなう。芸術性・訴求力にすぐれるが、テレビやビデオといったメディアに乗せられた場合は「日常化」をまぬかれない。
(4)ラジオ――かつての高い公共的性格が弱まりプライベートな性格を強めつつある放送メディア。純粋に音声だけなので仕事場や自動車・若者の個室などで〈ながら〉的に聴取されることが多い。目下多局化が進行中のFMは、高い音質によって音楽文化の成熟と密接に連動している。
(5)テレビ――日本では「視聴率一パーセント百万人」といわれるほど多数の受け手が存在する放送メディア。高度な技術と資本が必要で、しかも国家による統制が強い。日本人のメディア接触率のトップ。視聴についての特殊なリテラシーを要求されない。視聴覚を駆使し反復することによって視聴者に強いインパクトをあたえることが可能。速報性と臨場性にすぐれる。
(6)電話――音声による日常的な双方向メディア。もっぱら音声によるために、電話コミュニケーションはどちらかがかならずしゃべっていなければならない。これは掟のようなもので、その点で電話は「一瞬たりとも沈黙を許さないメディア▼4」である。また日常的な実用的双方向メディアという点で、今後のコミュニケーションのあり方を考える上でもっとも重視すべきモデルは、新聞でもテレビでもなく、おそらく電話だと思われる。というのも、一九八五年の電電公社の民営化による電気通信の自由化によって本格的な「ニューメディア」時代が到来し、双方向コミュニケーションが身近になったからである。
(7)情報通信ネットワーク――すでに企業組織などの中間的コミュニケーションにおいて重要な役割を担っている電子通信メディア。本質的に双方向的であり、事実上〈送り手-受け手〉図式は妥当しない。〈ホスト-端末〉というべきか。当然「コンピュータ」と「情報」がこのメディアのキーワードとなる▼5。
メディア特性というものはもともと歴史的なものであり、ハードウェアによって一義的に決まるわけではない。他のメディアとの関係もそのメディア特性を規定することを忘れてはならない。たとえば、ラジオがプライベートなメディアとしての特性をもちはじめたのはテレビの普及のためだった▼6。そして現在では今度はテレビがビデオソフト・テレビゲーム・CATVなどによってブラウン管を占領されつつあり、テレビ局の用意した既成の番組を一家団らんで観るといった構図がくずれつつあるのは周知の事実である。また、かつては緊急の知らせに使われた電報は、現在慶弔専用メディアといってよい使用状況にある。
わたしたちは日常生活においてこのようなメディア特性をあまり意識しないで利用しているが、キャンペーンや広告にたずさわる人びとはメディア特性に対してきわめて慎重に考慮している。たとえば、高感度な若者を対象にするときは民放FMを使い、ある特定の興味をもつ人びとを対象にするときは専門性の高い雑誌を使うとか、企業理念を詳しく伝えたいときは信頼性の高い新聞に全面広告を掲載するとか、一般世帯向け商品であれば複数メディアで集中的に広告する「メディアミックス」という技法を採用するといったぐあいだ。
マス・コミュニケーションの特質
一般に「マスコミ」と呼ばれるマス・コミュニケーション(mass communication)とは、書籍・新聞・雑誌・CD・映画・ラジオ・テレビ・ビデオなどのマス・メディアを媒介したコミュニケーションのことである。
マス・メディアと総称しても、活字メディア・音声メディア・映像メディアと内実はさまざまである。しかし、それらにはおおよそつぎのような質的な特殊性――パーソナル・コミュニケーションならびに中間的コミュニケーションとの質的な差異――がともなうという点で共通点がある。
(1)特殊かつ複雑な技術と法的規制が介在するため、コミュニケーションの始発者[送り手]は、個人ではなく、専門的にこれをおこなう特定の組織であること。
(2)他方、受け手(audience)となるのは、不特定多数で匿名的かつ非組織的な「大衆」(mass)である。一定の代価・契約・装置といった基本条件を備えさすれば、原則的にだれでも受け手となることができる公開性をもつ。
(3)送り手と受け手の役割は固定されており、原則的に役割交換されることはない。このため、そこでおこなわれるコミュニケーションはその本質である相互作用性が後景に退き、一方向的となる。
(4)コミュニケーションの内容は、使用価値・交換価値をもつ「商品」として流通する。そのさい、送り手は商品の「生産者」であり、受け手は商品の「消費者」である。
マスコミ研究の諸分野
マス・コミュニケーションを研究する分野を通例「マスコミ論」と呼ぶ。これは大きく分けると「新聞」「放送」「出版」「広告」のメディア別に研究されることが多い。その一方で、マス・コミュニケーション過程では〈送り手-受け手〉図式が明確なために、送り手に関する研究と受け手に関する研究とにも分けることができる。前者を「伝達過程論」、後者を「受容過程論」という▼7。本章では、オーディエンスとしてのわたしたち自身の姿を認識するために受容過程論を中心に説明しよう。伝達過程論については「ジャーナリズム論」として次章で説明することにする。
▼1 マーシャル・マクルーハン、後藤和彦・高儀進訳『人間拡張の原理――メディアの理解』(竹内書房新社一九六七年)。この本は最近別の翻訳でも読めるようになった。栗原裕・河本伸聖訳『メディア論』(みすず書房一九八七年)。マクルーハンは六〇年代後半ブームになったことがあるものの、その後しばらく注目されなかった。ところが最近になってメディアそのもののもつ効果に注目する研究がさかんになり、先駆的な業績として再評価されている。
▼2 マクウェール、竹内郁郎・三上俊治・竹下俊郎・水野博介訳『マス・コミュニケーションの理論(新曜社一九八五年)第一章参照。とくに二四-二五ページの表に注目。マクルーハンの課題意識を受けて現代的なメディア論を展開したものとして、渡辺潤『メディアのミクロ社会学』(筑摩書房一九八九年)。電話・オーディオ・写真・テレビ・ペン・活字をとりあげている。現代のメディア状況をとらえるうえで多くの示唆をあたえてくれる。
▼3 渡辺潤、前掲書一八五ページ。
▼4 渡辺潤、前掲書四一ページ。なお渡辺は電話が疑似的性関係をつくりだすことも指摘していて興味深い。
▼5 この分野については多くのビジネス書が洪水のようにあふれていて戸惑うが、社会学の見地からこの分野をコミュニケーション論として展開した信頼しうる研究として、新睦人『情報社会をみる眼――コンピュータ革命のゆくえ』(有斐閣一九八三年)。
▼6 この点については室井尚『メディアの戦争機械――文化のインターフェース』(新曜社一九八八年)が興味ある考え方を提示している。「VIインターフェースの時代」を参照。
▼7 マスコミ論についての入門書は多いが、もっとも網羅的で信頼性の高いものとして、竹内郁郎・児島和人編『現代マス・コミュニケーション論――全体像の科学的理解をめざして』(有斐閣一九八二年)。また、マクウェール、前掲訳書もスタンダードなもの。
11-2 マス・メディアの影響
マス・メディアの影響は絶大か?
マスコミ論の大問題は「マス・メディアの影響」の問題である。マス・コミュニケーションは〈送り手-受け手〉の役割が固定した一方向的なコミュニケーションである。それだけに送り手と受け手のあいだの非対称的関係の実態が問題となるわけである。
この問題についての社会学的研究はかれこれ七十年以上つづけられているが、じつはその結論はこれまで二転三転してきた。そのおもな原因は、第一にマス・メディアの発達が著しいスピードで進んだことである。二十世紀は「マス・メディアの時代」である。レコードが大量生産されラジオ放送が開始されテレビが生まれたのは他ならぬ二十世紀である。研究はその足跡を後追いするのに精一杯だった。第二に、マス・コミュニケーションにおいて送り手の存在は明確だが、受け手の方はあまりに大量かつ多様であり、これを科学的に観察・調査するのはたいへんにむずかしいからである。なによりも費用がかかる。それにドラスティックな結論がなかなかえられないのである。
というわけで「マス・メディアの影響」は自明なようにみえて、じつはなかなかの難問なのであるが、そのおおよその結論はメディア状況に応じて、つぎのように変化してきた。
(1)強力効果説→(2)限定効果説→(3)複合影響説
強力効果説[弾丸理論・皮下注射効果モデル]
わたしたちはマス・メディアの影響は絶大であると考える。これは「常識」である。なぜならわたしたちはマス・メディアがなければ世界のできごとばかりでなく身近な地域のできごとさえ知ることができないからである。裏を返すと、わたしたちはそれほど無力な存在なのだ。
ラジオ放送が本格的に始まった一九二〇年代以来のマスコミ研究者も、その研究の初期においてそう考えた。マス・メディアの放つメッセージがピストルの弾のように人びとの心を直撃するというイメージでマス・メディアの影響を過大にとらえた。そのような考え方を「弾丸理論」(bullet theory)という。またマス・メディアの発するメッセージが直接に個人の内面に注入されるというイメージから「皮下注射効果モデル」(hypodermic effect model)とも呼ばれる。
このような強力効果説には明確な社会的背景があった。
(1)一九三三年ドイツでヒトラーのナチスが政権をとり、ラジオ・新聞・映画といった当時のマス・メディアを完全に掌握してしまうことによって、大衆の支持を確立させた。ヒトラーは当初からマス・メディアを巧みに利用していた▼1。一方、ルーズヴェルトも一九三〇年代に「炉辺談話」としてラジオを政治的に利用し一定の効果を上げていた。
(2)オーソン・ウェルズが一九三八年一〇月三〇日にCBSラジオのドラマのなかで「火星人がアメリカに侵略し光線であたりを焼き払いながらニューヨークに向かっている」と放送した。これを本当のニュースとまちがえた推定約百万人の人びとが神に祈ったり家族を助けに走ったり救急車や警察を呼んだりしてパニックになったという▼2。
(3)第二次大戦中には戦意高揚のためアメリカでもプロパガンダ[政治宣伝]がマス・メディアを駆使してさかんにおこなわれた。なかでも一九四三年九月二一日朝八時から次の日の午前二時まで、戦時国債キャンペーンのため人気女性歌手ケイト・スミスを使ってラジオのマラソン放送がおこなわれた。その結果、たった一日に三九〇〇万ドルという並外れた額の戦時国債を売り上げた▼3。
これらの歴史的事例はことごとくマス・メディアの巨大な力を証明するかのように立ちあらわれたのだった。
のちにこの考え方を修正することになるエリフ・カッツとポール・F・ラザースフェルドは、このような強力効果説の基本前提をなす論点が二点あると指摘している。第一に、マス・メディアから流れでるメッセージを受け取る人びとは何百万というバラバラな原子としてのマス=大衆であるという仮定。第二に、あらゆるメッセージが直接的かつ強力な刺激となって個々の人間に無媒介な反応をひきおこすという仮定である▼4。これは今日でも一般の人びとの常識的なマスコミ観の根底にある想定であるが、このような素朴な認識から、一方でマス・メディアを原子爆弾にたとえる見方もでてくるし――だから法律できびしく規制しなければならないという意見になる――他方で民主主義の輝ける未来を約束するものと賛美する見方もでてくることになる。
ところが、一九四〇年のアメリカ大統領選挙におけるマス・メディアの影響について実証的に調査をしてみると、強力効果説の基本前提はどうもあやしいということになってきた。つまり、受け手の人びとはバラバラな大衆でもないし、マス・メディアの発するメッセージをそのまま受け入れたりしないという結果がえられたのである。こうして素朴な強力効果説はみごとにくつがえされてしまう▼5。
限定効果説[パーソナル・インフルエンス論]
一九四〇年代なかごろから一九六〇年代あたりまで、マスコミ研究は一般常識から離れ「限定効果モデル」(limited effects model)をとるようになる。強力効果説がもっぱら観察にもとづいていたのに対して、限定効果説は大規模な実証的調査研究にもとづいていた。
限定効果説の重要な論点はつぎの三点である▼6。
(1)マス・コミュニケーションの影響は絶大なものではなく限定的な効果しかない。
(2)というのは、マス・コミュニケーションは受け手に対する効果の必要十分な要因として作用するのではなく、じっさいにはさまざまな「媒介的要因」の連鎖のなかで機能するからである。
(3)マス・コミュニケーションは、受け手の意見や態度を「変改」(conversion)させるよりは、むしろ既存の意見や態度を「補強」(reinforcement)する傾向がある▼7。
ここで重要なのは、さまざまな「媒介的要因」の再発見である。そのおもなものはつぎの三点である。
(1)選択的受容
人はだれでも、自分に都合の悪い話は聞かないようにするものだ。よしんば聞いたとしても、自分に都合のよいように解釈する。また、都合のよいことはいつまでも覚えているものだ。これはマス・コミュニケーションについても当てはまる。
説得以前の受け手の状態――たとえば性・年齢・学歴・職業・意見・態度・知的水準・信念・感情・趣味・関心など――を「先有傾向」(predispositions)というが、マス・コミュニケーションにおいて受け手は自分の先有傾向にとって好意的あるいは同質のコミュニケーション内容にふれようとする傾向がある。これを「選択的接触」(selective exposure)という。よくいわれることだが、商品の広告を一番よく注意してみている人は広告されている商品をすでに買った人である。喫煙者は肺ガンと喫煙の密接な関係について書かれた記事を読もうとしないものだ。この選択的メカニズムは「接触」だけでなく「認知」「記憶」についても働いている。これらをまとめて「選択的受容」という。これがあるためにマス・メディアの思惑はしばしばはずれるのである。
(2)準拠集団
受け手の先有傾向を規定する大きな要素は、個人が自分を関連づけている集団の規範である。個人の意見・態度・信念・関心といったことがらは、じつはそのような集団の規範にもとづいていることが多い。このように個人の態度や判断の基準となる集団を「準拠集団」(reference group)という▼8。
たとえば、ボーイスカウト活動を批判したニュースに接した少年たちのうち、ボーイスカウトを準拠集団とする少年たちはますます積極的に活動するようになったという。つまりメディアの意図とまったく逆の効果――これを「ブーメラン効果」という――になったのである▼9。一方、そうでもない少年たちには効果的に作用したという。「ボーイスカウト」の部分を自分のコミットしている特定の学校や企業や政党や宗教団体に換えてみるとわかるように、準拠集団はマス・コミュニケーションの選択的受容の基準を提供する。
(3)コミュニケーションの二段階の流れ
マス・メディアからのコミュニケーションはいきなり社会の成員を直撃するのではない。じっさいには、まずオピニオン・リーダー(opinion leader)に流れ、そしてかれらから、比較的活動的でない人びと[追随者(followers)]へ流れることが多い。オピニオン・リーダーとは、マス・メディアをより多く利用し、社交性が高く、他人に影響力をもったり、情報源やガイドとしての役割をもっているという自覚をもつ人びとのことで、マス・コミュニケーションの中継機能を果たす。投票・流行・買い物・映画など分野によってそれぞれ異なるオピニオン・リーダーが存在する。オピニオン・リーダーは情報や影響をあたえるだけでなく、みずから積極的に情報を求め、影響を受けようとする。
このさいオピニオン・リーダーから追随者への影響を「パーソナル・インフルエンス」(personal influence)というが、人びとの意見を変える力をもっているのはマス・メディアではなく、じつはオピニオン・リーダーのパーソナル・インフルエーンスなのである▼10。
以上のような媒介的要因の再発見によって「弾丸理論」は崩れ、より複雑なメカニズムが立ちあらわれた。この転換はつぎのように考えることができる。第一に、「受け手」といっても結局「社会」にほかならないということの再発見。第二に、マス・メディアの影響の「結果」とみえた現象は、じつは受け手側ですでに醸成されてきた先有傾向をマス・メディアが「補強」したものにすぎないとみなせること。つまり原因と結果が逆だったと考えることもできるわけだ。
複合影響説
限定効果説が学界で定着し終えた一九六〇年代は、同時にメディアの転換期でもあった。いうまでもなくテレビの普及がそれである。これによってマス・コミュニケーション状況が大きく変わった。それにともなって限定効果説への違和感も高まり、さまざまな異論が生じてきた。その結果、一九七〇年代なかごろあたりから、マス・メディアの影響についての学界の潮流はふたたび一転することになる。それをここでは「複合影響説」と総称することにする▼11。
複合影響説は基本的にマス・メディアの影響力を大きくとらえる。その点で初期の単純な強力効果説と軌を一にするけれども、もとのさやへもどったと考えるべきではない。むしろ、それは強力効果説と限定効果説に共通していた理論的単純志向を実証的かつ理論的に修正し相対化する洗練のプロセスととらえるべきだ。この観点から複合影響説のいくつかの研究をみてみよう▼12。
(1)ニュースの広がりのJ曲線(J-curve)
ニュースで報道された事件には広がり方の異なる三つのタイプがある。a重要性は低いが、少数の人びとには大きな意義をもつ事件。b一般の人びとが重要と認める事件。c緊急かつ重要かつ劇的な事件。類型1のような事件は、利害関心のある特定の人びとが選択的にマス・メディアから知覚し、とりわけ注目しなかったその他の人びとにパーソナル・コミュニケーションによって普及する。コミュニケーションの二段階の流れ理論が該当するわけだ。ところが、通常のニュースである類型2のような事件では、人びとはマス・メディアから情報をえてしまうと、あえて他の人に伝えたりしない。それだけの理由に乏しいからである。しかし、ケネディ暗殺事件(一九六三年)のような類型3の事件になると、メディアから情報をえた人びとも積極的に他の人びとに伝えようとする。その結果、劇的な事件ほどメディアよりもパーソナル・コミュニケーションによって知る人が多くなるという現象が生じるのである。じっさいにニュースであつかわれた事件について、ヨコ軸に事件を知った人びとの割合をとり、タテ軸にメディア以外から知った人びとの割合をとって位置づけてみると直線にはならないでJの字のようなカーブを描く。このように「二段階の流れ」は類型1と類型3には当てはまっても類型2には当てはまらないことになる。類型2は通常のニュースと考えられるから、一般に人びとはマス・メディアから直接事件を知るのである。
(2)予防接種効果(priming effect)
まったく新しい論点についてはマス・メディアは大きな能力をもつ。のちに接触するマス・コミュニケーションの先有傾向となる。また、あるニュースの受け取られ方は、直前に流されたニュースによって左右される。
(3)普及過程研究(diffusion process)
新しいアイデアを採用する過程において、早期採用者はマス・メディアのインパクトを強く受けるが、後期採用者はとくにその意思決定の終盤でパーソナル・コミュニケーションによって強く影響される。
(4)議題設定機能(agenda-setting function)
マス・メディアが政治の過程で独自の機能を果たしていることは周知の事実である。しかし、その機能が受け手を自民党支持者から社会党支持者に突如「転向」させるといったことでないのは、限定効果説の主張するところである。マス・メディアが独自の――しかも強力な――機能をもっているのは、「どう考えるべきか」ではなくて「なにを考えるべきか」に関してなのである。マス・メディアは「今なにが問題なのか」という争点=議題を設定することについては強力な影響力をもつ。そしてマス・メディアの強調の大小が人びとに問題の重要性を認知させる▼13。
(5)沈黙のらせん(spiral of silence)
多くの人びとは孤立をおそれて、意見を表明するさいに、どれが多数意見・優勢意見かを確認する。もし自分の意見が少数派・劣勢であれば、孤立を避けるために意見表明は控えてしまう。逆に多数派・優勢意見であると、意見表明の積極性が増す。そのさい、多数派か少数派か・優勢か劣勢かの判断の基準となるのがマス・メディアである。マス・メディアが特定の意見を多数派・優勢意見として提示することによって、反対意見は表明されにくくなり、そのため反対意見はますます少数派として認知されることになる。多数派はますます多数に、少数派はますます少数になる。「らせん」とはこのような相乗的累積的増幅過程をさす。マス・メディアがこのように「意見の風土」を形成するのに大きな力をもっているのは、遍在性・累積性・共振性をもっているために受け手の選択的メカニズムがうまく作用しないからである▼14。
(6)文化規範説(cultural norms theory)/培養分析(cultivation analysis)
人びとは、なにが正常でなにが認められていないかについて、映画やテレビ・ドラマなどのマス・メディアを参照する。といっても、ある特定の作品が直接影響をあたえるわけではない。マス・メディアは長期的かつ累積的かつ非意図的に人びとに行動の基準を提供するのである。その意味で、基本的に役割の学習過程である社会化に対してマス・メディアは一定の影響をおよぼしていると考えられる。一般にテレビのえがく世界は現実とは異なる相対的に独自の世界であるが、それらが徐々に人びとに共有されている価値観や観念を〈培養〉する。
視点の転換
これまで〈強力効果説→限定効果説→複合影響説〉という学説上の変化をみてきた。この変化のなかには、テレビの普及といったメディア側の要因だけでなく、いくつかの視点の転換が起こっている。
第一に、「意図的効果」から「非意図的影響」への転換がある。一般に「効果」の概念は送り手の意図がいかにうまく達成されるかという観点をふくんでいる。しかし、これはマス・コミュニケーションのさまざまな活動のうちのひとつの形式にすぎない。これまで研究者はプロパガンダやキャンペーンなどの「説得的コミュニケーション」にとらわれすぎていたようだ。強力効果説も限定効果説も、プロパガンダや説得的コミュニケーションが受け手の態度にどのような影響をあたえるかというきわめて限定的な研究――これを「キャンペーン効果」という――を「マスコミ研究」全般ととりちがえていたふしがある▼15。
第二に、「短期的」効果から「長期的・累積的」影響への転換である。強力効果説にせよ限定効果説にせよ、受け手の意見と態度の短期的変容に焦点をしぼりすぎていた。タイムスパンがきわめて短かった▼16。しかし、近年になって累積的効果が顕在化する段階を迎えたこともあり、より長期的・累積的な影響が問題となってきた。文化規範説や培養分析はその一例である。
第三に、受け手の「態度変容」から「認知」への転換である。キャンペーン効果の場合、そのキャンペーンによって人びとの態度や意見がどう変わったかに焦点が当てられていた。そのためメディアの影響力が過小評価される結果になったわけだが、議題設定機能理論にはっきり示されているように、マス・メディアは環境認知に関しては非常に大きな力をもっている。認知的側面に着目することでマス・メディアの影響の実態がより鮮明に浮かび上がってきた。
このように、マス.メディアの影響は研究が進むにつれ、ますます複合的なものとして立ちあらわれる。しかし、注意しなければならないのは、この複合性の主たる源泉は、すでにみてきたように、マス・メディアの側にあるというより、むしろ受け手の側にある。どう受け取ったか――ここでもコミュニケーションを最終的に決定するのは送り手ではなく受け手なのである。
▼1 この点については、ヒトラーの腹心の部下で宣伝大臣のゲッベルスに焦点をあてた平井正『ゲッベルス――メディア時代の政治宣伝』(中公新書一九九一年)がくわしい。
▼2 キャントリル、斉藤耕二・菊池章夫訳『火星からの侵入』(川島書店一九七一年)。
▼3 ロバート・K・マートン、柳井道夫訳『大衆説得――マス・コミュニケーションの社会心理学』(桜楓社一九七三年)。
▼4 E・カッツ、P・F・ラザースフェルド、竹内郁郎訳『パーソナル・インフルエンス――オピニオン・リーダーと人びとの意思決定』(培風館一九六五年)四ページ。
▼5 B・ベレルソン、P・F・ラザースフェルド、H・ゴーデット、有吉広介監訳『ピープルズ・チョイス』(芦書房一九八七年)。
▼6 限定効果説の総まとめとして、J・T・クラッパー、NHK放送学研究室訳『マス・コミュニケーションの効果』(日本放送協会一九六六年)。
▼7 「変改」ということばは、いささか奇異に思われるかもしれない。「転換」「変換」「切り換え」とも訳されることばだが、ここではむしろ「転向」とか「改宗」の意味である。たとえば共和党支持者がマス・メディアとの接触によって突然民主党支持者に転向するということはあまりないということだ。
▼8 準拠集団の特性については14-2参照。
▼9 ブーメラン効果については、ロバート・K・マートン、森東吾・森好夫・金沢実・中島竜太郎訳『社会理論と社会構造』(みすず書房一九六一年)四七四ページ以下参照。
▼10 E・カッツ、P・F・ラザースフェルド、前掲訳書。
▼11 エリーザベト・ノエル-ノイマンの問題提起以来、この新たな諸潮流を「強力効果説への回帰」と呼ぶことが多いが、本書ではあえて「複合影響説」と呼ぶことにする。その理由については後論参照。E.Noell-Neumann,Return to the Concept of Powerful Mass Media,in:Studies of Broadcasting 24.
▼12 効果研究の変遷と個々の理論については次の文献を参照した。D・マクウェール、S・ウィンダール、山中正剛・黒田勇訳『コミュニケーション・モデルズ――マス・コミ研究のために』(松籟社一九八六年)。マクウェール、竹内郁郎・三上俊治・竹下俊郎・水野博介訳『マス・コミュニケーションの理論』第七章。竹内郁郎・児島和人編『現代マス・コミュニケーション論――全体像の科学的理解をめざして』第三・第八章。林進編『コミュニケーション論』(有斐閣一九八八年)第四章。
▼13 たとえば、中曽根首相時代の一九八七年に売上税が世論を二分した。のちに消費税として成立する売上税はこのときは結局成立しなかったが、かわりに防衛費GNP1%突破が実行された。マス・メディアはこのとき――賛成であろうが反対であろうが――売上税が問題だということに集中していた。その間隙をぬってのできごとだった。あのときの中曽根首相はマス・メディアの議題設定機能に助けられた(あるいは利用した?)といえるだろう。なお、近年悪評高いリゾート法もこのとき実質的審議なしに成立したもの。この事例は「総ジャーナリズム状況」とも関係があり、12-2を参照のこと。
▼14 沈黙のらせん理論についても邦訳がでている。ノエル-ノイマン、池田謙一訳『世論形成過程の社会心理学-沈黙の螺旋理論』(ブレーン出版一九八八年)。
▼15 これには「だれが、なにを、だれに、どのチャンネルで、どのような効果をもって」という有名なラスウェル図式が「マスメディアの影響」という広範な問題領域を狭めてしまったことが理由として考えられる。H・D・ラスウェル「社会におけるコミュニケーションの構造と機能」シュラム編、学習院大学社会学研究室訳『マス・コミュニケーション』(東京創元社一九六八年)。
▼16 一九六〇年の段階でクラッパーはつぎのようにのべていた。「長期的な態度変化においてマス・コミュニケーションが演ずる役割についての客観的な研究は皆無である」と。クラッパー、前掲訳書二〇ページ。
11-3 受け手の能動性
コミュニケーションの脱物象化のために
わたしたちは「マス・メディアの影響」というと、ついメディアの側に立って考えてしまう。なぜかオーディエンスとしての視点に立てない。しかも、マス・メディアの影響力を高くみつもる一方で、自分たち受け手を無力な存在と考えてしまいがちだ。これはマス・コミュニケーションを物象化されたレベルでとらえる結果、マス・メディアを物神化してしまうことによるのであろう。それは、わたしたちがお金にならないことは価値がないと考えたり、目の前の生身の人間を役割のマリオネットとしてしかみれなかったりするのと同様である。
その意味で、ここで少し発想を転換して、〈マス・メディアが人びとになにをなすのか〉ではなく、〈人びとがマス・メディアでなにをなすのか〉について考えることにしよう。このように「送り手」の立場よりも「受け手」の立場で考えることは、脱物象化のためにも有効なことである▼1。
マス・メディアの〈利用と満足〉
マスコミ研究の一分野として「〈利用と満足〉研究」(uses and gratifications study)というのがある。これは文字通り、受け手がマス・メディアをどのように利用し、どのような満足をえているかを研究する分野である。つまり、受け手を中心にマス・コミュニケーションを分析しようとするわけだ。前節の議論とは出発点がまるでちがう。この研究系譜によると、受け手はマス・メディア[おもにテレビ]を利用することによってつぎのような充足をえているという▼2。
(1)気晴らし
a日常生活のさまざまな制約からの逃避
b解決しなければならない諸問題の重荷からの逃避
c情緒的な解放(泣いたり笑ったりしてスッキリする)
(2)人間関係
a交友関係(メディア内の登場人物との疑似的な社会関係)
b社会的効用(家族や仲間などといっしょに楽しんだり、メディアの内容について話したりする)
(3)自己確認
a個人についての準拠(自分の状況・性格・生活について番組内容に照らし合わせて自己確認する)
b現実の探究(身近な問題の対処の仕方を学ぶ)
c価値の強化(自分の考え方などが正しいということを番組内容にみつけて確認する)
(4)環境の監視 (自分にとって間接的な公共的世界のできごとを知る)
たとえば、クイズ番組の場合、「家族で」みることに意義を感じたり、知識が増えることに満足したり、出演回答者より自分の方が物知りだということを誇示することに喜びをみいだしたり、純粋に没入して興奮したり、とにかく騒々しい人の声がしていればそれでいいというケースなど、じつにさまざまな理由から人びとは番組をみるのである。キャスターと接していたくてニュース番組をみる受け手もいれば、ドラマから異性との処し方を学習する受け手もいるということだ。
つまり、受けとられ方のヴァリエーションは受け手しだいなのであって、送り手の意図とは無関係ではありえないにせよ原則的には分離している。受け手はメディアからの内容を利用するが、その現実的内容を決定するのは――つまりコミュニケヨーションの意味を決めるのは――受け手側の事情なのである▼3。前章でくわしく論じたコミュニケーションの偶発的な性格は、マス・コミュニケーションについてもいえる。
〈受け手の能動性〉対〈メディアの影響〉
マクウェールにならって〈コミュニケーションの始発者としての受け手〉〈コミュニケーションの始発点としての受容行動〉を強調しておこう▼4。しかし、かといって、マス・メディアの複合的影響が再認識される時代に、むやみに受け手を万能視するのも楽観的にすぎるだろう。では、どのように考えればいいのだろうか。
コミュニケーション論で確認したように、受け手は受動的で二次的な存在ではない。能動的にコミュニケーションの意味を構成する積極的な存在である。受け手の解釈作業なしにコミュニケーションは成立しない。したがって、マス・コミュニケーションにおいてもまた、意味を確定するのは受け手の解釈実践である。マス・メディアの提示する内容は、あくまでも受け手の文脈で理解される。これが議論の出発点である。
このような受け手に対して、マス・メディアが受け手の意見や態度を急に変えさせたり、新しい意見や行動をそっくり注入することはできない。しかし、江原由美子によると、マス・メディアは、あるひとつの〈要請〉をほぼ確実に受け手に実行させることができるという。それはほかでもない、受け手自身の「解釈作業」である▼5。「マス・メディアヘの不断の接触は、その事自体において、マス・メディアのメッセージの『解釈作業』という実践を要請するのである。この『解釈作業』は『受け手』自身の実践でありながら、それがコミュニケーション行為であるというまさにその点において、社会的規範性を帯びる。[中略]マス・メディアの影響力とは、この『受け手』の『解釈作業』という実践を不断に『呼込む』ことにおいてもっとも直接的かつ最大の力を行使する。それは個々のマス・メディアのメッセージが『受け手』に行使している影響力というよりも、マス・メディア総体とその歴史的積重なりが『受け手』の『解釈能力』に与えている影響として考えるべきである。この『受け手』の『解釈能力』の水準の変動は、『受け手』の世界認識の形を変え、その『生活世界』の構造を変化させる▼6。」
江原由美子は、このような観点から、メディアの側が受け手の解釈作業をひきだし、そのひきだされた解釈作業の解釈図式[スキーム]が受け手に強力な影響をあたえるというロジックを、テレビCMの分析から見いだしている。たしかに、この視点からすれば、〈積極的にマス・メディアの意味を構築している受け手像〉と、〈マス・メディアによって影響を受けている受け手像〉は矛盾しなくなる▼7。
そもそも人間の行為は社会的真空状態のなかでおこなわれるわけではない。かならず既存の社会構造のなかでなされる。人間はそれを一種の〈資源〉として利用しながら行為をおこなうと同時に、それらを一種の〈環境〉として反応=リアクションする。すでにかんたんにふれておいた〈構造の二重性〉である▼8。たとえば人間が役割の担い手であると同時に、役割が人間の行為の媒体であるのと同じロジックで、マス・コミュニケーションが受け手にとって解釈作業を強制する〈環境〉として作用すると同時に、受け手はマス・コミュニケーションを〈資源〉として積極的かつ主体的に利用する。
一方でマス・メディアの物神化についての悲観的なメディア観に抗し、他方で受け手の自由を楽観視し現状を肯定する情報行動論に抗するには、このような構図で理解するのが適切であるとわたしは考える。
▼1 物象化と脱物象化については2-4参照。
▼2 デニス・マクウェール、ジョイ・G・ブラムラー、ジョン・R・ブラウン「テレビ視聴者――視点の再検討」デニス・マクウェール編著、時野谷浩訳『マス・メディアの受け手分析』(誠信書房一九七九年)。なお、以下は詳細な受け手調査にもとづいて類型化されたものである。対象となった番組はホームドラマ・クイズ・ニュース・冒険ドラマである。
▼3 だからこそメディア側の人びとは受け手の「利用と満足」の実態を調査する必要に迫られる。視聴率に対する「視聴質」をさぐる試みもそのひとつである。たとえば、日本における比較的初期の研究として『番組特性(充足タイプ)調査実用化研究――充足タイプ調査は視聴率調査をどのように補完するか』(日本民間放送連盟放送研究所一九七七年)。
▼4 デニス・マクウェール、山中正剛監訳、武市英雄・松木修二郎・山田實・山中速人訳『コミュニケーションの社会学――その理論と今日的状況』(川島書店一九七九年)一九ページ。
▼5 江原由美子「『受け手』の解釈作業とマス・メディアの影響力」『新聞学評論』三七号(一九八八年)。
▼6 前掲論文六二-六三ぺージ。
▼7 前掲論文五三ページ。なお、理論的立場は異なるものの、「『主体性の契機』という受け手の選択性の存在そのものがかえって依存を強めるという正フィードバック構造」という池田謙一の指摘もこの文脈で理解することができる。池田謙一「『限定効果論』と『利用と満足研究』の今日的展開をめざして――情報行動論の観点から」『新聞学評論』三七号(一九八八年)四二ページ。
▼8 3-1ならびに9-4参照。
増補
メディア論
本編ではメディア論についてほとんど言及できなかった。本来なら一章を別個にあてるべきであったろう。
この分野はもともと学際的な領域であり、マスコミの現場出身者による研究も多く、必ずしも社会学的でない場合が多い。その中にあって「メディアの社会学」の基本テキストとして社会学的かつ新鮮な構成でつくられているものとして、吉見俊哉・水越伸『メディア論』(放送大学教育振興会一九九七年)。社会学的メディア論の仕切り直し的テキストである。基本的なデータを整理したものとしては、山本明・藤竹暁編『図説 日本のマス・コミュニケーション(第三版)』(NHKブックス一九九四年)がある。
とくに九〇年代のメディア論で注目すべきなのは、電話研究が一気に進んだことだ。この先駆けになった研究が、吉見俊哉・若林幹夫・水越伸『メディアとしての電話』(弘文堂一九九二年)。また、近年インターネット以上に急激な普及を遂げた携帯電話やPHSについては、富田英典・藤本憲一・岡田朋之・松田美佐・高広伯彦『ポケベル・ケータイ主義!』(ジャストシステム一九九七年)が先駆をきっている。
■歴史社会学的なメディア論
社会学によるメディア論のひとつの新潮流は、社会史的にメディアの歴史を記述するという手法である。この歴史社会学的手法は他の研究領域でもさかんにおこなわれているが、その一例として、桜井哲夫『TV 魔法のメディア』(ちくま新書一九九四年)がおもしろい。いつの世も新しいメディアは嫌われるのだ。吉見俊哉『「声」の資本主義――電話・ラジオ・蓄音機の社会史』(講談社選書メチエ一九九五年)と水越伸『メディアの生成――アメリカ・ラジオの動態史』(同文舘出版一九九三年)も歴史社会学的なメディア論。
これら歴史社会学(社会史)的研究の眼目は、歴史化することで自明性が壊れるということにある。歴史ほど意外性をもつものはない。とくにメディア・コミュニケーションが国民国家を形成してきた側面に光が当てられているところに注目してほしい。この視角は、逆に、衛星放送やインターネットなどの新しいメディアが国民国家の枠組みと摩擦を起こしている現状を考える上で重要である。
この分野の出発点となっている古典的研究はふたつある。ウォルター・J・オング『声の文化と文字の文化』桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳(藤原書店一九九一年)。ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体――ナショナリズムの起源と流行』白石さや・白石隆訳(NTT出版一九九七年)。しばしば引き合いに出されるメディア論の新しい古典である。
マス・メディアの複合影響説
近年の複合影響説(一般には「新・強力効果説」と呼ばれている)については、田崎篤郎・児島和人編著『マス・コミュニケーション効果研究の展開』(北樹出版一九九二年)がコンパクトなテキスト。受け手論として最新の研究状況に基づいた論文集として、児島和人『マス・コミュニケーション受容理論の展開』(東京大学出版会一九九三年)。一歩突っ込んで調べるときはこちらを参照されたい。
翻訳もいくつかでている。沈黙の螺旋については、Elisabeth Noelle-Neumann『沈黙の螺旋理論――世論形成過程の社会心理学〈改訂版〉』池田謙一・安野智子訳(ブレーン出版一九九七年)。議題設定機能については、マックスウェル・マコームズ、エドナ・アインセィデル、デービッド・ウィーバー『ニュース・メディアと世論』大石裕訳(関西大学出版部一九九四年)。なお、培養分析やその対抗理論については、佐々木輝美『メディアと暴力』(勁草書房一九九六年)がよく整理してくれている。
この文脈の議論は、電磁波の人体への影響の問題と同じく「科学的に」結論を出すのがむずかしい。「沈黙の螺旋」理論や「第三者効果」理論が示唆するように、人びとがマス・メディアの影響力を大きいと思っていること自体が、マス・メディアの影響力を大きくしてしまうという側面もあり、こうした循環的構図に対して「科学的に」つまり行動科学的に結論を出せるものなのかどうか。社会学的な吟味が必要な段階に来ていると思う。
情報操作
マス・メディアの操作性については多くの議論がある。集中豪雨的な報道の過ぎ去ったあとでマスコミ不信が募り、「あれは作為的なキャンペーンではなかったのか」と考える人も多いと思う。オウムの人びとが陰謀説を信じたように、私たちもまた陰謀説にとりつかれている。
しかし、数多くのメディアが競ってニュースを伝えている現在の状況の中で、情報操作が意図通りに成就するとは考えにくい。けれども時間を短く区切って、それが成功することはありうる。湾岸戦争のさいにホワイトハウスがやったように。佐々木伸『ホワイトハウスとメディア』(中公新書一九九二年)はホワイトハウスの歴代政権のメディア・コントロールを調べたもの。
このほかにも、川上和久『情報操作のトリック――その歴史と方法』(講談社現代新書一九九四年)、渡辺武達『テレビ――「やらせ」と「情報操作」』(三省堂選書一九九五年)、渡辺武達『メディア・トリックの社会学――テレビは「真実」を伝えているか』(世界思想社一九九五年)がメディアの作為的な側面に焦点を当てて説明している。この論点で議論すると、つい安直な陰謀説に傾いてしまうので、上記の本をよく吟味してから議論するようにしたい。
メディア・リテラシー
九〇年代になってマスコミ研究者のあいだで急速に議論されるようになったのが「メディア・リテラシー」である。最近の大学教育で「情報リテラシー」「リテラシー教育」といえばパソコンを操作すること自体が目標になった自動車教習所的な教育をさすが、ここでいうリテラシーはもっと高度な段階をさしている。鈴木みどり編『メディア・リテラシーを学ぶ人のために』(世界思想社一九九七年)によれば「メディア・リテラシーとは、市民がメディアを社会的文脈でクリティカルに分析し、評価し、メディアにアクセスし、多様な形態でコミュニケーションを創りだす力」(八ページ)である。つまり、これまで受け手としてマス・メディアに屈してきた人びとが能動的なコミュニケーション主体として成熟することを意味しているのである。
この分野の基本書は、カナダ・オンタリオ州教育省編『メディア・リテラシー――マスメディアを読み解く』FCT(市民のテレビの会)訳(リベルタ出版一九九二年)。音楽メディアをふくめた、たいへん視野の広いメディア論になっている。オンタリオでは国語の授業の三分の一が「メディア・リテラシー」の授業にあてられており、これはそのオフィシャルな教科書である。
渡辺武達『メディア・リテラシー――情報を正しく読み解くための智恵』(ダイヤモンド社一九九七年)は、おもに月刊誌『マスコミ市民』に掲載された論考をまとめたもの。著者は九〇年代ジャーナリズム論でもっとも注目すべき研究者だが、この本もジャーナリズム論的なリテラシーを論じている。コンパクトな入門書としては、メディアリテラシー研究会(市川克美・音好宏・見城武秀・後藤繁榮・藤本浩・水越伸)『メディアリテラシー――メディアと市民をつなぐ回路』NIPPORO文庫(日本放送労働組合一九九七年)もある[ただし現時点では直販]。
「社会学的」ということにこだわるなら、D・K・デビス、S・J・バラン『マス・コミュニケーションの空間――批判的研究のパースペクティブ』山中正剛ほか訳(松籟社一九九四年)が読みやすく、視野も広い。原書のタイトルは『マス・コミュニケーションと日常生活』で、受け手のメディア利用をより自覚的にさせることをねらっている。その意味ではメディア・リテラシーに関するテキストといえるだろう。
じっさいに新聞の読み方をごく初歩的なところから説明したものとして、岸本重陳『新聞の読みかた』(岩波ジュニア新書一九九二年)と熊田亘『新聞の読み方上達法』(ほるぷ出版一九九四年)が格段にやさしく、教材としても使いやすい。いずれも高校生向けで、大学生ならさらっと読めるだろう。
もう一冊。現在のメディア・リテラシーを考える上でポイントとなるのは新聞でもパソコンでもない。それはテレビ・ニュースではないだろうか。その見方をやさしく教えてくれる邦語文献がほしいところだが、なぜか手薄なテーマになっているようだ。「日経の読み方」や「パソコンの使い方」の本が山ほど存在するのに、これは奇妙なことである。とりあえず翻訳書では、ニール・ポストマン『TVニュース 七つの大罪――なぜ、見れば見るほど罠にはまるのか』石川好監修・田口惠美子訳(クレスト社一九九五年)が、わかりやすくテレビ・ニュースの「からくり」を説明してくれている。これなら高校生でも読めるだろう。
ネットワーク・コミュニケーション
パソコン通信やインターネットによるコミュニケーションを「ネットワーク・コミュニケーション」と呼ぶ。英語圏ではComputer Mediated Communicationと呼び、略してCMCといい慣わされている。英語圏では膨大な「CMCの社会学」が発表されているが、日本でも九〇年代中頃から急速に増えている。
パソコン通信については、森岡正博『意識通信――ドリーム・ナヴィゲイターの誕生』(筑摩書房一九九三年)。川上善郎・川浦康至・池田謙一・古川良治『電子ネットワーキングの社会心理――コンピュータ・コミュニケーションへのパスポート』(誠信書房一九九三年)。宮田加久子『電子メディア社会』(誠信書房一九九三年)。『意識通信』は豊富なアイデアに満ちた読み物。後二者は標準的な手法で調査した研究書。
インターネット
同じCMCではあるが、インターネットはパソコン通信とかなり様相が異なる。パソコン通信がコントロールされた「組織」だとすると、インターネットは「社会」に相当するからである。インターネットには目下さまざまな問題が生起しつつあり、解決のむずかしいものも多いが、統制主体の不在(あるいは多数性)が問題の核心に存在する。
インターネットの歴史については、古瀬幸広・廣瀬克哉『インターネットが変える世界』(岩波新書一九九六年)が基本書。イリイチとの思想的関連についてなど興味深い記述が多い。マイケル・ハウベン、ロンダ・ハウベン『ネティズン――インターネット、ユースネットの歴史と社会的インパクト』井上博樹・小林統訳(中央公論社一九九七年)も同様の歴史記述。ネットに関わる人びとが現にどう考えているかに重点をおいたもので、膨大な発言の引用が特徴。このマイケル・ハウベンが「ネティズン」の命名者といわれている[公文俊平編著『ネティズンの時代』(NTT出版一九九六年)]。
インターネットの実態については、クリフォード・ストール『インターネットはからっぽの洞窟』倉骨彰訳(草思社一九九七年)が有名だが、ただし、あざとい邦訳タイトルがマスコミ受けして「からっぽの洞窟説」がマスコミ界で一人歩きした感がある。しかし、ストールのインターネットに対する態度は両義的で、もっと含蓄のあるものだ。
インターネットによって具体的に私たちの目の前に現出した状況をつくってきた人たちの思想をひもとく必要もある。ブッシュやエンゲルバートやネルソンといった、パソコン文化の構想者たちの基本論文が、西垣通編著訳『思想としてのパソコン』(NTT出版一九九七年)におさめられている。こうした設計思想のもつ社会学的意味を考えたい。
佐藤俊樹『ノイマンの夢・近代の欲望――情報化社会を解体する』(講談社選書メチエ一九九六年)は、「新しいメディアが社会を変える」といった技術決定論が産業社会に内属する必然的なディスクールであることを徹底的に論じている。従来のマクルーハン的なメディア論と一線を画した社会学書で、インターネットについて考える上でも参考になる。この分野についてあくまでも社会学的に考えたい人は必読。
インターネットと市民性
ネティズンが持ち出される文脈にはふたつある。ひとつはコミュニティ志向。ネットワーク上に事実上のコミュニティが形成されて、しばしば「弱い紐帯の力」が作動する事実に着目するとき、そこに古典的なシティズンシップの発動を見ることができる[野村一夫『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社一九九七年)]。
もうひとつは市民運動志向である。インターネットはこれまで限定されたコミュニケーション能力しかもたなかった運動主体に格段に低コストなビッグ・メディアを提供することになった。直接的な対人関係に限定されていた従来のネットワーキングが、社会圏や生活圏を異にする人びとにまで届く可能性がでてきた[栗原幸夫・小倉利丸編『市民運動のためのインターネット――民衆的ネットワークの理論と活用法』(社会評論社一九九六年)。民衆のメディア連絡会編『市民メディア入門』(創風社出版一九九六年)]。
これらは文化構築の問題というべきで、それ自体は何も内容を指定しないインターネットが、ある種の市民文化形成のメディアとして利用される点は社会構想論的に興味深い。むしろ昨今取りざたされることの多いインターネット上の悪質な行為の方が当たり前すぎて新奇性はないと思う。犯罪は正常な社会現象なのだから。そもそもインターネットは、国家のような統制主体のない無法地帯である。無法地帯に倫理を持ち出してもしかたない。倫理なき人びとを規制するのは文化と経済である。それを意識的に構築する人びとや組織の活動に注目したい。
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4月 12017

社会学感覚10コミュニケーション論/ディスコミュニケーション論

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社会学感覚
10 コミュニケーション論/ディスコミュニケーション論
10-1 コミュニケーションの常識モデル
はじめに
これから四章にわたってコミュニケーションに関する基本問題について考えてみよう。
まずコミュニケーションの基礎的な原理について考察し(第一〇章)、つぎにマス・コミュニケーションの影響についての理論を紹介する(第一一章)。そして現代のジャーナリズムの問題点と社会学的意義について考えてみたい(第一二章)。最後に、マス・メディア巨大な力の影にかくれて見逃されがちな流言(うわさ)の集合的現象としての意味を浮き彫りにしていこうと思う(第一三章)▼1。
さて、コミュニケーションということばは「意志疎通」や「精神的交流」の意味で使われたり「通信」と訳されたりする。その多様性と多用性をとらえるのは並大抵のことではない。そこでここでは、わたしたちが日常生活のなかで漠然と考えているコミュニケーション観念について理論的に反省するという形で議論を構成することにしたい。
社会学論のところで「日常生活の自明性を疑う」という発想法について説明した。わたしたちが「あたりまえ」と思っていることの多くは、じつはけっこうあやしげなものも多く、わたしたちは、ろくにたしかめもせず、ただ信じているにすぎない。だから常識は意外に当てにならない。
たとえば人間論の二章で説明したように、日常的な常識では、自我がまずあって他者と交流していくように考えがちだが、社会学的には逆に、他者との関係がまずあって結果的に自我意識が成立すると考える。また常識では、自分というものがまずあって、それが外在的な役割を引き受けると考える。役割は、取り替え可能な仮面であって、自分そのものではないと考える。しかし現実には、役割を引き受け、役割を生きることによって、はじめて自分自身をたしかな存在として感じる。すなわちアイデンティティの確立・自分らしさ・生きがい・精神の自由・自己実現といった現象が可能になるのである。
このように、一般にわたしたちが自覚していることと社会学的認識とはしばしばくいちがう。人間関係としてのコミュニケーションも、常識や一般通念で誤解されていることがらのひとつだ。
情報のキャッチボール
現代人が「コミュニケーション」と聞いて連想するのは「情報」ということばだろう。わたしたちは「コミュニケーションとは情報をやりとりすることだ」と考える。つまり、「情報のキャッチボール」である。そのさい、ユニットとして想起されているのは、つぎのような図式である。
情報
A─→B
送り手 受け手
送り手から受け手へ情報が移動し、それが終わると今度は送り手と受け手の役割を交換して情報の伝達がおこなわれるというイメージである。工学系のコミュニケーション・モデルや組織コミュニケーションの研究などでじっさいに使用されているものも、このような情報の「移転」(transfer)モデルの延長線上にある。たとえば、情報量概念を定式化し情報理論の基礎を築いたクロード・E・シャノンとウォーレン・ウィーバーによる有名な「コミュニケーションの数学的モデル」は、つぎのような構図になっている▼2。
メッセージ  信号  受信信号 メッセージ
情報源→発信器→チャンネル→受信器→目的地

ノイズ源
これは電話をモデルにしたものであるが、あえて異化してとらえるにはトランシーバーでの通信を想起した方がいいだろう。というのも、電話の送信と受信の同時性は見かけ上のことで、じっさいにはチャンネルが二系統あるにすぎないからである。ユニットとしては一方的である。
しかし、ほんとうにコミュニケーションはこのような「情報のキャッチボール」だろうか。人間のコミュニケーションは、こんなに単純なものだろうか。
たとえば、母親や教師や看護婦が、自分のいったことが伝わらないからといってくどくどと同じことをくりかえし子どもや生徒や患者にいったとしても、コミュニケーションがうまくいくとはかぎらない。いう側つまり送り手は、あくまでも大事な情報やメッセージを投げてやっているつもりで、相手がそれを受け取ってくれないと嘆くことが多いけれども、現実のコミュニケーションは、それとは別の次元ですでに決定してしまっているのだ。
コミュニケーションの常識モデルの問題点
コミュニケーションを「情報の移動」「情報のキャッチボール」として自明視する考え方をここでは「コミュニケーションの常識モデル」と呼ぶことにすると、この常識モデルは説明上のわかりやすさをもつと同時に、さまざまな問題点をもっている。デニス・マクウェールによると、それは三つの点で偏向しているという▼3。
(1)コミュニケーションの基礎に合理性や目的性があり、特定の目的の達成という意図がふくまれているために、コミュニケーションの効率性が判定基準として適切だという暗黙の考え方がふくまれている。
(2)コミュニケーションを線的にとらえている。
(3)コミュニケーションがつねに送り手から始まると前提され「伝達されるもの」も送り手に属すものと仮定されている。
要するに、わたしたちはコミュニケーションについていざ考えようとするとき、知らず知らずのうちに、なにか目的をもって相手に情報を送ろうとする送り手の役割と立場に身をおいてしまっているのだ。これはなぜだろうか。
コミュニケーションには、おおよそ三つの類型[水準]が存在する▼4。
(1)パーソナル・コミュニケーション――少数の人びとの対面的交渉
(2)マス・コミュニケーション――マス・メディアから大衆へ
(3)中間的(intermediate)コミュニケーション――専門家・組織・地域内
たとえば病院のなかのコミュニケーションでいえば、患者や家族・ナースや医師の対話・面接がパーソナル・コミュニケーションであり、待合い室におけるラジオやテレビ・雑誌がマス・コミュニケーションであり、医師のオーダー・処方箋・カルテなどが中間的コミュニケーションにあたる。
ここでコミュニケーションの本質が直接あらわれるのはパーソナル・コミュニケーションであるが、わたしたちはこれをコミュニケーションとしてとらえかえすとき、つい他のふたつの類型の図式をもちこんでしまうのである。マス・コミュニケーションはコミュニケーションを一方的な直線的過程にイメージさせるし、中間的コミュニケーションはコミュニケーションの目的性を強調することになる。
おそらくこれは理由のないことではない。パーソナル・コミュニケーションについても、たとえばそれが学校教育・医療現場・巨大組織のなかでおこなわれるときには、その本来もっているダイナミズムが失われて、このようなコミュニケーション観に対応したものになっていることが多い。現代とはそういう時代である。だから、「コミュニケーションの常識モデル」は、現代コミュニケーションのゆがみやひずみの反映――すなわち物象化的錯視の結果――と考えるべきだろう。
では、コミュニケーションの本質とはなんだろう。ここで理論的な考察に入ることにしよう。
▼1 社会学的視点からコミュニケーションについて解説した概説書は少ないが、つぎの二点がある。デニス・マクウェール、山中正剛監訳、武市英雄・松木修二郎・山田實・山中速人訳『コミュニケーションの社会学――その理論と今日的状況』(川島書店一九七九年)。林進編『コミュニケーション論』(有斐閣一九八八年)。
▼2 Claude E.Shannon and Warren Weaver,The Mathematical Theory of Communication,Illini Books edition,1963,p.7.
▼3 デニス・マクウェール、前掲訳書一五ページ以下。
▼4 林進編、前掲書六-七ページ。
10-2 コミュニケーションとはなにか
身ぶり会話としてのコミュニケーション
コミュニケーションについてもっとも基礎的な理論を提供してくれるのは今日でもジョージ・H・ミードである。すでに自我論と役割取得論について紹介したことのあるミードの講義録『精神・自我・社会』を今度はコミュニケーション論について参照しつつ考察してみよう▼1。
わたしたちは意識をもった自我として言語によって他者と対話する。たしかにこれが通常のコミュニケーションの姿である。しかし、コミュニケーションをここからとらえるかぎりその本質はみえてこない。
コミュニケーションの現場で「現実に」生じていることを即物的に観察してみると、存在するのはふたつ以上の個体の動作のやりとりだけである。ここで第二章で示した「異邦人の眼で見る」ことにしよう。ふたりの人間のコミュニケーションの場面を異星人が観察しているとすると、まず人間Aが手をあげ顔面の一部を収縮しつつ顔面の中央突起の下にある穴から大きな音を発している。それに対して人間Bは歩くのをやめ首を前後に振りしつつ音を発して反応している。「おー、ひさしぶりだな、元気かい」「どうも、ごぶさたしてます」なんて会話も、異星人の観察ではこんなものだ。おそらくこれは動物どうしの場合も変わりないはずである。恋人たちの会話も犬のケンカも、いっさいの予断を排除して観察するかぎり、実在しているのは個体の「身ぶり」(gesture)だけである。
ミードによると、社会過程を進行させる根本的なメカニズムは「身ぶり」だという。個体間の身ぶりのやりとりだけが現実に存在する。したがって、コミュニケーションを考える上で重要なことは、この「身ぶり」に注目することである。身ぶりによってコミュニケーションが進行するとなると、動物でもなんらかのコミュニケーションがおこなわれており、なにも人間だけの特権ではないということになる。コミュニケーションは個体相互の動作のやりとりによって進行する。
この点についてミードは犬のケンカを例にあげている▼2。そのもっとも基本的な単位は三つのシーンからなる。
シーン1――はじめに犬Aが攻撃的な姿勢をとる。
シーン2――Aの身ぶりが犬Bに対する刺激となってBの反応[うなり声や威嚇的なしぐさ]をひきおこす。
シーン3――Bの反応の身ぶりがAに対する刺激となり、Aがそれに反応する。
このような犬のケンカの場面で生じているのがコミュニケーションである。身ぶりによる応答が進行しているからだ。人間の場合であればボクシングやフェンシングなどがこれと同じ水準に相当するが、これがコミュニケーションのもっとも原初的な姿なのである。ミードは「身ぶり会話」(conversation of gestures)と呼んでいる。このようにコミュニケーションは第一義的には「身ぶり」という一種の記号に媒介されて進行する相互適応にほかならない。
さて、このプロセスのなかで犬Aの身ぶりの意味を決定しているのはなんだろうか。それは犬Bの反応である。シーン1のAの身ぶりの「意味」は、シーン3のAに刺激として還ってくるシーン2のBの反応である。BがAの身ぶりを攻撃・威嚇の構えとして反応したことが、この場面におけるAの身ぶりの意味を決定したのである。
一般に、ある個体の身ぶりの意味を決定するのは、それに対する他の個体の反応である▼3。つまりポイントは「受け手の反応」にある。受け手の反応が送り手の行為の意味を決めるのだ。
これは人間のコミュニケーションについてもあてはまる。たとえば、よく「売りことばに買いことば」という。さりげなくだしたことばに対して[シーン1]相手が過剰に反応してしまったため[シーン2]思わず過激な態度とってしまう[シーン3]。この場合も、最初のことばの意味を決めるのは自分ではない。それをいわれた相手の出方がその意味を決めてしまうのだ。このように「意味」は人間の心的状態に生じるものではなく、コミュニケーションのプロセスのなかに客観的に存在するものとミードは考える。
人間的コミュニケーション
では、人間のコミュニケーションの場合、動物となにがちがうのだろうか。ミードによると、人間は動物とは質的に異なる身ぶりをすることができるという。それは「言語」である。じつは「言語」もまた「身ぶり」の一種なのだ。これを「有声身ぶり」(vocal gesture)という。有声身ぶりが、他の身ぶり・動物の身ぶりとちがうところは、相手に聞こえるように自分自身にも聞こえるということだ。他の身ぶり――たとえば表情――は自分にはみえない。人間は、有声身ぶりによって、相手にひきおこす反応を同時に自分自身のうちにもひきおこすことができる。その結果、他者の反応を自分のなかに取り入れることができる。こうして人間は自分の発する言語の意味を意識できる。この反省的なメカニズムが人間の有声身ぶりを「有意味シンボル」(significant symbol)にする。
ここに自我意識の発生する基盤がある。自我があってコミュニケーションが生じるのではなく、逆にコミュニケーションのプロセスから有声身ぶりを媒介にして自我が生じるのである。「精神は、経験の社会的過程あるいは社会的文脈のなかで、身振り会話によるコミュニケーションをとおして生まれるのであり、コミュニケーションが精神をとおしていとなまれるのではない▼5。」このようにコミュニケーションは精神の発生基盤そのものであり、第一次的なプロセスなのである。
コミュニケーションの本質についての中間考察
以上のように、コミュニケーションについての一般的なイメージ[ここでは「常識モデル」と呼んだ]に対して、社会学的なコミュニケーションの基礎理論はずいぶんちがった相貌を呈している。その結論を整理すると――
常識モデル       社会学モデル
基本構造  情報のキャッチボール 記号を媒介にした相互作用
意味の決定  送り手の意図      受け手の反応
ここまでくればコミュニケーション概念の形式的な定義も立体的にとらえることができるのではなかろうか。コミュニケーションとは「記号を媒介とする相互作用過程」である。この定義についていくつかの重要な論点を整理しておこう。
第一に、コミュニケーションは「記号」を媒介にした過程であること。記号とは具体的には身ぶり・表情・ことば・文字・映像などのことだ▼6。
第二に、情報が移動するのではないこと。「伝達」とは意味の共有であるが、これはどのような場合にも近似的なものにすぎないことを認識すべきである▼7。
第三に、コミュニケーションは原則的に「相互作用」(interaction)であって、一方的な過程ではないこと。
第四に、コミュニケーションの意味を決定するのは本質的に「受け手の反応」であること。その点で「受け手」はコミュニケーションの「始発者」(initiator)でもあるのだ▼8。「受け手」というのはたんに便宜的な呼び方にすぎない。
第五に、コミュニケーションは反省的な過程であること。とりわけ人間コミュニケーションの本質はその「反省作用」(reflection)にある。これがあるために人間のことばはオームのことばとちがって「有意味シンボル」たりえるのであり、精神から創造的自我形成をへて社会形成に連なる独自の高度な文化的系列が可能になるのである▼9。
▼1 ミード、稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳『精神・自我・社会――社会的行動主義者の立場から』(青木書店一九七三年)。
▼2 ミード、前掲訳書一九および四八ページ。
▼3 ミード、前掲訳書八五ページ。
▼4 この場合の「意味」はむしろ「客観的意味」といった方がいいだろう。ウェーバーの「主観的意味」とはまったく別のレベル――もっと根源的なレベル――である。
▼5 ミード、前掲訳書五六ページ。
▼6 人間がその歴史のなかで使用してきた記号の進化を丹念にたどった読み物として、ホグベン、寿岳文章・林達夫・平田寛・南博訳『洞窟絵画から連載漫画へ――人間コミュニケーションの万華鏡』(岩波文庫一九七九年)。
▼7 コミュニケーションのこの基本性格をもっとも典型的に示しているのは日常のあいさつである。たとえば「あついですね」「ええ、とても。どちらへ,」「ええ、ちょっと」といったありふれた会話において、言語上のことばの内容にそれほどの意味はない。まして情報の観点からいえば無意味とさえいえる。しかし、対応の仕方が決定的に重要なのである。あいさつは多くの場合、情報を交換しているのではなく、上下関係・新旧関係・友情関係などをメタ・レベルでそのつど再確認しているのである。
▼8 マクウェール、前掲書一八ページ。
▼9 ミード、前掲訳書に編者がつけたタイトル『精神・自我・社会』はこれを示している。
10-3 ノンヴァーバル・コミュニケーション
ノンヴァーバル・コミュニケーション
人間のパーソナルなコミュニケーションの基本は言語によるものである。けれども、言語だけが〈無伴奏〉で使用されるのはまれである。人間コミュニケーションの現場の多くは、さまざまな〈伴奏〉や対位法的旋律の交錯するポリフォニックな意味の生成の場である。
たとえば、わたしたちは会話のさいにことばだけを使っているわけではない。身ぶり・手ぶり・身体接触・顔の表情・視線(目くばせ)・距離のとり方・話し方・抑揚・声の質(トーン)・沈黙など、話し手は意識的・無意識的にコミュニケーションのプロセスにもちこむ。また、話し手の方は意図していなくても、聞き手=受け手の方が勝手にそうした諸々の「伴奏」と対位法的旋律を受けとってしまう。身体的特徴・服装・化粧もそのような働きをするし、話し役と聞き役の交替のタイミングなどもコミュニケーションの重要なファクターとして機能する。
このように言語によるコミュニケーション以外のコミュニケーションを「ノンヴァーバル・コミュニケーション」(nonverbal communication)という。これは「非言語的コミュニケーション」と訳される。または「副言語」(paralanguage)と呼ばれることもある。ただしこちらはやや狭い意味で――話しことばに付随する音声上の特徴として――限定的に使われることが多い。人間の場合、言語がその独自で高度なコミュニケーションを可能にしているとはいえ、これらのノンヴァーバル・コミュニケーションもたいへん重要な働きをする。
一般に、言語的コミュニケーションとノンヴァーバル・コミュニケーションをくらべるとノンヴァーバルの方が比重が重いといわれている。一説によると「二者間の対話では、ことばによって伝えられるメッセージ(コミュニケーションの内容)は、全体の三五パーセントにすぎず、残りの六五パーセントは、話ぶり、動作、ジェスチャー、相手との間のとり方など、ことば以外の手段によって伝えられる」という。じっさい親近感.敵意.優越感・服従感・誠意・権力など「関係」に関することがらは副言語によって高い確率で伝えられる▼1。また、だれしも子どものころ母親にウソをついてうまくダマせたつもりが、かんたんに見破られてしまったという経験をもっているものだ。これは母親が子どものことばより目線のようなノンヴァーバルな部分を重視して真偽を判定するからだ。ふつう子どもはノンヴァーバルな部分まで意識的にコントロールできないものである▼2。
ノンヴァーバル・コミュニケーションの文化的相対性
ノンヴァーバル・コミュニケーションの意味は集団や社会の文化によって強く規定されている。わたしたちは言語についてはそれを承知していても、ジェスチャーや表情にもそれがあてはまることは意外に認識されていない。たとえば、ことばが通じないところだは身ぶりでコミュニケーションをとればいいと、わたしたちは考えがちである。しかし、ノンヴァーバル・コミュニケーションは言語と同様に――ときには言語以上に――集団と社会の文化に強く規定されている。
たとえば、対話のさい相手の目をみることは、欧米の白人文化においては誠実を示す必要条件とされている。しかし、同じ欧米でも黒人文化ではこのような視線の交差[アイ・コンタクト]は必要条件ではない。またアジア文化圏では一般に相手の目をみないことが尊敬の念を示す場合が多い。南アジアではでは男女が相手の目をまっすぐみつめるのは夫婦間だけにかぎられている。日本では話し手の目をみつめることは相手に緊張感をあたえやすい▼3。
ノンヴァーバル・コミュニケーションの文化的相対性の問題が顕在化するのは、いうまでもなく、まったく異なる文化に属する人びとのあいだのコミュニケーション――「異文化間コミュニケーション」(intercultural communication)――においてである。ノンヴァーバルなメディアについての双方の解釈コードが異なることによって、送り手と受け手に共通の反応が生じないことによるのである▼4。
▼1 マジョリー・F・ヴァーガス、石丸正訳『非言語(ノンバーバル)コミュニケーション』(新潮選書一九八七年)一五ならびに一〇三ぺージ。バードウィステルの分析による。なお、この本はノンヴァーバル・コミュニケーションについてのすぐれた入門書であって、たいへんわかりやすい。著者はドイツ系アメリカ人でボリビア出身の夫をもつ女性の言語技術研究者。
▼2 ゴッフマンによると、コミュニケーションの受け手は、送り手がコントロールしやすい側面[ことば]を表情のようなコントロールしがたい側面と照合して反応する。そのさいノンヴァーバルな後者の側面はかえって受け手に疑念をいだかれずにいるので、その側面を意識的にコントロールすることで送り手は一定の効果をえることができる。E・ゴッフマン、石黒毅訳薫『行為と演技――日常生活における自己呈示』(誠信書房一九七四年)
▼3 K・S・シタラム、御堂岡潔訳『異文化間コミュニケーション――欧米中心主義からの脱却』東京創元社一九八五年。一七一ページ。
▼4 くわしくはシタラムの前掲書を参照。この本は異文化間コミュニケーションに関するバランスのとれた概説書。シタラムはインド出身のアメリカのコミュニケーション研究者。それだけにアジア文化圏についての記述も豊富だ。ヴァーガスにせよ、シタラムにせよ、そのマージナルな経歴が日常のコミュニケーションに対する繊細な感覚を育て、その結果アメリカ社会における日常生活の自明性を「異邦人の眼で見る」ことを可能にしていることにも注目しておきたい。
10-4 デイスコミュニケーション
理想状態としてのコミュニケーション
ディスコミュニケーション(dyscommunication)とはコミュニケーションがうまくいかないことをいう。略して「ディスコミ」とも呼ぶ。
じつはディスコミについての本格的な理論はまだない。その意味で社会学の入門書である本書のなかでディスコミについて語ることは時期尚早といえる。しかし、あえてそれをするのはコミュニケーションの問題が同時にディスコミュニケーションの問題でもあることを認識しておいてほしいからだ。
本章ではこれまでコミュニケーションをその本質においてとらえるため、事実的な相互作用として分析してきた。しかしコミュニケーションには多くの層があり、これまで説明してきたその基底的な層だけがすべてではない。ここで問題となるコミュニケーションの層は規範的なレベルである。
人間のコミュニケーションは一定の理想状態を先取りしている。つまり、自分と相手がコミュニケーションによって共通の意味を共有でき、相互に理解できるという理想が日常のコミュニケーションにすでにふくまれている。だから「コミュニケーションがとれた」というのは「意味の共有」および「相互理解」という理想が実現されたということである。逆に、「意味の共有」と「相互理解」が達成されない場合、それはディスコミュニケーションということになる。現実には、このような理想状態が達成されるのはむしろまれなことだから、コミュニケーションとディスコミュニケーションとは不即不離の関係にあるといえる▼1。
さまざまなディスコミュニケーション
このようなコミュニケーションの理想的側面に注目すると、現実の多くのコミュニケーションがじつはディスコミュニケーションであるという帰納になる。つまりコミュニケーションとしてみなされている諸々の現象はじっさいにはコミュニケーションの理想的局面を満たしていないのだからディスコミュニケーションであるというわけだ。
たとえば、ノンヴァーバル・コミュニケーションの問題も、じつはディスコミュニケーションの問題である。
受け手は、送り手について見聞きできるすべての身ぶりに反応する。だから、送り手が意識的に送りだした言語的メッセージだけがコミュニケーションにのるわけではなく、意識していないさまざまなノンヴァーバルなメディアもいっしょに受け取られる。しかし、送り手自身が自覚・意識できるのは、基本的に言語(音声身ぶり)だけである。したがって送り手の意図と受け手の反応は原則的に一致しない。そしてコミュニケーションの現実的意味が「受け手の反応」にあるとすると、送り手は自分が送り手として参加したコミュニケーションの現実的意味を認識しないままコミュニケーションを終えることになる。これは「意味の共有」と「相互理解」の点でディスコミュニケーションにほかならない。
たとえば母親が子どもに「ゆっくりでいいから、自分でやってごらん」といって作業をさせたのに、子どもの不器用さにガマンできず、すぐに手助けしてしまうことがある。またたとえば、おこった態度を示しながら「遊びたいんなら、遊んでらっしゃい」と反語的に叱る母親の場合、ことばとノンヴァーバルな動作・態度が分離・矛盾している。そのとき子どもは、ことばと表情の板挟みに陥る。第一主題の旋律と、それと矛盾する第二主題の旋律が、同時にコミュニケーションのプロセスに流れこむ。この対位法のなかで、子どもは母親のことばにしたがうと表情のメッセージに反するし、表情にしたがうとことばのメッセージに反してしまう。いずれにしても子どもは母親に反せざるをえない。このような状態を「ダブル・バインド」(double bind)といい、これが長期にわたってくりかえされることによって自閉症や分裂症の原因となるともいわれている▼2。
他方、異文化間コミュニケーションといわれる現象も、少し考えればわかるように、コミュニケーションについてのコードが集団や社会の文化によって異なるために「意味の共有」と「相互理解」のできない状態が問題とされている。これもディスコミュニケーションである。
したがって、現代社会における人間のコミュニケーションを考えることは、ディスコミュニケーションの現実に思いをいたすことである。そして、このことはたんに対話的コミュニケーションだけにあてはまるのでなく、マス・コミュニケーションや組織コミュニケーションやジャーナリズムについてもあてはまることなのである。
▼1 コミュニケーションが一定の理想状態を先取りしていると本格的に指摘した研究として、ハバーマスの「コミュニケーション能力の理論のための予備的考察」がある。ユルゲン・ハーバーマス、ニクラス・ルーマン、佐藤嘉一・山口節郎・藤沢賢一郎訳『ハーバーマス=ルーマン論争/批判理論と社会システム論』(木鐸社一九八四年)。一見すると文法学的な議論なのだが、そこから社会批判の視点が導出されるプロセスには感動を覚える。また、ディスコミュニケーションを主題とした数少ない論考として、杉山あかし「ディスコミュニケーションの社会理論へ」『新聞学評論」三八号(一九八九年)参照。なお本書ではふれないが、わたし自身は、ミード流の「反省作用」と関連でディスコミュニケーションを定義している。野村一夫「社会学的反省の理論としてのジャーナリズム論」『新聞学評論』三六号(一九八七年)
▼2 「ダブル・バインド」概念の提唱者はグレゴリー・ベイトソン。かれが挙げているダブル・バインドの有名な観察事例をひとつ示しておこう。これは「精神分裂症の理論化に向けて」という論文で分析されている事例である。「分裂症の強度の発作からかなり回復した若者のところへ、母親が見舞いに来た。喜んだ若者が衝動的に母の肩を抱くと、母親は身体をこわばらせた。彼が手を引っ込めると、彼女は『もうわたしのことが好きじゃないの?』と尋ね、息子が顔を赤らめるのを見て『そんなにまごついちゃいけないわ。自分の気持ちを恐れることなんかないのよ』と言ってきかせた。患者はその後ほんの数分しか母親と一緒にいることができず、彼女が帰ったあと病院の清掃夫に襲いかかり、ショック治療室に連れていかれた。」G・ベイントソン、佐藤良明訳『精神の生態学』(思索社一九九〇年)三〇七ページ。
増補
ハバーマスのコミュニケーション行為論
ユルゲン・ハバーマスのコミュニケーション行為論は広範な影響を社会科学の世界に与えている。したがって、難解であっても、ある程度の理解が必要になってきた。なお、ハバーマスは「ハーバーマス」「ハーバマス」「ハバマス」とも表記される。訳本が多い未来社では「ハーバーマス」に統一されている。
ハバーマスの思想的営為が要領よく整理されている最新作としては、中岡成文『ハーバーマス――コミュニケーション行為』現代思想の冒険者たち27(講談社一九九六年)。評伝もかねているので、入りやすい解説になっており、解説に余裕が感じられるのもいい。多くの論争者や複雑な知的文脈についても明解に理解できる。マイケル・ピュージ『ユルゲン・ハーバマス』山本啓訳(岩波書店一九九三年)は、少し内容が古いものの、入門書としてコンパクトでやさしく書かれている。岩波講座社会科学の方法第八巻『システムと生活世界』(岩波書店一九九三年)は論文集だが、そのタイトルがハバーマスの考え方に由来しているように、ハバーマスの解説書として読むこともできる。
ハバーマスとそれをめぐる議論が日本社会にとってどのような意義があるかについては、佐藤慶幸『生活世界と対話の理論』(文眞堂一九九一年)が参考になる。なお、おもにドイツを舞台にハバーマスは数々の論争を引き起こしてきたが、それについては、矢代梓『啓蒙のイロニー――ハーバーマスをめぐる論争史』(未来社一九九七年)が、社会的背景をふくめてコンパクトにまとめている。
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4月 12017

社会学感覚9役割現象論

Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫

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社会学感覚
9 役割現象論
9-1 役割の担い手としての人間
現代人のアイデンティティの中心をなしているもの
たとえば不意に出会った相手に「おまえはだれだ」「あんた、だれ」ときかれたとする。わたしたちはどう答えるだろうか。電話で「どちらさまでしょうか」ときかれた場合を想起してみよう。「わたしは□□□です」――この□□□に入るのはどのようなカテゴリーかというと、多くは自分の名前であり、学生や会社員ならそれに所属組織をつけくわえる。また「□□の親です」といったように姉妹兄弟親子供の関係であったり、たんに学生とか客とかユーザーであるというだけでいい場合もある。
まず自分の名前はすべての相手に対して使える定義である。しかし、わたしたちはいつも名前で応えるとはかぎらない。たとえば、大学生の場合、教員に対しては学生のひとりとして名前をいうことになるが、所属学科の何年の学生かをのべた方が納得してもらえることも多いはずだ。「わたしは□□□です」にあてはまることばを考えてみると、たとえば看護婦・学生・長男・医師・担任・客などがある。これらは、相手との関係において自分が担うことになる社会的カテゴリーであり、まとめて「役割」(role)と呼ばれる。
流動的で矛盾をかかえこまざるをえない自我。これをなるべく分裂させないで統合してアイデンティティを安定させようとするとき、現代人は、自分に振り分けられた役割あるいは選択した役割をアイデンティティの中心にすえることが多い。そこで社会学では、人間を「役割の担い手」として分析する▼1。
役割概念と役割理論
役割ということばは、もともと演劇の方からきたものだ。「仮面」(mask)または「ペルソナ」(persona)もほぼ同じ意味である。この役割概念を使って個人と社会の関係をさぐろうという理論を「役割理論」(role theory)という。これはおおよそつぎのような考えにもとづいている。すなわち、社会は舞台であって、人びとはあらかじめ社会が用意した台本にもとづいて各々の役割を演じる。一定のあたえられた役割をその内容にしたがって演じることを「役割演技」(role playing)という。「すべてこの世は舞台だ」という有名なシェイクスピアのことばのように、社会は一種の〈人生劇場〉〈世界劇場〉とみなすことができる。この場合、行為者は「役割の担い手」である。
極端な理論によると、人間は「役割の束」とみなされる。そのさい役割概念は、ある社会的場面において、ある地位(status)を占めた行為者に対して集団や社会が準備し期待する行動様式(行動パターン)とされる。図式化すると――
〈行為者〉――〈役割=地位〉←役割期待――〈集団・社会〉
この場合、役割は地位にあらかじめ備わっているもので、個人の人間性や能力・個性に関係なく期待される権利と義務のセットである。組織上の地位にともなう業務命令や工場内の分業化された職務を想起してもらえば、おおよそのイメージがえられると思う。このさい重視されるのは役割期待(role expectation)の規範性である▼2。
ところが、わたしたちはマリオネットのように社会にあやつられるまま行動するわけではない。こうしなければらないと思っていても、そうしないときもあれば、できないこともある。同じ役割でも人が替わるとやはりちがったものになる。ときにはあたえられた役割に反抗することもできるし、表面的に役割を演じながら別の自分を表現するといった芸当も可能である。
だから、ある地位につくことによって自動的に集団や社会から期待される役割を人間がそのまま演じるという従来の役割理論の考え方――そしてこれは一般にも広く流通しているステレオタイプな役割観でもある――は一種の社会決定論であり、役割を運命として受け入れる存在として、また現実を変える力のない無力な存在として人間をとらえることになっている。そこには現状肯定的・保守主義的な価値観すらうかがえる。これはあまり演劇的=ドラマティックではない。むしろ機械論的である▼3。
どうもこれは特殊な場合――限界事例――ではないか、ほんとうはもっと込みいっているのではないか。こういう疑問とともに、五十年代・六十年代の社会学界をにぎわした役割理論はどうも旗色が悪くなってきて、便利な役割概念はオーソドックスな概念として残ったものの、役割理論という名称はあまり人気のあるものではなくなった▼4。
では役割理論は過去のものかというと、あながちそうとはいえない。現代人のありようを理解するのに役割概念はやはり有効である。しかし、あやつり人形の糸のような規範主義的な役割概念では錯綜した現実へは迫れそうにない。
そもそも個人と役割のあいだに断絶があり距離があるからこそ、あえて「役割演技」という表現がえらばれたのだと思う。そこに込められていたのは人間の意識と現実の行為とのギャップであり、義務の観念とアイデンティティの相剋である。そのダイナミズムを鮮明化するところに役割概念の真骨頂がある。わたしはこの問題領域を「役割現象の被媒介過程」と呼んでいるが、ここではもっとかんたんに「役割現象論」と呼ぶことにしよう▼5。本章であつかうのはこちらの方である。
▼1 この前提には、個人と役割とが渾然一体となっていた伝統社会から個人が解放され、個人と役割が明確に分離した段階、すなわち近代社会特有のあり方がある。また自我形成は社会的な役割によってのみなされるのでなく、自然との関わりや病気体験やマスコミ体験そして宗教体験などによっても大きく左右される。
▼2 パーソンズ、佐藤勉訳『社会体系論』(青木書店一九七四年)。ラルフ・ダーレンドルフ、橋本和幸訳『ホモ・ソシオロジクス』(ミネルヴァ書房一九七三年)。ここでいう「役割期待の規範性」とは、たとえば「教師だから□□しなければならない」とか「女だから□□すべきだ」といった事態をさす。
▼3 H・D・ダンカン、中野秀一郎・柏岡富英訳『シンボルと社会』(木鐸社一九八三年)。
▼4 人間と人間のヴィヴィッドな過程が、硬直し運命化した規範的役割概念に転化してしまっているという意味で、あきらかに役割概念の「物象化」が当時の役割理論に生じていたと考えられる。P・バーガー、S・プルバーク、山口節郎訳「物象化と意識の社会学批判」『現象学研究2』(せりか書房一九七四年)。
▼5 野村一夫「ジンメルと役割理論――受容史的接近」『社会学史研究』第九号(いなほ書房一九八七年)。なお「役割現象論」という用語はウータ・ゲルハルトにヒントをえた。Uta Gerhardt,Toward a Critical Analysis of Role,in:Social Problems 27,1980.
9-2 役割現象とはなにか
als(として)規定
近代社会における個人は、社会的場面において、つねに「何者かとして」行為している。わたしたちは「役割」から始めないで「として」から思考を始めよう。
「□□として」――これこそ役割現象のもっとも基本的なエレメントである。これをかつてカール・レーヴィトは「als規定」(Als-Bestimmtheit)と呼んだことがある▼1。〈als〉とはドイツ語で「として」のことだ。わたしたちは他者をありのままに認識することはできない。かならずあるカテゴリーを適用して認識する。大学教授として・ナースとして・店員として相手を認識する。これは他者に対してだけでなく自分にも適用される。わたしたちは自分を学生として・患者として・客として類型化図式に当てはめることによって、自分の行為を方向づけていく。
このように「als規定」は、(1)他者を類型化することによって他者を知り認識する「他者類型化」と、(2)類型化図式を手がかりにして自分の行為の方向づけを定める「自己類型化」の側面からなっている。これはさらに(3)「社会関係についての類型化」に連関している。つまり〈大学教授と学生の社会関係〉〈ナースと患者の社会関係〉〈店員と客の社会関係〉といった社会関係に関する類型化図式に行為者が入り込むことになる。〈他者-自己-関係〉の三項について「□□として」という類型化がおこなわれているのである。
これは、無限の多様性をもつ社会的現実に対して、ごく限られた知的能力しかもたない人間にとっての一種の「次善の策」である。どんなに親密な人であっても、その全体を知ることは不可能だ。わたしたちはもっとも親密な人間であるはずの自分自身についてさえその全体を認識しているとはいえないくらいなのだ。類型化図式はそれを補うために社会が発明した認識装置である▼2。
相互作用の媒体としての役割
役割現象とは〈他者-自己-関係〉に関する類型化をめぐる一連の現象であり、役割は類型化図式にあたる。その構造原理は「als規定」である。このように基本構図を押さえた上で、役割現象の基本特性について考察してみよう。
(1)常識的構成体――役割はまず日常生活において行為者によって使用され、使用されることによって再生産・再構成される知識構成体であること。その点で役割は「社会学の発明ではなく社会の発明」なのである。自然認識と社会認識の根本的なちがいがここにある。自然の場合はそれを認識してえられるカテゴリーは認識する人間の側に存在するが、社会の場合は社会の側にそのようなカテゴリーがすでに存在する▼3。社会学および社会科学はそれをさらに加工し精密化する営為であるから、科学的概念は二次的構成体にすぎない。役割という類型化図式もすでに社会のなかに存在し、ある程度人びとに共有された第一次的な構成体である▼4。たとえば、わたしたちが「いやな役まわりだ」とか「役得だ」と一喜一憂すること自体、すでに役割を日常的カテゴリーとして対象化し操作していることを示している。集団に共有された知識在庫となるとき、類型化は規範性と正当性をおび、役割期待として作用する。ジンメルのことばを借りると、それは「社会を可能にする知識事実」である。
(2)個性認識――類型化図式によって認識するといっても、わたしたちは類型と他者とを同一視するわけではない。類型からのずれや偏差から他者の個性を組み立てるのだ。ジンメルによると「他者の個性の完全な知識がわれわれには拒まれている」ために「われわれは彼をその純粋な個性にしたがってみるのではなく、われわれが彼を数えいれた一般的な類型によって担われ、それによって高められたりまた低められたりした彼をみるのである。▼5」この意味で役割は一種の理念型といってよい。
(3)社会外的不可測性――これも他者類型化の側面についてである。わたしたちは警察官がたんに警察官だけでないことを知っているし、店員がたんに店員でないことも知っている。ちょうどそのときたまたまその人のものとなった役割の担い手としてのみ他者を認識し働きかけるわけではない。人は他者のその場の社会関係からはみだす部分をたえず想定する。予測可能な類型化図式に社会外的不可測性をまぜあわせるのである▼6。だからこそ、たとえば仕事上のつきあいから親密な友情や愛情が生まれうる。このように人間の相互作用は、役割と役割とがギアをかむように進行する機械的な過程ではない。たえず余剰をふくんだスリリングな過程なのである。
(4)共犯性あるいは共謀性――たとえば店員が客に「おまえジャマだよ」といったり、逆に客が店員に「いらっしゃいませ」と呼びかけるのはルール違反である。これでは客の購買行為は成功しない。〈客-店員-購買〉という類型化図式にふたりの行為者と社会的場面がおさまってはじめて「客の購買行為」のシーンが成立する。したがって双方がひと組の役割を準拠図式として採用することによってはじめて相互作用に一定の予測性と安定性がえられる。この予測性と安定性にメリットがあれば、類型的な社会関係が維持される。いやいやであろうが、一種の「茶番」としてであろうが、類型的な社会関係が共犯的=共謀的に演じられることになる。「共犯」が成立するとき相互作用の予測性と安定性が高まるために、役割の類型化図式は規範性をおびてくる。その意味で役割現象は虚構性をもっている。つまり「あたかも□□であるかのように」(als ob)経過する。この虚構的な状態は一定の強固さをもちえるものの、所詮うつろいやすい〈こわれもの〉にすぎない。それは本質的には偶発的(contingent)な現象である。
(5)事実行為性――類型化図式それ自体は抽象的である。しかし、その抽象性に対して役割演技は具体的である。演劇においてシナリオのもつ抽象性に対して俳優による上演があくまで具体的であるのと同じことである。そして注意しなければならないのは、俳優は役割のマリオネット・役割の奴隷・役割の媒体ではないということだ。「文学的にも現実的にもただひとりのハムレットしか存在しないのに演劇的には多くのハムレットが存在する」――いわば「演劇的個性」がじっさいの上演においてそのつど創造される。演劇は台本に書かれた役割の再現ではない▼7。これは日常生活における行為者も同様である。抽象的な類型化図式を手がかりにそのつど役割は具体的な事実としての行為によって創造される。したがって類型化図式の方が行為の媒体なのである。
(6)行為者の理解性――役割は相互作用における解釈図式として行為者を媒介する。行為者はその場その場で有効と考えられる役割を自分の知識在庫から選択し、それを他者認識の手だてに使ったり、自分の行為の方向づけをするのに用いる。役割についての観念とじっさいに演じられつつある役割を媒体にして行為者は自己提示・自己理解・自己反省をおこない、アイデンティティの調整をおこなう。そこでは行為者の一連の解釈が大きな比重をもつことになる。だから行為者の理解作用がなければ役割現象は成立しない。役割現象は解釈的過程である。したがって、役割の担い手といっても、個人が役割のマリオネットであるということではない。役割行為は基本的に意味行為であり、行為者の理解が大前提なのである。まさにこの点において、個人は役割の担い手となりうる。
役割概念の定義
ここまでくれば、役割現象における役割概念の意味について明確に定義できるだろう。役割とは、ルーズにいえば「類型化された期待に対する類型化された反応」である▼8。もう少しくわしくいえば「特定の有意性領域のなかで機能する規範的裏づけをもった類型化図式」である▼9。
ここでは「有意性」(relevance)についてだけ説明しておけば十分だろう。有意性とは、ごくかんたんにいえば、「ふさわしさ」「適切さ」ということだ。
たとえば、教師が自分をたんに教師としてではなく、もっと全体的にとらえてほしい――きさくなスポーツマンとか多趣味な才人として――と思ってアピールしても、教室のなかで生徒はかれを基本的に教師として認識するから「また自慢話だ」と受けとられてしまうのが関の山だろう。また男性患者が自分をひとりの若い男性としてとらえてもらいたいと思っても、病室のなかではナースはかれをもっぱら患者として認識し、そこからはみだす部分――ひとりの魅力的な男として誇示しようとするかれの行為――を患者役割からの逸脱とみなすだろう。いうまでもなくこれらのことは逆も同様である。また、上流階級の社交界ではお互いの社会的地位をもちこまないのがルールである。仕事の話をもちこむのは下品なことになる。社交界における有意性は現実社会の有意性と厳格に区別されているからである▼10。
このように一定の社会的場面においてのみ役割は強力に機能する。ある限定された時間的・空間的・社会的文脈が特定の役割に優先的に妥当性と正当性をあたえるのである。だから、教室においては〈教師-生徒〉関係が優先され、病室においては〈ナース-患者〉関係が優先される。他方、教師の自宅に遊びにいった生徒は、音楽マニアとしてのかれやそのフェミニストぶりを発見しやすいだろうし、路上で再会した元患者とナースの会話は病室でのそれとまったくちがったものになるはずである。社会的場面が変わることによって有意性が変わるからである。つまり場面ごとに優先順位が変わるということだ。教室のなかでは〈教師-生徒〉関係が他の類型化図式よりも優先され、また病室のなかでは〈患者-ナース〉関係が優先される。これが「有意性領域」のおおよその意味である。
さまざまな役割類型
役割にはさまざまな類型がある。役割についてイメージをふくらませてもらうために、形式別に一覧してみよう。もちろん以下に示すのは役割のごく一部にすぎず、分類も暫定的な不完全なものである。
(1)年齢役割――子ども・若者・大人・中年・老人▼11
(2)家族役割――夫・妻・長男・親・母・末っ子・一人娘▼12
(3)性役割――男・女▼13
(4)職業役割――医師・看護婦・教師・ガードマン・役人・軍人・事務員・セールスマン・営業マン・研究員▼14
(5)組織内の地位・職務――平社員・主任・課長・部長・社長・ディレクター・プロデューサー・カメラマン・タイムキーパー・スポーツの各ポジション▼15
(6)状況的役割――受験生・浪人・失業者・討論会の進行役・ゲスト・隣人・観客・遺族・新郎新婦・病人・患者・被害者・加害者・よそ者・恋人・リーダー・子分・いじめっ子・傍観者・送り手・受け手▼16
(7)逸脱的役割――犯罪者・前科者・変わりもの・変質者・精神異常者・不良少女・ツッパリ・同性愛者▼17
(8)性格類型――お人好し・頼りがいのある男・淋しがり屋・うそつき・おせっかい・スポーツマン
それぞれに「らしさ」をもっているこれらのなかには、もともと生まれもってきたものもあれば、医師のようにこつこつと努力した末にようやく獲得できるものもある。観客のようにすぐ離脱できるものもあれば、前科者のように一度押しつけられるとなかなか離脱できないものもある。また厳密な定義をもつものもあれば、相当ルーズなものもあるし、特権をもたらすものもあれば、汚名をもたらすものもある。人間はこれら多様な役割を理解し使い分ける担い手として社会的相互作用過程のなかに登場する「多元的役割演技者」(multiple-role player)なのである▼18。
▼1 カール・レーヴィット、佐々木一義訳『人間存在の倫理』(理想社一九六七年)。レーヴィトは著名な哲学者。なお「als規定」と同様のことをすでに第五章の冒頭で説明しておいたので参照してほしい。そこではシュッツを利用した。
▼2 ハインリヒ・ポーピッツは「行動の規則性は、社会学の発明ではなく、社会による発明である」とのべている。ポーピッツ「社会学理論の構成要素としての社会的役割の概念」J・A・ジャクソン編、浦野和彦・坂田正顕・関三雄訳『役割・人間・社会』(梓出版社一九八五年)三六ページ。
▼3 ジンメルの「社会はいかにして可能か」はこの文脈で役割現象について論じたものである。ジンメル、居安正訳『社会分化論 社会学』(青木書店一九七〇年)。ポーピッツの前掲訳書も参照のこと。
▼4 ここで依拠しているシュッツによると「われわれは、他者を類型化するために、そしてまた自分自身を類型化するために用いられる、諸々の常識的な構成概念は、そのかなりの程度までが、社会的に獲得されたものであり、そして社会的に是認されたものであることを、心に留めおかねばならない」という。M・ナタンソン編、渡部光・那須壽・西原和久訳『アルフレッド・シュッツ著作集第一巻/社会的現実の問題[I]』(マルジュ社一九八三年)六八ページ。
▼5 ジンメル「社会はいかにして可能か」前掲訳書二一二ぺージ。
▼6 ジンメル、前掲訳書二一六ページ。
▼7 この点についての先駆的業績として、未完の草稿ではあるが、ジンメルの「俳優の哲学」が示唆に富む。土肥美夫・堀田輝明訳『断想』[ジンメル著作集11]。引用部分は二七三ぺージ。
▼8 P・L・バーガー、水野節夫・村山研一訳『社会学への招待』(思索社一九七九年)一四〇ページ。
▼9 ハンス・ぺーター・ドライツェルによる定義。深澤健次「演劇論的役割論の構造――E・ゴフマンとH・P・ドライツェル」『東京農業大学一般教育学術集報』第十六巻(一九八六年)五九ページによる。なお、本章で準拠しているアルフレッド・シュッツとハンス・ぺーター・ドライツェルによる役割概念についてはつぎの文献を参照。アルフレッド・シュッツ、森川眞規雄・浜日出夫訳『現象学的社会学』(紀伊國屋書店一九八〇年)第五章と第十三章。またはアルフレッド・シュッツ、中野卓監修・桜井厚訳『現象学的社会学の応用』(御茶の水書房一九八〇年)第八章「平等と社会的世界の意味構造」。ドライツェルの役割分析については、水野節夫「H・P・ドライツェルにおける役割論の展開(上・下)」『社会労働研究』二四巻一・二-四号(一九七八年)。深澤健次「役割と行為――H・P・ドライツェルの役割概念を中心に」『東京農業大学一般教育学術集報』第十三巻(一九八三年)。
▼10 社交については、ジンメルによる興味深い分析がある。阿閉吉男訳『社会学の根本問題――個人と社会』(現代教養文庫一九六六年)第三章。
▼11 老人役割については20-2参照。
▼12 家族役割については15-2参照。
▼13 性役割については15-2参照。
▼14 医師の役割については9-4および23-3参照。
▼15 組織内の役割関係は、地位や職務としてフォーマルに規定されたものだけからなるわけではない。14-1以下を参照。
▼16 観客の役割については18-2参照。病人・患者・被害者の役割については22-3および23-2参照。送り手と受け手の役割については10-1や11-3などを参照。
▼17 逸脱的役割については20-2以下参照。
▼18 E・ゴッフマン、佐藤毅・折橋徹彦訳『出会い――相互行為の社会学』(誠信書房一九八五年)一五九ページ。
9-3 社会化と役割取得
子どもの社会化
近代社会において社会の一員になるということは、multiple-role playerとしての一定の能力を身につけることだ。そして役割のいくつかを選択的に受け入れ、受け入れた役割を核にしてアイデンティティを確立してゆくことである。幼年期から青年期にかけてなされるこの一連のプロセスのことを「社会化」(socialization)という▼1。したがって社会化とは第一義的には子どもの社会化のことである▼2。
ミードによると社会化は役割の学習によって進行するものであり、他者の役割と態度を自分のものにすることによって可能になる過程である。これを「役割取得」(role-taking)より正確には「他者の役割を取得する」(taking the role of the other)という。「取得」という訳語は少々とりつきにくいが、「他人の態度をとりいれる」とか「他人の役割を採用する」といった意味である。ミードは晩年これを「他者のパースペクティヴに入る」といいかえているから、これで納得してもらってもかまわない。
子どもは他者との相互作用のなかで、自分と他人の位置づけや役割の属性[□□らしさ]を学んでいく。この場合の他者とは第一に母親であり家族であり遊び友だちである。これらの人たちを「重要な他者」(significant others)と呼ぶ。
社会化の過程のなかでひときわ重要な段階は「ごっこ遊び」(play)と「ゲーム遊び」(game)である。「ごっこ遊び」とは、たとえば「お医者さんごっこ」であり、「お店やさんごっこ」「ままごと」である。この遊びのなかで看護婦さんの役割や店員さんの役割や母親の役割を学習する。つまり、まねたり、ふりをすることによって、男らしさ・女らしさ・子どもらしさ・お兄ちゃんらしさといったもろもろの類型化図式に付随する他者の態度を自分のなかに呼び起こすのである。これは第一に人間が反省能力をもっていること、第二に役割がそれを演じることによってその気にさせるという働きをもっていること、このふたつの人間独自の現象による。
さらに野球などのスポーツのような「ゲーム遊び」になると、自分に当てがわれた役割を演じるだけではだめで、複数の他者の演じるさまざまな役割をすべて関係づけて理解していないとゲームに参加できない。複数の他者の役割と態度を意識のなかで組織化していなければならない。意識のなかで組織化されたこの複数他者の態度のことをミードは「一般化された他者」(generalized others)と呼ぶ。「一般化された他者」とはこの場合ゲームのルールにほかならないわけで、これはもはや具体的な他者ではなく、抽象的な「共同体」であり「集団」であり「社会」である。そしてこれが前章で説明した「客我」(me)にあたるわけだ。
大人の社会化――第二次社会化
社会化のプロセスは、しかし、子どもだけとはかぎらない。大人にしても新しい社会的場面に参入するときには、第二次社会化ともいうべきプロセスを踏むことになる。それはたとえば、就職したとき・転職したとき・昇進したとき・単身赴任したとき・子会社に出向したとき・入院したとき・障害者になったとき・結婚したとき・犯罪者になったとき・囚人になったとき・徴兵されたとき・改宗したとき……従来のアイデンティティの軌道修正をよぎなくされるときに生じる。
第二次社会化は第一次社会化とちがって、まったく新しくアイデンティティを形成するわけではなく、基本的には新しい役割に関する特殊な知識を獲得することである。大学卒業者が企業に入って新人研修をうけたり、看護学生として看護学校や実習病院で訓練をうけたりする過程がそれである。しかし、この過程のなかで、かれらはたんに技術的な知識を習得するにとどまらない。〈営業マンとしてのアイデンティティ〉〈ナースとしてのアイデンティティ〉を形成していくことになる。
というのは、人間は特定の役割を引き受けることによって、自分のアイデンティティを再編成するからだ。役割にはその類型的な行動に付随する感情や態度が内蔵されているのである。はじめは周囲の期待や要望に無理に応えるようにしてなされた役割行為も、しだいにその気になってきて、やる気がでてくる段階に達する。やがて満足感や充実感をおぼえるようになる。こうして、はじめはヨソヨソしい仮面だった役割が、いつのまにか自分自身の顔そのものになっていく。装っている当の者になる。たとえば新人営業マン・新任教師・新人ナースというものは当初「それらしくない」ものだ。それがしだいに「らしさ」を備えていく。
このなりゆきが「同調」であるか、それとも「自己実現」であるか、判断はむずかしい。「同調」(conformity)とは、集団内の他の人びとと同じ意見・態度をとることであり、「自己実現」(self-realization)とは、自分の人格と能力と個性が十分に活かされ社会的にも評価されることである。この問題を考えるためには、もう一度「役割取得」のメカニズムに立ち戻る必要がある。
役割形成としての役割取得
ラルフ・H・ターナーによると、役割取得は他者の態度とパースペクティヴをそのまま自分のなかに取り入れる[内面化する]のではないという▼3。ことによると、強力な官僚制組織や軍隊組織において存在するかもしれないが、それは例外である。現実には、人間は複数の他者の態度とパースペクティヴを「選択」し、自分なりに「解釈」する。その結果、他者の役割期待は修正され、新たに再構成されることになる。この選択的解釈過程に個人の個性と主体性がにじみでる。これこそミードが〈客我に対する反応としての主我〉として名指しした現象である。
だから、子どもが自分のなかに他者の態度を取り込むことによってみんな分別ある大人になっていくわけではないし、大人も第二次社会化において集団や組織に同調するばかりで個性などなくなってしまうことはない。
主我は個体独自の反応であり個性的なものだ。このように自我を客我と主我の対話[Iとmeの対話]ととらえると、社会化が個性化でもあることがわかる。逆にいうと、個性は社会化から生じるのだ。常識的なステレオタイプでは、社会化すなわち大人になることとは社会の要求に同調することだと考えられているし、一時期の社会学理論もそう教えていた。それだけに、社会化がむしろ個性化の基礎であることをあらためて確認する必要がある。
▼1 「社会になること」という意味で用いられるジンメルの社会化概念とはまったく異なるので注意されたい。5-3参照。
▼2 以下の説明ではおもにG・H・ミードとP・L・バーガーとT・ルックマンを参照した。ミード、稲葉三千男・滝沢正樹・中野収訳『精神・自我・社会』(青木書店一九七三年)。P・L・バーガー、T・ルックマン、山口節郎訳『日常世界の構成――アイデンティティと社会の弁証法』(新曜社一九七七年)。バーガー、前掲書。
▼3 Ralph H.Turner,Role-Taking:Process Versus Conformity,in:Arnold M.Rose(ed.),Human Behavior and Social Processes:An Interactionist Approach,1962.
9-4 さまざまな役割現象
役割葛藤と社会学的アンビヴァレンス
これまで役割現象の基底的な構造原理について理論的に考察してきた。今度は、役割現象のもっと表層にあるさまざまな現象について一覧することにしよう。いずれもわたしたちがつね日ごろ遭遇する経験である。したがって、ここでする作業の目的は、ありきたりのことをむずかしく説明するのではなく、それらを概念化することによって日常生活の自明性を反省的にとらえかえすチャンスをつくりだすことにある▼1。
たとえば、医者の役割を考えてみよう。患者に対する医者の役割には、じつはふたつの矛盾する役割期待がふくまれている。第一に、患者に対して感情にとらわれずに冷静に診断することである。でなければ「いい加減だ」とか「やぶ医者」といわれかねない。とくに女性患者の場合には対応をまちがえると「いやらしい」といわれてしまう。その一方で、医者の役割には、患者に対して同情的な関心を示すことも要求される。痛みを訴える患者に対して「それはつらかったでしょう」の一言もつけくわえるぐらいでないと「人情味がない」とか「冷たい」と評価されてしまう。
医者という職業も、それなりにツライものがあるわけだが、このふたつの役割期待を同時に満たすのはむずかしい。この場合、医者というひとつの役割に、ふたつの矛盾する役割期待が寄せられているわけで、まじめな医者ほどディレンマに陥る。もっとも、現実に医者がどれだけ苦しんでいるかはわからないが。
このように、競合・対立・矛盾する役割期待のために、行為者が内的葛藤をともなう調整をしなければならない場合を「役割葛藤」(role confict)という。
教師も役割葛藤をおこしやすい職業役割である。というのは、教師として関わる人びとによって役割期待が大きく異なるからだ。たとえば、話を生徒たちにかぎっても、かれらはさまざまな要求をもっている。受験向けの技術的な授業を望む者もいれば、やさしくわかりやすくやってほしいと望む者も多い。とにかくこの時間が楽しくすぎればいいと思っている生徒もいれば、あてないでほっといてくれさえすればいいという生徒もいる。これらさまざまな期待をもつ生徒たちを一斉授業のなかで同時に納得させることは至難の技である。これにくわえて、親は、うちで子供を甘やかしているつぐないとして、せめて学校では厳しく指導してほしいと期待している。教員どうしでは、なるべく突出しないように規制しあっている。上司や教育委員会では、文部省の指導通りに無難にこなすことを期待する。しかし、自分には自分なりの理想とやり方がある。
学校は、タテマエ上、自由で民主的な人格形成の場として制度上位置づけられている。そのため、校内暴力やいじめや管理のゆきすぎなどの問題をきっかけに、外からさまざまな批判がたえず寄せられる。じっさい「法律や人権の何たるかを少しでも知っている教師は、自分が生徒たちにしている指導や原理が民主的かつ合理主義的であるなどとは思っていない。現在のやりかたがどうしても必要なのだということだけが、彼らにわかっていることである。学校には、生徒が納得しようがしまいが押しつけなければならないことがゴマンとあり、それを放棄してしまったら、学校は学校として成り立たなくなってしまうのだ。もちろん、教師は生徒に押しつけをしたりしないで、生徒の要求に沿っても民主的にやりたいと本心から願っている。[中略]つまり、教師はつねに引き裂かれているのである▼2。」
ということだが、これはつまり、ひとつの役割といっても、じつはひとつではなく、正確には一群の役割・一連の役割というべき現象なのである。これをマートンは「役割群」(role set)と呼んだ▼3。役割がじっさいには役割群であるかぎり、役割葛藤は大なり小なり生じることになる。しかもこれは個人の問題ではなく、あきらかに社会構造の問題である。
このようにひとつの役割であっても、矛盾するいくつかの役割期待と個性的反応をふくんでいるわけで、正確には「役割内葛藤」(intra-role confict)という。ここから考えると、ひとりの人物が複数の社会的場面で遭遇するさまざまな役割期待が矛盾しないわけがない。たとえば社内の人望を集めている有能なエリート部長という役割と、妻にも子供にも相手にされない所在なき父親という役割のように、こちらの方は「役割間葛藤」(inter-role confict)という。いずれも社会の「しわよせ」すなわち構造上の矛盾と対立が個人にやってくる場合といえる。マートンはこのような役割現象を総称して「社会学的アンビヴァレンス」(sociological ambivalence)と呼んでいる▼4。アンビヴァレンスとは「両義性」とも訳されることばで、精神分析学では分裂病の基本症状に使われることばである。「相反するものにひきさかれる」というイメージでとらえてもらえばいい。調和のとれた社会でないかぎり、社会学的アンビヴァレンスから逃れることはできないのであり、近代においてそれはユートピアである。
役割のずれ
役割葛藤が基本的に社会構造に原因のある問題だとすれば、「役割のずれ」はおもに個人の方に原因のある役割現象であるといえる。根本的なことは、人間が本質的に役割のマリオネットではありえないことだ。どうしても「人間的な」部分がでてきてしまう。まず適応能力の不足がある。また役割についての知識のずれ・ゆがみ――といっても社会や集団における中心的規範に対してだが――がある。片寄った教育や特定集団にみられる偏見などによって生じるものもある。第三に役割演技のさいの実行上のずれ・ゆがみがある。自分では役割期待どおりにやっているつもりでも、じっさいにはずれている場合である。
台本と本番の演技がちがうように、また役者によって味わいがちがってくるのと同じように、結局これらは可能性としては「役割形成」にあたる。「失敗」も新しい役割の創造にはちがいないのだ。
役割距離
人は役割を演じるだけでなく、演じるふりをすることがある。つまり「自分はこの役割に愛着はないのだ、本当の自分はこの役割のなかにはないのだ」ということを役割行為のなかで表現することがある。
たとえば、メリーゴーランドに乗った三才か四才ぐらいの子供であれば、規則的にゆれる木馬を一生懸命乗りこなそうとするだろう。この場合、その子は「メリーゴーランドの騎手」の役割を完全にうけいれている。ところが五才ぐらいの男の子となると、こうはいかない。鞍の上に立ったり、ひつくり返ってみたり、とにかく余裕で乗りこなせることを誇示するようになる。七才か八才ほどになると、ふざけたりさまざまな限界に挑戦したりする。十代になると、今度は積極的に競馬のしぐさをしたりして「メリーゴーランドの騎手」の役割を〈冗談〉として引き受けていることを表現しようとする。大人になると、もっと複雑な技巧でもって〈冗談〉であることを表現する。あるいは、息子や娘の安全のために乗っていることを表す表情をしたりする▼5。
これはアメリカの遊園地での観察例だが、このようにメリーゴーランドの騎手という役割それ自体は非常にかんたんなものであるにもかかわらず、それだけにいっそう、その役割と自分のあいだにくさびをうつ表現技巧が要請される。
このように、演じている本人はまったくその気がないことを表現しながら役割行為がおこなわれることを「役割距離」(role distance)という。この概念の提唱者アーヴィング・ゴッフマンによると、役割距離とは「個人とその個人が担っていると想定される役割との間の『効果的に』表現されている鋭い乖離」である▼6。
メリーゴーランドの例はあきらかに極端な場合で、日常生活と直結したイメージをもちにくいかもしれないが、わたしたちは皮肉や冗談・ユーモアによって〈ほんとうの自分〉と役割行為のあいだに距離をとっているはずである。ゴッフマンは外科医の手術中の役割距離行為を中心に分析しているが、それは各人の役割が厳密に定義されているような状況においてこそ役割距離が有効に機能するからである▼7。ちなみにゴッフマンによると、上位にある者の方が下位にある者よりも有効に役割距離を表現できるという。下位者がこれをすると役割拒否とみられるのに対して、上位者の役割距離はリジットな状況を緩和するので下位者にも支持されやすいからである▼8。
行為と表現のディレンマ
役割距離の現象において、役割と自己を分離して表現するのは、オーディエンス[受け手/観客]がいるからである。それは役割の相手としての他者であるかもしれないし、まったく別の傍観者かもしれない。行為者はこのオーディイエンスに対して演技する役割演技者である。わたしたちは、ここでようやく「日常劇場」の現場にたどりつく。
授業を真剣に受けているということを先生に認めてもらいたいと願う子どもは、それだけで疲れてしまって先生の話どころでなくなってしまう。このように、役割の行為と表現はしばしばディレンマにおちいる。たとえば、外科担当のナースはその活動がみえやすく患者や家族から感謝されやすいのに反して、内科担当のナースはその活動がシロウトにはわかりにくいために、患者の呼吸や顔色を観察している彼女が仕事中であることに気づかれない▼9。
こうしたことがあるために、行為者は自己提示のさいに、相手の自分についての知識をコントロールしようとする。早い話が「よそおう」のである。これをゴフマンは「印象操作」(impression management)と呼ぶ。自己に関する情報の隠ぺい・秘密・脚色・漏洩などの情報統制によって、他者の状況の定義づけに影響をあたえようとするのである▼10。
役割能力
これまで「人間論」として、社会のなかで個人はどのような存在であるかということについて論じてきた。個人は自分が交渉する他者の数だけ自我をもっている。人間は本来「多重人格」なのだ。そのなかで比較的安定し一貫性をもつ自我像がアイデンティティである。「わたしはわたし」という実感だ。このようなアイデンティティをつくりあげていくことが青年期のもっとも重要な課題となる。そのさい、アイデンティティの中核となるのは、多くの場合「役割」である。現代人は、自分にあたえられたか、もしくは選びとった一群の役割を中心に多様な自我を再編成し、ある程度の一貫性をもった自己定義をつくりあげる。
このさい一般的な常識では見落としがちなことが二点ある。ひとつは、自我にせよアイデンティティにせよ役割にせよ、自分だけで決められるものではなく、あくまで他者との関係で決まるということ。たとえばアイデンティティも自己定義だけでは安定しない。他者の承認が必要不可欠だ。だから「わたくしといふ現象」は、たしかに主観的現実にはちがいないが、本質的に社会的な現象なのである。
ふたつめは、役割はかならずしも「よそよそしい仮面」とかぎらないこと。ときには自己実現のメディアとなることもある。また、ある役割に対して期待されること[役割期待]は、多くの場合ある程度の幅をもっている。自己裁量の余地もあるし、主体的な役割形成の可能性もある。だから行為の自由は役割の外側にあるのではなく内側に存在する。役割を外在的で拘束的で運命的なものとしてとらえてしまうと、役割はいともかんたんに物象化してしまう。つまり、人間間の相互作用のなかから生じ、相互作用の媒体として機能する役割は、本質的に流動的な形象であるにもかかわらず、それがあたかもモノのように固定的に自明視されてしまう。これは一種の判断停止[エポケー]である。このように役割をとらえてしまうと、役割からの離脱にのみ真のアイデンティティをみいだし安らうことになってしまう。とくに現代人は、「真の自己」(real self)を役割の外に求める傾向がある。このような日常意識の物象化に反省の契機をもちこむ――脱物象化する――ところに役割現象の社会学理論の存在意義がある。
人間と役割の関係は一方的なものではないし、まして人間が役割によってがんじがらめに拘束されているわけでもない。むしろ役割は個人の自律性と自由の媒体でさえある。ただしこれには一連の役割現象をうまくきりもりできる資質が必要である。ハバーマスはこのような資質を「役割能力」(Rollenkompetenz)と呼んだことがある。役割能力とは、目下おかれている状況のなかで、役割葛藤を意識的に解決し、社会学的アンビヴァレンスをあるがままに耐え、原理上多義的な行為状況を解明して役割の矛盾をのぞき、自己を間接的に適切に提示し、内面化した規範に対して自己を反省的に関係づけ操作し、役割を柔軟に応用し、役割距離を用いてアイデンティティを確証していく能力である▼11。これはきわめて高度な能力だ。しかしそれでも、社会化の過程でこのような役割能力が獲得できるような社会のあり方をわたしたちは模索していく必要がある。また、これからの教育や看護の領域で要請されているのも、このような人間像ではないかと思う。
▼1 新睦人「役割理論」富永健一・塩原勉編『社会学原論』(有斐閣一九七五年)にくわしい議論があり、ここでも参照した。
▼2 諏訪哲二『反動的!学校、この民主主義パラダイス』(JICC出版局一九九〇年)六-七ページ。
▼3 マートン、金沢実訳「準拠集団と社会構造の理論(つづき)」の「問題七」参照。マートン『社会理論と機能分析』(青木書店一九六九年)所収。
▼4 マートン、金沢実訳「アンビバランスの社会学理論」前掲訳書所収。
▼5 E・ゴッフマン、佐藤毅・折橋徹彦訳『出会い――相互行為の社会学』(誠信書房一九八五年)一一一-一一八ページ。
▼6 前掲訳書一一五ページ。
▼7 前掲訳書一二六-一四六ページ。
▼8 前掲訳書一四一-一四二ページ。
▼9 E・ゴッフマン、石黒毅訳『行為と演技――日常生活における自己提示』(誠信書房一九七四年)。豊富な事例を使用した驚異的な分析である。若干の人間不信になるかもしれないが一読の価値がある。
▼10 前掲訳書。
▼11 栗原孝「役割能力論の考察――J・ハーバーマスの人格論によせて」『社会学評論』一三五号(一九八三年)による。
増補
役割行為論
一九九〇年代になると役割理論は具体的分析のなかに解消されてしまう。これはある意味では正当なことであろう。しかし、具体的分析のさいに使用される役割概念の社会学的特性に無自覚では分析も深まらない。その点で、薬害事件と冤罪事件に題材をとって、その具体的分析において役割概念を駆使した、栗岡幹英『役割行為の社会学』(世界思想社一九九三年)は、現実に生起する役割概念に対して自覚的かつ理論的に照明を当てた研究として注目できる。
この流れでいえば、この文章の6章で紹介した宮台真司の一連の時代診断学的仕事も役割分析の応用と見れなくもない。社会的カテゴリーとしての役割現象を考える上でのヒントがたくさん語られていると思う。
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