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4月 152018

リチャード・ワーマン「5つの帽子掛け」

今年から新しい科目を担当することになり情報デザインをテーマにしたミニゼミを始めたところ。前半はワーマンによる情報構造化の5つの方法について丹念にレッスンする予定である。これを機にワーマンの最初の「情報不安症」である『情報選択の時代』を読み直している。このあと全面改定した本があって最近はそればかり見ていたが、元に戻った方がわかりやすくて説明も詳しい。情報デザインに焦点を当ててみると、たいていのことはこの本に書いてあるとわかる。1990年代に読んだときにはよくわかってなかったと思う。

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3月 232018

恐怖政治でないやり方はないのか?

というわけで、恐怖政治ではない形で水準を上げられないか、そして誰も振り落とさずに全員がタスクをこなして能力をアップデートできないか、それを精神主義ではなくてスマートに解決できないか。いま考えているのは、こういう課題である。これ、スマートでないと続かないから。となると属人的なものではなく仕組みとして構築し、マニュアル化まで行かないと定着しない。私自身もくたびれてしまうし、学生たちも嫌気がさして遠のいてしまう。なぜなら、教員も学生もわざわざ引き受けなくてもなんとかなるような「ムダ」なエフォートだから。今どきの学生は合理的。コスパと感情コストをちゃんと考える。単位とか資格とかに直結する制度的裏付けのあるタスクではなく、たいていは見通しの悪い話には断じて乗ってこない。

ただ、私がミッションとしているのは、新しく創造的であるがゆえに既成の制度的枠組みからはみ出すような仕事のできる人を送り出すことなので、少なくとも志願し履修してくれた学生には、そういう仕事に対応できる能力と知性を多少なりとも伸ばしてもらいたいのである。せめて耐性を付けてほしい。じっさい、有名企業に行きたいのであれば他の先生たちの方が数十倍すぐれているから、何も私の元に集まらなくてもいいのである。

ここ数年はかなりこまめに指導するようにしてきたが、クラウドでほとんどのことができるようになり、全面的に移行した。5年ぐらい前から自分ではそうしてきたが、Wi-Fi環境さえあれば、学生はスマートフォンをもっているから、その場でいろんなことができる。チープな私たちにとっては、ようやく時代が追いついてきたという感じがする。
この半年はWorkplace by Facebookをフル活用してバックヤードでのコミュニケーションを全部そこに移し、原稿はStockに集め、トッパンエディナビで編集して版下を作って、何度もチェックし合い、最後にオンデマンド印刷をした。テーマ別新書が8冊、最後の振り返り本が1冊、2年ゼミ生だけで作った。私も学生たちもいろいろ苦労したが、なんとか全員参加で完成した。
その上で、次のモードにレベルを上げようとしているので、立ち止まって進め方を考えているのである。学生がサボるとか、ずるをするとか、そんなレベルの話をしているのではない。
アクティブラーニングをベースにした学生主体の能動学習が大前提である。成果物制作を主軸に学習できるようなプログラムを開発している。そのさい、いわゆる教員用のマニュアル本のようなものはものたりないので、ビジネスシーン向けのチーム論などを参照して、それをこちらに転用することをしている。ここ数年次々に刊行されているアメリカの経営大学院の先生たちの翻訳書がとても参考になるのである。とりわけプロジェクトチームの運営方法やベンチャー企業のスタートアップの話は今の私の現場に直結しているように思う。
演習系だけでなく講義系も、クラウド主軸、コンテンツ制作主軸、チーム主軸、情報デザイン主軸にシフトさせるつもりだ。それでデフォルトから考え直しているのである。この話はまだまだ続く。

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3月 232018

ムダにがんばるということ

どの授業もそうだが、学生・院生の温度差をどのようにハンドリングするかが悩ましい。たいがいの先生たちは省エネで「結果オーライ」かつ「去る者は追わず」である。だから保守的な企業は、大学での勉強よりも入試時点での学力の方を信用することになる。これを打破するには、一方で脱落しそうな学生を引っ張り上げ、他方で意欲とのびしろのある学生を積極的に後押ししなければならない。で、その分岐点は能力と言うよりも温度差にある。と言うか、勉強への熱意そのものが重要な後天的能力なのである。では、そのような熱意はどこから生まれるのか。
いやいや、そういうことを書きたいのではない。いま書きたいのは、学生たちのあいだにある大きな温度差が焦点化しないような解法がないかということである。この解法は属人的なものになりがちだが、カリスマ性の薄い自分としては、意欲の高低に左右されない勉強のプラットフォームが組み立てられないかを考えている。
ただし、私が言う「勉強」はカリキュラムをこなすという意味での「勉強」ではない。いまどきの学生は上手にそれはこなして単位を取っていく。そのあたりについては全然心配していない。制度的なしばりが明確なので、それなりに説明をしてあればたいてい大丈夫である。要するに、自分だけが進級できない・卒業できない状況だけは恥という恐怖があるから。すべて相対評価の世界の中で、誰かが背負わなければならない十字架を自分が背負うことにだけはなりたくないという恐怖である。相対評価というものは、必ず敗者を焦点化するから、一見おだやかでゆるい競争のように見えて、じつは過酷な競争構造になっているのである。相対評価の世界は「恐怖政治」なのである。いじめやそれに類した病理的な現象は、そういう恐怖政治に対する予防措置なのである。だれでもいいから、あらかじめはじき出しておけば、自分は敗者にはならないということだ。
この中で学生たちにとって自分の有限なエフォートをどのように振り分けるかの問題は日常的関心事となる。当然「その他の勉強」をいかに省力化してスルーするかを考える。いや、そもそもそんなものに意味はないから、都合のいいところだけをつまみ食いするのが当たり前になる。よく学生たちが言う「ムダにがんばった」という自嘲的な表現は、その他の勉強にエフォートを割くこと自体が異常認定されるキャンパス文化における比較的安全な表現である。
大学改革の中で必ず相対評価の必要性が叫ばれるのは、相対評価こそがもっともかんたんで有効な学生管理技法だからである。しかし、私は上に述べた点において相対評価には断じて反対である。むしろ「ムダにがんばった」ところだけが本当の意味での自分のアップデートになると思うほどである。
さて、「それで温度差が焦点化しないような解法」の話に戻りたいが、長くなってしまった。いったんこれで公開とする。

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3月 102018

ウェブデザインを学び直す

いよいよ12年ぶりにゼミサイトを作ることにしたので、ソキウスを実験台にしてあれこれ試しています。個人芸としてのウェブデザインはできるのですが、チーム芸としてのウェブ運営はまた別のことになります。基本的には情報デザインの観点からアプローチするつもりですが、やはりグラフィックなデザイン性がないと、やる気が起きないものです。チーム芸としてのワークフローと、良質なデザイン性を勉強し直しているところです。写真の2冊はいずれも企業の公式サイトを前提にして書かれたもので、この種のものはたくさんありますが、結局役に立っているのがこの2冊です。左の本がチーム芸、右の本がデザイン性。

今はクラウドで全部できるので、こういう知識さえあれば、かなり自由にまとまったコンテンツが表現できるようになりました。全部、スマホとパソコンのブラウザでできてしまう。問題なのはユーザーの方で、ある場所に行くとみんなかんたんにできるのに、ある場所に行くと誰もできないばかりか、こういう知識をバカにしたり忌み嫌う人たちばかりが固まって棲み分けているのです。メディアを使えるかどうかは、どんなメディアであれ、その人を有能にすると考えるので、大学の教育現場においてもかなり重要な知識だとずっとずっと思ってきました。

独自のコンセプトが固まってきたので、授業全体も大きく情報デザインにシフトするつもりです。となると、実践的な技術が不足するので、急いで補っているところです。

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4月 192017

健康の批判理論序説

健康の批判理論序説
野村一夫
“Knowledge is a deadly friend…”(King Krimson)
一 健康と病いの社会学——理論的系譜
二 社会構築主義の導入——理論的核心
三 問題領域の拡大——研究対象
四 公衆衛生学的医療社会学との比較——対抗軸
五 健康言説批判——方法論的戦略
参考文献
一 健康と病いの社会学——理論的系譜
■本稿の目的
医療と社会の関係を問う社会学的研究は長らく「医療社会学」(medical sociology, sociology of medicine)と呼ばれてきた。これについては、進藤雄三による詳細なレビューがある(進藤雄三 1990)。これによってアメリカで急成長した医療社会学の全体像が一気に明らかになった。ところが、その後、八〇年代末から九〇年代にかけて、医療と社会をめぐる社会学的研究は大きく変化した。とくにイギリスとオーストラリアの研究者が活発に研究成果を発表することで、アメリカ種の医療社会学とはニュアンスを異にする、それ自体ひとつの新潮流とも言えるような研究系譜が形成されるにいたったのである。それは通常「健康と病いの社会学」(sociology of health and illness)と総称されている。この一見変哲のない名称のもとにパブリッシュされつつある一連の研究は、しかし、名称から受ける印象のように穏健でもなければ安全でもない。それはむしろ「健康の批判理論」(critical theory of health)と呼ぶべきラディカルさをもつ研究運動であり、その周辺の研究系譜との連接関係を深めることで、強力な理論潮流になりつつある。本稿の目的は、そのラディカルさを中心に、この「健康と病いの社会学」の研究動向のアウトラインをひとまず総論的に理解することである。
まず、この最初の章において、「健康と病いの社会学」とその周辺の研究動向を整理して、理論的系譜をあきらかにしたい。第二章において、「健康の批判理論」と私が総称する一連の研究の理論的特徴を「健康と病いの社会学」に即して明確に示したい。第三章では、研究対象としてどのようなテーマが俎上にあげられるのかをリストアップして、「健康の批判理論」の問題領域を示したい。第四章では、その理論的特徴が、現在まで日本でおこなわれてきたような医療の社会科学的研究のメインストリームに対する有力な対抗軸に位置づけられるものであることを論じて、研究のスタンスについて語りたい。最後の章では、「健康の批判理論」の方法論的戦略を提示したい。そのさいキーワードとなるのは「健康言説」という、私たちが新たに考案した造語である。経験的研究をなすさいの手がかりを明示して、今後展開予定の研究活動の序説としたい。
■機能主義から社会構築主義へ
さて、二〇世紀後半のアメリカで急速に発達した医療社会学と、本稿で取り上げる「健康と病いの社会学」との関係はどうなっているのか。両者は対抗するものなのか、継承関係にあるのか。まずこの点から確認していこう。
デボラ・ラプトンは「健康と病いの社会学」へいたる「医療と社会」研究の理論的変遷を三段階に整理している(Lupton 1994:6-13)。三段階とは、機能主義、政治経済学(マルクス主義)、社会構築主義である。
それによると、まず、機能主義的アプローチ(functionalist approach)では、医師などの医療専門家が日々の業務を遂行するプロセスや、個人が病気に対処する仕方に興味をもつ。この場合、病気は潜在的な社会的逸脱状態と見なされ、医療専門家の役割は、かつて教会が果たしたように、正常と逸脱を区別する力を用いて社会統制の不可欠な制度あるいは社会の道徳的管理者としてふるまうことだとされる。この機能主義的アプローチの指導的理論家はもちろんタルコット・パーソンズである。かれの理論は五〇年代から六〇年代にかけて大きな影響力をもったが、医療社会学への影響は非常に大きかった。
これに対抗する批判勢力として出てきたのが政治経済学的視角(political economy perspective)である。資本主義経済体制の本質に対するマルクス主義的批判がその理論的核心にある。これは七〇年代から八〇年代にかけて支配的な知的運動だった。この観点からすると、真の健康とは、たんに身体的情緒的安寧ではなく、満足するに足るハイレベルの生活を維持するのに必要な資源(これには物質的なものもあれば非物質的なものもある)にアクセスできること、そしてそれらを統制できることにある。この見方からすれば、健康の基軸的構成要素は「闘争」(struggle)以外の何者でもない。
この系譜の研究の中で近代医療の文化的危機を批判する一連の研究の代表格が医療化論である。このテーゼの源泉はエリオット・フリードソンであり、これをイバン・イリイチやアーヴィング・ケネス・ゾラが展開することで、強力な潮流を形成した。この系譜は、医学的知識を哲学的に分析することよりも、一見中立的に見えてじつは支配階級の利害に奉仕するものとして医学的知識をあつかうことが多い。しかし、その批判は矛盾していることもある。医療は過剰に拡張主義的であると批判される(医療化論)とともに排外主義的であるとも批判され、病気は収奪によって引き起こされると見なされるとともに医学的支配によっても引き起こされる(医原病)と見なされる。
第三の理論的立場が、ポスト構造主義と第二波フェミニズムとフーコーの影響のもとに注目された社会構築主義(social constructionism)である。社会構築主義は、もともと社会学理論にあったものだが、上記の諸潮流との関連において修正されたものが「健康と病いの社会学」で有力になっていった。ラプトンのこの本をふくめて九〇年代に次々公刊された「健康と病いの社会学」の研究書はほぼこの立場で書かれている。
社会構築主義が焦点を当てるのは、生物医学(biomedicine)の社会的側面であり、医学ならびに素人の医学的知識の発達であり、さまざまな医療行為である。この立場から見ると、医学的知識というものは、洗練された良き知識に向かって上乗せされるように進歩するものではなく、社会史的状況の中で生起し不断に再交渉されるような、一連の相対的構築物ということになる。
この三段階はおおむね妥当な見方であるが、異論がないわけではない。たとえば、ウータ・ゲルハルトは『病いの諸概念』を次のような構成で整理している(Gerhardt 1989)。
(1)構造機能主義パラダイム——社会的役割としての病いと動機づけられた逸脱
(2)相互作用論パラダイム——専門家による構築としての病い
(3)現象学的パラダイム——間主観的に構築された現実としての病い
(4)闘争理論パラダイム——資源の不足とイデオロギー構築物としての病い
ゲルハルト自身は「批判理論としての役割分析」という著作によってデビューした、批判理論ないし政治経済学ないし闘争理論というディシプリンに立つ研究者であるので、ラプトンとは順序がちがってくるが、(2)と(3)をあわせて社会構築主義に対応すると考えてよいだろう。ゲルハルトのこの研究についてはさらに精読すべき論点がふくまれていると思われるが、さしあたり問題になりそうなのは、相互作用論パラダイムによる医療社会学の取り扱いであろう。ラプトンはこのあたりを無視しているように見えるが、アンセルム・ストラウスたちの研究がシンボリック相互作用論の視角からなされている点から考えると、現象学的パラダイムと親和的であり、社会構築主義に接していると位置づけられよう。
■他の理論系譜との相互連関
「健康と病いの社会学」は単独で発展したのではなく、健康と社会に関する他の研究分野と密接に相互連関して発展したものである。ラプトンが指摘するのは次の四つの学問運動である(Lupton 1994:13-19)。
第一に、医療人類学(medical anthropology)。医療人類学は「健康と病いの社会学」と密着した学問分野で、両者を分離するのが困難なくらいである。伝統的に医療人類学は「病気の解釈とその生きられた経験」に関心をもつ。病気とは、自然と社会と文化とが同時にそれでもっておしゃべりするコミュニケーションの一形式であり、諸器官の言語である。
第二に、歴史学的次元(historical dimension)。ラプトンがこう呼ぶのは、いわゆる社会史研究のことである。歴史学的研究は、西洋の生物医学の慣習が、他の文化ないし他の時代の医療システムより科学的であるとも客観的であるともいえないことを示す。
第三に、カルチュラル・スタディーズ(cultural studies)。たいていの社会科学者は医療を文化的産物と見ないで、文化に外在する科学的知識の客観的実体と見がちであるから、カルチュラル・スタディーズが生物医学や公衆衛生の制度と実践を分析するのに採用されることはめったになかった。しかし、たとえばマス・メディアがさまざまな場面で医療や病気にかかわる出来事を描写することが、この領域に対する人びと(そこには専門家やメディア関係者や行政関係者もふくまれる)の理解に大きく影響することはあきらかであり、カルチュラル・スタディーズがこの分野に有効なのははっきりしている。
第四に、言語論的転回(linguistic turn)。近年注目されているのが、社会秩序と現実感を構築し維持するという言語の役割である。ソシュールから始まったこの視点はロラン・バルトによって大衆文化の分析装置として発展し、やがて記号論者たちが個人を「かれらの文化によって語られた」存在と考えることを節目に大きく変化した。
以上ラプトンが指摘する四つの研究系譜は、社会構築主義に立つ「健康と病いの社会学」の基本論点とそれぞれ呼応するものをもっている。医療人類学は、空間的比較を促すことで近代化論的まなざしを脱し、非西洋医療の正当性問題に気づかせる。また、素人の病気観の文化的意味を尊重する知的態度をもたらす。それに対して社会史研究は、時間的比較をうながすことで、西洋医療の歴史的偶発性(なりゆきしだいでは他のものにもなりえたかもしれない可能性)を再発見させ、近代医学が客観的知識であるという信仰を破壊する。カルチュラル・スタディーズと言説分析は、文化の批判的検討を通じて、現代文化の構築物として医療関連現象を理解することをうながした。このさい人文学的手法による分析の有効性も強調されてよい。とくに表象や言説の解釈からアプローチする手法は経験的研究に対して大きな影響を与えた。
このように「健康と病いの社会学」は、隣接し随伴する上記の研究動向に即しながら発展してきた。これらは不即不離なもので、ひと続きのものと考えたほうが実際的である。しかし、これらをあわせた適切な総称がないのが現状で、そこで本研究ではこれらを「健康の批判理論」と総称して取り扱うことを提案したいと思う。そこには共通の理論的視角・問題領域・研究スタンス・方法論的戦略が存在すると考えられるからであり、総じて医療研究の大きな転換を提示していると考えるからである。以下、章ごとに論点を分けて考察していこう。
二 社会構築主義の導入——理論的核心
■社会構築主義とは何か
「健康の批判理論」の批判性は政治的スタンスに由来するものではない。それは理論社会学的徹底によるラディカルさというべきだろう。その理論的中核にあるのが社会構築主義である。逆にいうと、「健康の批判理論」とは、「健康と病気に関連する問題領域についての社会構築主義的分析理論」なのである。
社会構築主義はもともと現象学的社会学の文脈で知識社会学理論として定式化され、大きな影響力をもった視角であるが、のちに社会問題論に導入されて「レイベリング理論に替わる新理論」として大きな波紋を呼んだ考え方である(Spector and Kitsuse 1977=1992; 中河 1999)。その意味では典型的な社会学主義の一形態と見なすことができる。けれども、社会学以外の知的運動の中で広範な影響力をもったのは、フーコーの一連の歴史研究であり、それに呼応する前述の学問運動の方だった。そのために、今日ではこの経緯が言及されることは少なく、社会心理学者のヴィヴィアン・バーの『社会構築主義への招待』(Burr 1995=1997)においても、キツセらの構築主義的社会問題論への言及はない。これは医療社会学系でも同様であり、その点で社会構築主義自体は社会学プロパーのものとは理解されていないようである。
たとえばヴィヴィアン・バーは社会構築主義を次のように文化や知識を理解する見方であるとしている(Burr 1995=1997:4-7)。
(1)自明の知識への批判的スタンス
世界が存在すると見える、その見え方の前提を疑う。なぜなら、人間が世界を把握するさいに使用するカテゴリーが必ずしも実在する区分を示すものではないからだ。
(2)歴史的および文化的な特殊性
世界を理解する仕方・カテゴリー・概念は歴史的かつ文化的に特殊なものであり、相対的なものであるという認識を徹底する。
(3)知識は社会過程によって支えられている
世界についての知識は、人びとが互いに協力して構築する。具体的には日常的な相互作用によって構築する。したがって、人びとが相互作用において日常的に使用する「ことば」が重要な意味をもつ。
(4)知識と社会的行為は相伴う
世界を特定の「ことば」で理解することは、それ自体ひとつの社会的行為であり、ある種の社会的行為を支持したり排除したりする行為である。つまり知識は社会的行為なのである。
この視点から特定の社会現象を研究するさいに戦略的に重要になるのは、人びとが日常世界においてものごとを理解する仕方であり、そのさいに重要な役割を果たす「ことば」である。社会構築主義では、このような「ことば」を「言説」(discourses)と呼び、その調査研究を「言説分析」(discourse analysis)と呼んでいる。社会構築主義から見れば、世界は言説によって構築されており、歴史的・文化的に規定された特定の言説によって人びとは世界を理解するのであるから、その言説の自明性を疑い、歴史的由来を調査し、文化的布置をあきらかにすることが、その言説の指示する現象の科学的理解につながるのである。
バーの解説は、さまざまな社会領域に適用され、わけがわからなくなりつつある社会構築主義の共通因数について、あらためて説明しなおしたものとして参考になる。しかし、社会学理論との関係と、医療社会学との関係とをもう少し明確に把握しなければならない。
■社会構築主義と医療社会学
社会構築主義と医療社会学の関連をあつかった初期のレビューとしてはマイケル・バリーの「社会構築主義と医療社会学の発展」(Bury 1986)がある。この時点では、構築主義的医療研究のマニフェスト的著作となった、ピーター・ライトとアンドリュー・トレチャー編集による『医学的知識の問題——医療の社会的構築の検証』(Wright and Treacher 1982)がすでに刊行されており、ここに掲載された論文とそれらの著者たちが、バリーのレビューの主要な対象になっている。
バリーは社会構築主義の主要な構成要素を次の五点に求めている(Bury 1986:140-147)。
第一に、生物医学的現実を「問題化する」こと。社会構築主義では医学的知識そのものが問題性を帯びていると考える。その結果、生物医学的現実も自明ではないと考える。
第二に、医学はさまざまな社会関係を媒介すること。医学はその実践においてのみならず、その知識においてもさまざまな社会関係を媒介する。ある経験の領域を「医学的」と呼ぶことは、決定的かつ強力な形と意味を与えるがゆえに、その経験領域を社会生活の他の領域に対して重要な関係の中におくことなのである。そのため構築主義者は、医学と医学的カテゴリーが特定の社会集団と実践を活発にかみあわせる仕方を提示しようとしてきた。
第三に、医学と技術の中立性への疑問。つまり、技術的領域は中立的とは見なせないということである。私たちはものごとを技術的な事柄とそうでない事柄とを分けて議論するが、構築主義者はその区別そのもの自体が問題をはらんでいると考える。この点では技術のイデオロギー性を説いたユルゲン・ハーバーマスらの批判理論と直接呼応するものがある。
第四に、自然もまた社会的に構築されること。したがって「発見」を廃止すること。さまざまな疾病のカテゴリーは中立的かつ合理的な方法の適用による自然現象の発見を合図すると見なすべきではない。逆にいうと、疾病の発見へのクレームはそれ自体社会的出来事であり、それらを社会的文脈におくのだ。この観点からすると、医学も科学もあくまでも社会内部のシンボリック・システムであり、社会外部の自律的領域ではないということになる。医学と科学が居場所にしている技術的・科学的世界は、本質的に「言説の様式」であり「生活世界」である。それらは歴史的かつ社会的な実践から分離され得ないものなのである。「科学とは社会関係である」というのが構築主義の命題である。
第五に、医療の進歩に疑問符をつけること。つまり医学の歴史においてしばしば物語られる直線的プロセスは廃棄されるべきである。あらゆるものごとが別のありようも可能であったことを忘れてはならない。
以上のバリーの行論からわかるように、かれは「批判的アプローチ」と「構築主義的アプローチ」を仕分けながら、その具体的な論点については両者を連続的なものと見ている。これはラプトンが「政治経済学的視角」と「社会構築主義」とを区別しているのと少し異なる。この点については学説史的に詳細な検討が必要だが、焦点になるのは二点あると思う。ひとつは「政治経済学的視角」の始発点にいるエリオット・フリードソンの位置づけであろう。もうひとつは構築主義の徹底の度合いである。サラ・ネトゥルトンの見解は、フリードソンは医学的実践(医学的知識の適用)の社会性は問題にしたけれども、医学的知識そのものの社会性の問題には挑戦しなかったという評価である(Nettleton 1995:19)。マルクス主義そのものには一九世紀的な自然科学信仰があり、技術の中立性の科学論的否定までには行き及ばないのが実態である。おそらくここが分水嶺であろう。ちなみにユルゲン・ハーバーマスがマルクス主義を超えているのは主としてこの論点である。
なるほど社会問題に構築主義を持ち込むことにはさほど違和感がない。しかし、医療行為(medical practice)に関しては適用できても、医学的知識(medical knowledge)そのものにそれを持ち込むことにはかなりな飛躍が必要である。しかし、それでこそ「健康の批判理論」なのである。
■さまざまな社会構築主義
ただ、ここには複雑な問題もある。フィル・ブラウンが「名前づけと枠づけ」という論文で指摘するように、医療社会学に適用された社会構築主義的アプローチには三つのヴァージョンがあるのに、それらがしばしば混同されているのである(Brown [1995]1996:93)。
ブラウンによると、第一のヴァージョンはスペクターとキツセの共著『社会問題の構築』(Spector and Kitsuse 1977=1992)によるものである。かれらの社会問題論はもっぱら人びとの社会的定義づけ過程に焦点を定めたものであり、現実的条件でもって社会問題を定義するという伝統的なやり方と一線を画した。すなわち「社会問題は、なんらかの想定された状態について苦情を述べ、クレイムを申し立てる個人やグループの活動であると定義される。」(Spector and Kitsuse 1977=1992:119)これは、所与の計測可能な実体として社会問題をあつかう伝統的な実証主義の見方に対抗して、見えにくい日常的相互作用と意思決定の世界を見えるようにする試みだった。これはアメリカ流の社会構築主義といえよう。
第二のヴァージョンはヨーロッパのポストモダン理論のものである。その源泉はミシェル・フーコーである。ヨーロッパの社会構築主義は、知識の創造を示すために言語とシンボルを脱構築することであり、状況のうつろいやすく不確かなリアリティを説明するところに独特の特質がある。
第三のヴァージョンは、科学社会学に関係が深い。これを「行為する科学」(science in action)の視角という。それによると、科学的事実の生産というものは、公的な場所に自分たちの業績をプロモートしようとする科学者たちの努力と結合した、実験室の単調な生活をしている科学者たちによって相互に考え出された行為の結果であるという。
ブラウンは以上の三種の社会構築主義を区別した上で、バリーをはじめとする医療社会学者たちが社会構築主義を上記の三種を混合した非常に広い意味で使用していると批判するのである。これでは「社会的構築」という用語に対する独自の所有権を主張できないではないかというのである。
それに対してブラウン自身が対置するのは、シンボリック相互作用論と構造的政治経済学的アプローチの総合したものである。そのさい決定的に重要なのは、「医学的知識の社会的構築」と「病気の社会的構築」を区別することである。
「医学的知識の社会的構築」は専門家の態度の起源とかれらの診断をあつかう。それは、支配的な生物医学の枠組と同時代の道徳と倫理的見解にもとづいて理解する仕方をあつかい、医療供給者の社会化、ヘルス・ケア・システムの専門家的・制度的実践、そしてそれを包み込む社会の社会構造をあつかう。ここでは診断そのものが問題になり、構造的接近が優勢になる。医学的知識の構築についての学問は、専門家の昇進や家父長的態度や帝国主義的労働市場需要のような社会的ファクターをふくむことになる。それに対して「病気の社会的構築」は素人の病気体験をあつかう。ここでは個人・ダイアド・集団の各レベルを取り扱うのでシンボリック相互作用論が優勢になる(Brown [1995]1996:96-97)。
■病いの社会的構築
ブラウンのいうように、「医学的知識の社会的構築」と「病気の社会的構築」とはリンクしているにしても基本的には別の問題である。この点については、以前から医療人類学でしばしば指摘されてきたことであるので、そちらの方で確認しておこう。
たとえば、アーサー・クラインマンは、台湾での調査に基づく著作の中で概略次のように述べている(Kleinmann 1980=1992:79)。疾病(disease)とは生物学的プロセスと心理的プロセスの両方あるいは一方の機能不全をさす。それに対して、病い(illness)は知覚された疾病の心理社会的な体験のされ方や意味づけをさす。したがって、病いには疾病に対する二次的反応がふくまれる。つまり、病いには、症状や役割遂行の減退に対する注意、知覚、感情的反応、認知、評価のプロセスがふくまれ、家族や社会的ネットワーク内部でのコミュニケーションや相互作用もふくまれる。「要するに、病いとは疾病に対する反応である。疾病をコントロールするとともに、疾病を意味あるものにつくりあげ、説明を与えようとする反応である。」(Kleinmann 1980=1992:79)
ちなみに一九八〇年時点でのクラインマン自身は、疾病の構築についてはそれほど突っ込んだ議論はしていないが、両者とも実在ではなく説明モデルであることに注意を促している点で構築主義と呼応する議論をしていた。
要するに「医学的知識の社会的構築」は疾病の構築にかかわることであり、「病気の社会的構築」は病いにかかわることであるといえよう。そして、それぞれが社会的に構築されるものであるというのが社会構築主義の基本主張である。ブラウンによると、この社会構築主義によってこそ、三つのレベルにおける健康と病いを連結でき、その社会的意味を理解できるという。三つのレベルとは次のようなものである(Brown [1995]1996:97)。
(1)ミクロレベル(自己意識、個人行為、対人コミュニケーション)
(2)メゾレベル(病院、医学教育)
(3)マクロレベル(国民の健康状態、ヘルス・ケア・システムの構造と政治経済、国家保健政策)
ブラウンの主張があえて「第四の社会構築主義」というべきものであるかということはひとまず措くとして、社会構築主義に少なくとも三つの理論的源泉があるということ、そして「医学的知識の社会的構築」と「病気の社会的構築」の両方を射程に入れて、ミクロ・メゾ・マクロの三レベルをリンクさせて考察すること、そのさいには相互作用論と政治経済学的接近があわせて有効であること——本稿でも、この線で「健康の批判理論」を考えてみたいと思う。
三 問題領域の拡大——研究対象
■問題領域の概要
以上、「健康と病いの社会学」とその周辺研究をふくめて「健康の批判理論」としてアウトラインを眺めてきた。その理論的支柱は社会構築主義である。この視点から何が具体的に問題になるのか。この章では「健康の批判理論」が射程に入れるべき主要な問題群を整理しておきたい。このさい、まず、比較的網羅的に問題領域を押さえていると思われるピーター・E・S・フロイントとメレディス・B・マクガイアの『健康・病い・社会的身体——批判社会学(第三版)』(Freund and McGuire 1999)で問題領域の概要をつかみ、そののちにラプトンとネトゥルトンの議論を参考にしてポイントを理解したい。
『健康・病い・社会的身体——批判社会学(第三版)』は本稿執筆時点では最新の「健康と病いの社会学」の概説書である。ストレス学説に準拠していることなど、やや総花的で、構築主義も徹底しないところがあるが、アンソロジーではないので、バランスよく研究業績がまとめて紹介されている。章ごとにテーマを抜き出してみよう。
(1)健康・病い・身体についての社会学的視角
身体の社会的構築。身体観の社会的構築。健康と病いの社会学において権力作用は中心的なものであること。
(2)だれが病気になり傷つけられ死ぬのか
社会疫学の課題と方法論上の問題点。二〇世紀の平均余命の変化。医学の進歩という神話。第三世界の罹患率と死亡率。エイズの疫学。罹患率と死亡率の変数としての年齢・ジェンダー・人種・エスニシティ・社会階級。これらは権力の社会的分配に関連している。
(3)健康と病いの物質的基礎
社会政治的ファクターと文化が、われわれの物理的環境・われわれの資源(たとえば食物)・われわれの身体を構築する。飢餓、食習慣、事故、労働災害、環境汚染、喫煙。
(4)精神・身体・社会
シンボリックかつ社会的なファクターが身体に及ぼす影響。ストレス。
(5)社会組織・健康・病い
社会支援の質と批判的評価。社会的不平等と社会支援の関係。演劇論的ストレス。社会的相互作用における感情の役割。
(6)病気の社会的意味
逸脱としての病い。逸脱の医療化。道徳的権威の医療化。社会統制。シンボルとしての身体。病気は社会秩序にかかわることがらであること。
(7)病いの体験
病いと自己。素人の健康概念。素人の病いの理解。病いに気づくこと。痛みと心理社会的次元。慢性病と障害。障害者の自己意識とマイノリティ的地位と社会運動。
(8)健康と助けを求めること
自己治療。隠れたヘルス・ケア・システムとしてのホーム・ケアと相互補助。民間療法。宗教的な癒し。
(9)医学的知識の社会的構築
疾患の「発見」。社会的産物としての科学。医学的「問題」の創造と否認。医療化・脱医療化・専門家の利害。企業の利害。疾患と身体の物象化。専門家支配。生物医学の前提。
(10)近代生物医学の知識と実践
専門家支配と情報操作。不確実性と統制。専門家支配のミクロ政治学。医師と患者の関係。病人を症例に変換する。患者の非人格化。近代医学の終焉。道徳のジレンマと社会政策。
(11)ヘルス・ケア・システムにおける階層と権力
受療者。医師の供給源。ナースの供給源。その他の専門職と労働者。
(12)ヘルス・ケアにおける経済的利害と権力
保険の問題。さまざまなヘルス・ケア組織。病院経営。さまざまな医療産業。社会政策と人権。
このようなテーマ・リストは多様な組み換えの可能なものである。ひとつの事例として参考にしたい。この中には機能主義段階の医療社会学でも十分問題として取り上げられているものもあり、公衆衛生学的なテーマもふくまれている。とくに「健康の批判理論」として重要な問題領域はどこなのか。すでに確認した「医学的知識の社会的構築」以外の問題領域について、この分野の第一線で活躍するラプトンとネトゥルトンが強調する論点を手短に整理してみよう(Lupton 1994; Nettleton 1995)。
■健康と病いをめぐる素人の生活世界
従来の医療社会学の焦点は、病気と専門家にあった。つまり医師たちが病気に立ち向かう仕方を主軸に据えて、そこに患者たちがどう適応していくか(あるいは適応すべきか)を規範的に研究してきた。これに対して「健康の批判理論」は、健康と素人(lay)に焦点を当てる。つまり素人の視点に定位して見える生活世界のあれこれ(もちろんそこには病いもあるが、そうでない状態もふくまれる)が問題となる。医学と素人の視点とを同位対立の地平において捉えるのが、社会構築主義のラディカルなところである。一方で医学的知識の文化的構築性を暴き、他方で素人の病気や健康への態度と経験の自律性を浮き彫りにするのである。
そのさいポイントとなるのは「素人の健康観はたんなる医学的知識の薄められたヴァージョンではない」(Nettleton 1995:37)ということである。この論点はすでにフリードソン以来、批判的接近を試みる医療社会学者にはおなじみのものである。
健康に光を当てると、人びとが健康をどのような定義において用いているか、そのライフスタイルと消費文化との関係はどのようなものか、人びとにとってリスクはどのようなものとして捉えられ、それが人びとにどのようなリスク回避行動をとらせているかが問題となる。たとえば喫煙に対する態度やエイズに対する態度などがテーマになる(Nettleton 1995:Chap.3)。
他方、病気に光を当てると、人びとが病気と病者役割(sick role)をどのように解釈し、正当化していくか、そして慢性疾患と障害のある身体を媒介にどのようなコミュニケーションが生起し、どのように語られていくか、それに対処する戦略をどのように編み出していくかがテーマとなる(Nettleton 1995:Chap.4)。また、人びとにとって病いの体験は道徳的問題でもある。なぜそのようなことになったかを人びとは「失敗」や「報い」として道徳的に説明しがちである。そのあたりもテーマとなる。
■素人と専門家の相互作用
病いに見舞われたと感じた人びとは病院を訪ねて、医師やナースなどの医療の専門家たちと出会う。この出会いは対等な出会いではないがゆえに、特殊な性質を帯びる。この「素人と専門家の相互作用」の問題は「健康の批判理論」にとって批判的に取り組まなければならない重要な問題領域である。
ネトゥルトンによれば、そこには次のような問題がある(Nettleton 1995:131−132)。第一に、素人と専門家の関係は、より広い文脈での社会関係や、ジェンダーや人種や階級といった構造的不平等を反映するとともに強化するということ。第二に、この関係は社会統制と社会規制の中心的次元を形づくること。第三に、専門家はしばしば患者の見解をまともに取り上げることを拒絶する。そして患者の見解というものが同時代のヘルス・ケアの深刻な限界と見なされてきたこと。第四に、相互作用の質がヘルス・ケアの成果に影響を与えてきたことである。
この領域は長らく医療社会学で「医師−患者関係」として研究されてきたが、理論的立場によって大きく見方が変わる。機能主義は合意モデルを基準に論じ、政治経済学(マルクス主義)は闘争モデルを用いて、医学的権力に対する患者側の抵抗を強調する。「コンプライアンスの悪い患者」を病院スタッフがそれぞれどのように見ているかが問われる。また、シンボリック相互作用論やエスノメソドロジーによるミクロな相互交渉場面の研究もさかんである。
それから忘れてはならないのが、専門家は病院にいるとは限らないということだ。民間医療のヒーラー(healer)がいる。そこでは「癒し」と総称される、しばしば近代医療システムとは異質の出会いと相互作用がある。ここは従来から医療人類学の実績のある領域であるが、「健康の批判理論」の現場はもはや病院だけではないのである。
■文化的表象の分析
医学・病い・疾患・身体に関するさまざまな言説・メタファー・図像は、高級文化においてであれ大衆文化においてであれ、これらの現象についての知識の社会的構築に深くかかわっている。ラプトンはこの点を強調する(Lupton 1994:chap.3)。高級文化において疾患と死がどのように表現されているか、そして大衆文化において医学や病いや死がどのように表象されているかの研究は、伝統的な医療社会学ではないがしろにされてきたところである。しかし、ガンやエイズはメタファーとしても社会に圧倒的な影響を与えたし、「ガンと闘う」「エイズを撲滅する」といった軍事的な言説そのものが、それぞれに関係する生物学的事実の解釈や医学の研究開発の方向性に影響し、関係者の社会関係をも深く規定してきたのである。
このテーマに関する図像研究としては、サンダー・L・ギルマンの仕事が日本ですでに紹介されている(Gilman 1995=1996)。図像は、どれが正しく美しく健康なのか、どれが狂っていて醜く病んでいるのかというステレオタイプな基準をリテラシーを越えて再生産する。とりわけメディア上に流通する言説と図像の分析が重要であり、カルチュラル・スタディーズの隆盛の中で、そのような研究が一気に浮上している。
もちろん以上の他にも重要な問題がある。健康状態と社会的不平等すなわち健康の配置の問題も大いに議論されている。とくにジェンダーの問題がフェミニズム側から次々に提起されている。保健政策批判もある。それらについては機会を改めて詳説することにしよう。とりいそぎ確認しなければならないのは、これらの問題群を「健康の批判理論」が強調して研究テーマとして取り上げるのはなぜか、つまり基本的な研究スタンスの問題である。
四 公衆衛生学的医療社会学との比較——対抗軸
■生物医学モデルへの挑戦
じつは社会学的社会問題論の文脈では、社会構築主義はすでに過去のものだという雰囲気がある。流行思想としての社会構築主義は所詮、そういうものなのだろう。しかし社会構築主義は日本では未だ徹底して追究されていないのではないか。とりわけ健康と病気の社会領域については。
生物医学に依拠した医療システムに構築主義的なまなざしを向けることは、医学部に設置された公衆衛生学といった場所では未だに困難なことのようだ。たとえば日本のアカデミズムにおいて重要なステイタスを与えられていると思われる公衆衛生学研究者による『健康観の転換——新しい健康理論の展開』(園田・川田 1995)には、生物医学とそれに基づく現代医療の神話的構築性に対して社会学的に距離化しようというスタンスがまったく感じられない。それどころか、健康主義を社会全般に拡大しようとする、ほとんどニューエイジ系の宗教的教義への傾斜さえうかがえるほどである。
日本の公衆衛生志向の医療研究の社会学性がその程度の底の浅いものであるといえばそれまでだが、それにしても、社会構築主義による医療的世界への分析はむしろ始まったばかりなのである。
では、従来的な医療社会学とのちがいは何だろうか。最大のちがいは生物医学に対する知的態度である。
ライトとトレッチャーは社会構築主義以前の医療社会学との比較を理念型的に整理している(Wright and Treacher 1982:3-5)。
第一に、医学の同定あるいは医学的知識は何の困難も引き起こさなかったという仮説。それによると、医学とは医師とその補助労働者のなしたことであるのは自明であり、医学的知識はたんに、医学校で伝授されたか、専門家の雑誌と教科書によって普及したものにすぎない。第二に、近代医学的知識は、近代科学の発見に基づいていて効果があるがゆえに独特のものであるという仮説。第三に、疾病は、医師による分離と指摘に先行し独立に存在する自然物であるという仮説。第四に、社会と医学的知識とは独立した自律的領域であるという仮説。
社会構築主義以前の医療社会学(たとえば公衆衛生学的な研究)の前提了解が以上のようなものであったとすると、すでに「医学的知識の社会的構築」として述べたように、これに対して社会構築主義的医療社会学は、異を唱えるわけである。いわば近代医療絶対主義神話の社会学的解体である。生物医学のイデオロギー的後方支援としての公衆衛生学との異質性はあきらかだろう。
■医療神話の歴史的批判
「健康の批判理論」のさしあたりの対抗軸は、医療神話とも呼ぶべき科学信仰であり、それに基づいて編成される専門家支配の実態である。日本でもこの種の研究は一部で始まっており、たとえば『医療神話の社会学』(佐藤・黒田 1998)では、「近代医学は抗生物質によって、人間を悩ませた多くの感染症を克服してきた」といったような、現代医療を正当化する二〇の神話について丹念に神話解体している。ただし、ここにおさめられた論文は必ずしも社会構築主義に立ったものではなく、多くは歴史的アプローチによるものである。
当然もうひとつの神話解体も必要だ。それは民間医療にまつわるさまざまな神話である。近代医学への不満は一般の人びとにおいてむしろ普通のことである。しかし、だからといって近代医学を批判する「代替医療」(alternative medicine)が無条件で推奨できるわけではない。代替医療神話が現代的に変奏されている事態に対しても、批判的なまなざしで分析する必要がある。たとえば佐藤純一は代替医療が単純な二分法を絶対化して「人間的」な側に自らをおくことで正当化しようとすることを指摘している(佐藤・黒田 1998:242-244)。なお、アメリカの代替医療の歴史についてはロバート・C・フラーの『オルタナティブ・メディスン』が詳しい(Fuller 1989=1992)。
さらに、こうした医療神話が消費社会というコンテキストでこそ生き生きと語られ、説得力をもち、具体的な行動へと水路づけるといった構図にも注意を払う必要がある。
■ヘルス・プロモーション
公衆衛生学的医療社会学との対比がもっとも明確になるのは「健康のために」語られるさまざまな言説に対するスタンスである。試金石はヘルス・プロモーションに対するスタンスである。
「健康のために」語られるさまざまな言説を私は「健康言説」と呼んでいるが、ヘルス・プロモーションの言説はその代表的なものであり、その点では公衆衛生学的医療社会学自体も健康言説なのである(池田ほか 1998:23-24)。
サラ・ネトゥルトンとロビン・バントンはヘルス・プロモーションに対する研究スタンスを四類型にまとめている(Nettleton and Bunton 1995)。まず第一の軸は「社会政策」か「社会学的分析」かというもの。第二の軸は「医療についての社会学」か「医療のための社会学」かという有名なストラウス以来の二分法である「についての」対「のための」という二分法。これを使って「健康の批判理論」を位置づけてみよう。
第一に「ヘルス・プロモーションのための社会政策」(social policy for health promotion)では保健公共政策の説明・分析・評価をおこなう。第二に「ヘルス・プロモーションのための社会学的分析」(sociological analyses for health promotion)ではプロモーション技術の発達・評価・洗練をおこなう。第三に「ヘルス・プロモーションについての社会政策」(social policy of health promotion)では政策のイデオロギー的基礎の研究をおこなう。第四に「ヘルス・プロモーションについての社会学的分析」(sociological analyses of health promotion)ではヘルス・プロモーション自体の批判をおこなう。一口に批判的評価といっても、このようにスタンスは多様である。たとえば日本でおこなわれてきたほとんどすべての「医療と社会」研究は第一から第三に分類できるはずである。それに対して「健康の批判理論」は第四の類型に相当する。
第四類型のヘルス・プロモーション批判の基礎視角としては、たとえばどのようなものがあるのだろうか。さしあたり思い及ぶのが「健康という義務」(imperative of health)という視角である。これはラプトンがフーコーから採ったもので、彼女は公衆衛生とヘルス・プロモーションについての著作タイトルにこのフレーズを使用している。それによると、健康はたんなる疾病の不在ではなく、もはや一種の道徳的命令ではないかというのである(Lupton 1995)。健康が道徳にずれ込むことで、道徳は身体性に還元されることになる。重層的なコミュニケーションの産物としての社会秩序ではなく、有無を言わさない身体秩序に道徳という社会原理が従属するということだ。健康言説の本質はまさにここにある。
たとえば「成人病」を「生活習慣病」に呼びかえて人びとの健康増進を図ろうとする近年の厚生省のキャンペーンについて佐藤純一は次のように分析している(池田ほか 1999:8-29)。「生活習慣病」はもともと厚生省の行政用語であった「成人病」を「生活習慣」と「予防」を軸に再構成したものであり、厚生省・臨床医学・社会医学の三者の思惑の合致したところに構築された政治的産物である。「生活習慣病」言説は「病気と習慣が関係ある」とするだけではない。それは「病気を引き起こす習慣」と「病気を避ける習慣」をも指示する。このさい健康習慣として指定された要素はまったく恣意的なものであり、言説構築者の古典的な道徳主義がそのまま投影される。そして「病気になったのは、その個人の生活習慣によるのであり、それゆえ病気の責任もその個人にある」という個人責任論が正当化されるのである。その結果、露骨な「犠牲者非難」(victim blaming)がおこなわれ、国家が責任をとるべき外部環境要因がそっくり隠蔽される。
このように、一見もっともらしい国家の保健政策のロジックは、「これって健康にいいんだよ」という食卓の会話にまで浸透し、その結果、まわりまわって人びとの病気体験そのものを道徳的ジレンマにしてしまう。つまり、たんに健康と病気が問題なのではない。それらに言及する言説の総体が現代社会において果たしている構築的役割への懐疑的認識が必要なのである。つまり、それは「批判」でなければならないのだ。
五 健康言説批判——方法論的戦略
■健康は言説である
最後に、「健康の批判理論」の方法論的戦略について確認しておきたい。
そもそも「健康と病いに関する批判社会学的研究」とでもいえばよいものを、あえて「健康の批判理論」と総称するのは、なぜか。それは第一に病気よりも健康という広範な領域に焦点があたらざるを得ない現代的状況が存在するからであり、第二にもはや社会学というディシプリンにこだわる必要がほとんどないと考えられるからだ。社会構築主義は社会学の占有物ではないのであるから。ちなみにコンラッドは「健康と病いの批判的視角」(critical perspectives on health and illness)という言い方をしている(Conrad 1997:4)。私はそれでもよいとは思うものの、短く総称するさいには、あえて「健康の批判理論」という括り方をしたい。その突破口は「健康は言説である」という構築主義的命題として集約的に表現できると考えているからである。突破口は「健康」の方にある。
そもそも健康は「非問題系」すなわち「問題状況の欠如」である(池田ほか 1998)。それゆえ健康は「問題」となる病気や障害などの事態(すでに発生しているにせよ、たんに予想されるだけにせよ)に対して、あくまで「語られるもの」であって、実体があるわけではない。「健康のために」と語りつづけられることで「健康な身体」は社会的に構築される。したがって実在するのはあくまで「健康言説」だけなのである。つまり、健康は言説である。「言説としての健康」ではないのだ。
■健康が語られるとき
現代社会において健康が語られるとき、それがコミュニケーションにおける正当性を満たす言説となるのは、問題系としてのリスク要因が導入されたときである。「健康に対するリスク要因」(health risk)のリストが提示される。このリストにはもちろん病気がふくまれているが、それだけではない。リスクは、朝食を食べないことからオゾン層の破壊にいたるまで無制限に拡大可能な社会的構築物である。そのリストは恣意的であり、それゆえ本質的に政治的でもある。
リスク概念の拡大はそのまま健康概念の脱領域化につながる。つまり、健康はあらゆる生活領域に深くかかわる価値として遍在するようになる。そして、個々のリスク要因が言説としての説得力をもてばもつほど、健康概念は物象化され神格化されるのである。この物象化された層における健康言説がヘルシズムなのであり、それはひとつの宗教的システムというべきである。健康は世俗化された現代の新しい神となる。
リスク回避を名目とするライフスタイルへの道徳的干渉が始まる。フーコーが描き、身体の社会学がそれを引き継いで研究してきたもの、すなわち人びとの身体を貫徹する権力作用の諸相である。「からだにいい」「ナチュラル」「無添加」「スポーティ」「衛生」「清潔」「元気が一番」といった耳障りのよいクリーシェから、「お肌のダメージ」「死の恐怖」「後の祭」といった恫喝に近いクリーシェまで、さまざまな言説が「健康的な生活習慣」を道徳的に正当化し、そうでないものを非難し排除する。そして個人の責任が問われてゆくのである。
こうして「健康な生活とは、健康について語り、健康に好ましいと語られた生活習慣を実行している生活のことである」という自己言及システムが成立する。「健康の批判理論」の理論的課題は、このような健康言説の自己言及的な言説宇宙(universe of discourse)の構造を批判的に解明することである。
この言説宇宙を構築するエージェントはさまざまである。それは科学者であり、マス・メディアであり、政府機関であり、社会運動である。そのエージェントの集合に対してジョナサン・ゲイブは「リスク産業」という用語さえ使っている(Gabe 1995)。公衆衛生的言説も栄養学的言説も、みのもんたの名調子や霊芝実演販売講師の巧妙な口上も、それに対して「買ってはいけない」とする対抗言説も、これら「リスク産業」によって組織的に生産された、いわば消費社会の産物なのである。
■批判的言説分析の可能性
以上のような仮説を手がかりに「健康の批判理論」は、健康言説の力を見極めていかなければならない。言説の類型もさまざまであり、語られ方そのものの多様性にも注意しなければならない。この作業を経験的な手法で実証するのが「言説分析」(discourse analysis)である。ただし、漠然と「言説分析」と呼ぶと、言語学において「談話分析」と訳されて会話の分析技法として紹介されているものもふくまれるので、これらと区別する必要がある。もちろん、問診の分析や医療スタッフ間のコミュニケーションの分析、そして健康に関する人びとの会話を分析するさいには有効な方法であるが、メディアや専門家や政府機関をエージェントとする言説を分析対象とすることの多い「健康の批判理論」と親和性の高い手法として考えられるのは、なかでも「批判的言説分析」(critical discourse analysis)と呼ばれるものである。
批判的言説分析は言説分析のひとつで、すでにジェンダー研究では成果をあげつつあるようである(斉藤 1998; 中村 1995)。ただし、これ自体は定型的な手法をさすものではなく、一定の理論を前提した(それゆえ現状では適用対象がある程度限定されている)分析方法である。具体的場面では他の言説分析の手法を応用する。
フェアクラフとヴォダックによると、批判的言説分析では、話したり書いたりする言語使用を言説と呼び、それを社会的実践の一形式と見る。かれらによると批判的言説分析は八つの理論および方法の原理に基づいているという(Fairclogh and Wodak 1997)。
(1)批判的言説分析は社会問題に力を注ぐ。
(2)権力関係は遍在している。
(3)言説は社会と文化を構築する。
(4)言説はイデオロギー的作業をおこなう。
(5)言説は歴史的である。
(6)テキストと社会とのリンクは媒介的である。
(7)言説分析は解釈的かつ説明的である。
(8)言説は社会的行為の一形式である。
ここで確認できるのは批判的言説分析が社会構築主義ときわめて親和性の高い分析方法であることである。現在はジェンダーやエスニシティなどに好んで応用されているようであるが、健康関連領域においても応用可能性は高いといえそうだ。
■まとめ
これまで見てきたように、「健康と病いの社会学」を中核とする社会構築主義的研究は、従来の公衆衛生学的な医療社会学に対して、「健康の批判理論」として総称できるだけの理論的共通点をもつ。中核には社会構築主義があり、方法論的には言説分析をとる。
「健康の批判理論」とは、この近代社会を柔らかく支配する(その結果として人びとの自発的服従が生じる)「納得の構図」を明晰に分析して批判する反省社会学的営為である。それは「健康な社会」を築くための理論でもなく、まして「健康増進」のための研究でもない。健康を自己言及的構成要素とする現代社会の構造分析である。目的は批判、批判それ自体である。
参考文献
文献の指示法と表記については日本社会学会編集委員会「社会学評論スタイルガイド」(http://www.kyy.saitama-u.ac.jp/‾fukuoka/JSRstyle.html)にほぼ準拠した。ただし、本稿が縦書きであることを考慮して句読点などを一部改変した。
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(のむら・かずお 社会学 http://socius.org)
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英文タイトル
An Introduction to Critical Theory of Health
Kazuo Nomura
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4月 12017

社会学感覚 あとがき

Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫

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現在地 ソキウス(トップ)>社会学感覚
社会学感覚
あとがき
あとがき(初版)
社会学教育についての反省
大学院に入ってまもないころ、受験生むけの「学部選びシリーズ」の一冊に「社会学は社会を人間の側に取り戻す科学だ」という長いタイトルの社会学紹介記事を書いたことがある。これには意外に苦労した。というのも、編集者は「社会学者の紹介も名前も入れないでくれ」というのだ。となると、当事手元にあった社会学の入門書はまったく頼りにならなかった。当時の社会学のテキストは、ごく初歩の入門書でさえ、実質的に社会学者と学説の要約紹介によって「社会学とはなにか」を説明していたからである。たしかに、すでに大学に入ってしまった人にはこれでいいかもしれないが、社会学部(科)にしようか法学部にしようかなどと迷っている受験生には、なにがなんだかわからないかもしれない。そこで自分なりに社会学の発想法を類型化してまとめることにした。本書の社会学論のいくつかの章はこのときの内容を出発点にしているが、これがわたしの最初の「社会学教育」体験といえるものだったという気がする。
やがて「住み慣れた」社会学科をでて、看護学校で社会学を教えるようになったとき、「病院での実習に携わりながら受講する彼女たちにとって社会学の有効性はどこにあるのだろう」と考えたものだ。その模索のなかで、看護学のもっているエートスが社会学の実践的なエートスに意外に近いのに気がついた。と同時に、このような専門職教育がどうしても技術中心にならざるをえず、じっさいに専門職として社会のなかで活動するさい遭遇するさまざまな困難や問題に対してどのように考えていけばいいかということについてはどうしても手薄になってしまうという事情も教えられた。制度上、社会学は基礎科目としてそれを補う立場におかれている。
このことは、大学の理工学部で社会学を教えるさいにも考慮したことである。技術者として企業内で働くなかで遭遇する人間係数的出来事に対するカリキュラムは組まれていないのがふつうである。ここでも社会学教育の存在意義は大きいはずだ。
問題は、社会学の側がそうした要請にきちんと応えているかどうかである。
かつての社会学は、みずからの科学としての正当性について弁解することにほとんどすべてのエネルギーを費やしてきた。これはこれで意味のあることだが、しかし、これは基本的に「社会学」そのものではない。「社会学の対象は社会学ではない」(フランコ・フェラロッティ)のである。かろうじてであれ社会学が市民権を得た今日、もうそのようなスタイルは過去のものとなりつつあるのではなかろうか。とりわけ入門段階において初学者がそのような学史的記述を正しく理解することが至難のことであっただけに、教養科目・基礎教科としての社会学教育は大きな転換点にきていると思う。
本書の方針
本書を構成するにあたって、さしあたりわたしの念頭にあった読者は、社会学を専攻していない大学生と短大生とくに理科系の学生、また看護学校の学生だった。目下わたしと関わりのある人たちをおもな読者と想定しているわけだが、これによって、これまでまったく社会学と縁のなかった市民の方々にも近づきやすいものになるのではないかと考えている。
さて、似上の反省をもとに、そのさいつぎの諸点について留意しつつ執筆した。
まず第一に、社会学がどのような科学であるかを学史的に説明するのでなく、その発想法に即して説明すること。「社会学感覚」という新造語は、そのような社会学的発想法のメルティングポットあるいはフロシキあるいは受け皿をさすことばとして導入した。かならずしも一義的な概念ではないが、たんに社会学専門家の独占物ではなく、明晰かつ反省的な市民としての読者と共有できる発想法・思考法として設定したものである。
第二に、本書では、旧来の狭い意味での社会学の領域ではなく、きわめて広い社会領域をあつかった。その結果、本書は「社会学入門」の枠を逸脱して「現代社会論入門」の色彩の強いものになっている。これは理科系・看護系のカリキュラムにおいて社会学は事実上「現代社会論入門」の位置にあると考えたからだ。第一章で説明したように、社会学は市民の社会科学入門に最適の科学的構成をもっている。
またこれに関連して、社会学者でない隣接科学の研究者の著作も多く導入した。じつは、知的興奮のみなぎった研究が社会学にあることはあるのだが、どれも専門的で、一般の人にはたいへんむずかしい。社会学的意味における知的発見のみなぎった「おもしろい」研究やフィールドワークは意外にも非社会学文献に多くみられる。これは隣接科学の〈社会学化〉の結果と考えられるが、わたしは自分の社会学感覚に忠実にこれらの社会学的な非社会学文献を「社会学的世界」のひとつとして紹介したいと思った。もともと社会学はその発展過程において「モザイク科学」であり「侵入科学」であり「残余科学」でありつづけた。そう考えれば、これも社会学の生理にあったことではなかろうか。
第三に、日本人社会学者の研究を紹介すること。こうした概説書では洋モノの原著[の翻訳]を内容紹介するのが通例になっていて、邦語文献の紹介は少ない。たしかに、邦語文献には欧米の研究の紹介が多い点でセカンダリーかもしれない。しかし、社会学入門者[じっさいには社会学専攻の学生も]にとって、これは迷惑な話である。たとえ原著であれ、翻訳というプロセスを経ているかぎり、じつはそうした文献もセカンダリーにはちがいないのだ。いや、むしろ「異文化間コミュニケーション」という問題をよけいにふくんでしまう点で、本質の理解にとってかえって妨げになる場合さえあるかもしれない。むしろ現代日本社会に即した解説や事例研究をたくさん読んだ方が、ヴィヴィッドな社会学感覚を身につけることができるのではないか。
たとえば、ジンメルが最初に着手した「よそ者」や「文化の悲劇」「大都市と精神生活」、ウェーバーの提起した「カリスマ」や「音楽の合理性」などの論点を現代日本の都市社会という社会的文脈のなかで説明できなければ、ジンメルやウェーバーの今日的意義を初学者に理解してもらうことはできないだろう。俗流化とかステレオタイプ化によって、たとえかれらのオリジナルな概念構成が犠牲になったとしても、その方がえるものは大きいのではなかろうか。  たとえば上野千鶴子の問題作『スカートの下の劇場』(河出書房新社一九八九年)にはジンメル的な問題意識と知的エートスがみなぎっている。こういうと、ご本人は否定するかもしれないし、ジンメル研究者にも叱られるかもしれないが、ジンメルが現代に生きていれば、おそらくこのような本を何冊も書き飛ばしたにちがいない。かれの社会学的なマインドすなわち「社会学感覚」をヴィヴィッドなものとして実感するには、教科書にあるような形式社会学の形式主義的説明よりも、おそらくこのような本を数多く読み飛ばす方が数段いいのだ。
第四に、記述をなるべくやさしくすること。人がまったく新しい科学に出会ったとき、最初に困惑するのは概念のむずかしさというより、その説明に使われることばのむずかしさである。社会学の場合も、むずかしさのかなりの部分が説明のことばに起因する。そもそも科学はムダのない簡潔なことばを好む。しかし、その文体はしばしば一般読者を遠ざけてしまう。執筆中もっとクリアに簡潔に記述したいという衝動がたえずつきまとったけれども、学術論文の文体はこれでもなるべく禁欲したつもりである。エッセイ的な記述に徹した部分もあるし、ふつうの概説書で数行で片づけらている部分を大きく膨らませる一方、学術的意義のあることがら――たとえば学説史や概念論議-を思い切って断念した章も多い。また文章としては邪道であるが、構図をつかみやすくするため箇条書きも多く採用した。改行もなるべく多くした。それでも「やっぱりむずかしい」という声が聞こえてきそうだが……。
第五に、統計的な資料の採用を極力やめて、事例中心に説明した。たとえば、こんな感想がある。「都市社会学的な視点の最大の欠陥は、現実を生活の実効的な側面に限定することにあったのでしょうね。ところが都市は、その中に生きる人間の意識のあり方によってさまざまの相貌を示すものです。だから、計量的方法によって捉えられるのは、そのごく一部に過ぎないという自覚が、そういった方法に携っていた人には欠けていたようです。」[山口昌男『祝祭都市-象徴人類学的アプローチ』(岩波書店一九八四年)]統計的・計量的方法の意義は承知しているつもりだが、山口のいう「意識のあり方」を本書では重視したいと考えた。そのために初学者にはおもしろみのない統計的資料の解読を避け、むしろ実感のともなう事例によって社会的世界の構造を語らせた方がいいのではないか。そのさい、ライト・ミルズが「知的職人論」でのべた「少なくとも心に確実な実例をもたぬまま、三頁以上を書きとばしてはならぬ」との警告を心にいだきながら執筆を進めたのだが、抽象と具体の往復は思いのほかむずかしいものだった。
第六に、読書案内あるいはブックガイドのような本をつくりたかった。みんな現代社会のしくみと問題についてはテレビと雑誌によってかなり知っている。テレビと雑誌の限界は、なによりもものごとを相対化する視点に欠けていることと、一定のステレオタイプにはまっていることだ。そこに〈反省〉はない。それを補うのが系統的な読書であるが、いまどきの大学生にたりないのは、このような読書体験による反省的知識である。
そもそも社会学のおもしろみを体験するには、まず多読が必要である。片っ端から読み飛ばすこと。ところが、意欲的な入門者の遭遇する困難は、なにを読んだらいいかわからないということだ。素養がなくても読めばだいたい理解できて興味がつながるもの-これがたいへんに重要!-がいいわけである。そこをなんとかしたかった。そのさい、海外の古典作品だけではなく、とりつきやすい現代日本の作品を多く示すことにしたことはすでにのべたとおりである。
したがって、社会学の世界では常識となっていることがらでも、それについて解説した一般書を脚注で提示するようにした。そのため本書の脚注はいささか〈過剰〉になっている。
ジャーナリズムの社会学化
以上のような方針に加えて、わたしのなかには、もうひとつの思いがあった。それはジャーナリズムヘの思いである。
ジャーナリズムは社会の反省的再構成にとって最重要な活動だが、現実にはさまざまな問題を抱えている。それを具体的に克服する主体は、いうまでもなくジャーナリストである。それゆえジャーナリストの社会認識-これは当然、自己認識をふくんでいなければならない-が重要なファクターとなるのだが、現状ではかならずしも十分とはいえない。権力・教育・宗教・家族・村落・子ども・犯罪・コミュニケーションなどについての認識は、しばしばステレオタイプに陥っている。べつに学術的であれとは思わないが、ステレオタイプな社会認識がジャーナリズムの理念とあいいれないのはたしかである。こうしたステレオタイプから脱するためには〈ジャーナリズムの社会学化〉が有効だというのがわたしの持論である。じっさいに本書がそのような人と出会う可能性は少ないかもしれないが、少なくとも、ジャーナリズムのオーディエンスたる若い読者に、日々メディアから送られてくるメッセージにひそむステレオタイプを批判的に受けとめる視点をもってもらうことはできるだろう。
社会学のジャーナリズム化
〈ジャーナリズムの社会学化〉にともなって〈社会学のジャーナリズム化〉もぜひ推し進めなければならないことである。とりわけ社会学教育は広い意味での――たとえば戸坂潤のいう意味での――〈ジャーナリズム〉の一環であるとわたしは位置づけている。
そもそも社会学は「問題提起の学」であって「問題解決の学」ではないように思う。社会学の実践的性格がかならずしも問題解決の糸口にならず、しばしば疑似宗教的実践倫理にとどまるのもそのせいであるし・ファシズムや官僚的社会主義から敵視されるのも、また逆に、社会運動に関わっている人びとから白眼視されるのも、そして政策担当者からあまり相手にされないのも、社会学の実践性が良くも悪しくも問題解決・政策提言になく、もっぱら問題提起性=議題設定機能にあることによるのではないか。本書の随所で「他者理解と自己反省」についてふれてきたが、社会学のレーゾンデートル[存在理由]は、権力作用によって把握しにくくなっている社会的現実を、自己反省的かつ他者理解的に解明するところにあると思う。とすれば、社会学研究と社会学教育の実践的課題は、問題解決や政策提言ではなく、むしろ潜在的な問題を〈問題〉として科学的に定義すること――それによって他者理解と自己反省の能力を高めること――にあり、この点をもっと明確に自覚的に追求すべきなのではないか。その意味では、〈ジャーナリズムの社会学化〉とともに〈社会学のジャーナリズム化〉が必要なのだと思う。
このような観点から、さしあたりテーマ設定についてなるべく具体的なもの・多様なものをあつかうようこころがけた。くわえて、少なくとも「議題設定機能」[何が問題か]をもつテキストたりえるよう、素材となる事例をなるべく具体的に提示するようにした。
理論的方針
理論的方針について、もう少しダメ押ししておこう。本文のなかで相当しぶとく強調しておいたことだから、ここまでくれば、もう若い読者にも納得していただけるだろう。本書を貫く理論的方針は、つぎのようなものである。
(1)「もうひとつの」(alternative)視点-たとえば被害者・受け手・被支配者・社会的弱者・市民・患者・消費者-に立つこと。
(2)自明視された「常識」と「ステレオタイプ」を〈歴史化〉し、批判すること。
(3)「技術的知識=情報」ではなく「反省的知識=明識」を深めること。統計的数字や「白書」的展望をいっさいやめて、原理的な思考能力を高める基礎的な考え方を提供する。
(4)属性ではなく関係に内在するものととらえるプラグマティックな思考方法を前面に押しだすこと。マルクスの物象化論、ミードのコミュニケーション論、ジンメルの相互作用論、ウェーバーの支配社会学および歴史社会学、グールドナーの反省社会学などに通底する思想を強調すること。
本書の理論的立場はおもに相互作用論といってよいものだが、読者自身の自明性をおびた常識的知識に批判的反省を迫るために、じっさいにはとくに「反作用」(リアクション)を強調する論述方法をとった。識者には、いささかバランスを欠くようにみえるかもしれないが、若い読者のステレオタイプをくずすには、これでちょうどよいというのがわたしの実感だ。
本書への自己反省
最後に、この本を読んだ読者に危険負担の可能性について申し添えておかなければならない。
それを一言で表すと、本書はわたしが自覚的に選択した社会学的知識に限定されているということである。ある問題についての学説がいくつかにわかれている場合、わたしはそれらを公平に両論併記する方法をとらないで、どれかひとつを選択した。さらに具体的にはつぎのようなことである。
第一に、なるべく多面的に社会学像を紹介しようといいながら、本書では「地域」という重要な観点が欠落している。これはもっぱら紙数の関係によるのであるが、もうひとつ、地域社会論の系列が全体社会論の系列としっくりかみあわないことによるものでもある。これはおそらく抽象度の水準の問題であろう。また、社会問題論では医療に関するふたつのテーマだけが論じられているにすぎない。ほかに論じたいテーマがいくつかあったのだが、これらも紙数の関係で限定せざるをえなかった。しかし、このふたつのテーマには、現代の社会問題を考える上で重要な要素が多くふくまれており、その点で例題的意義はあると考えている。ちなみに本書は網羅主義ではなく、あくまでも例題主義である。
第二に、本書では論点をはっきりうちだすために、理論のフリンジを多少強調してある。「あれもある、これもある」では読者がとまどうだろうというよけいな配慮によるのであるが、これが個々の作品世界を侵害することになった可能性は否定できない。ちょうど映画の予告編のようなものだと考えておいてほしい。そしてできれば予告編ですませるのでなく、図書館なり書店で本編に接してほしい。
第三に、学術的な態度によると概念や現象の〈差異〉をこまかく区別するが、本書では逆に〈類似性〉を強調する論法をとっている。さまざまな学説のちがいよりも、むしろそれらに共通する論点を前面にだしてある。入門段階はそうあるべきだと考えたからだが、識者には〈社会学的シンクレティズム〉または〈社会学的ブリコラージュ〉にみえるかもしれない。
それにしても、以上のような社会学教育への反省と理想にわたし自身は十分応えられただろうか。じっさいの講義では省略することの多い社会学説の解説も、また、講義なら二・三回ですませる社会学論も、いざ本にするとなると、理論社会学専攻の血が騒いでしまって、結局あれこれ書き込んでしまった。
社会学研究者としての仕事にはたえず準拠集団としての社会学者集団がつきまとう。そのため、想定される読者には必要のないことでも、ある程度までは-つまり準拠集団の許容範囲に達するまで-書き込まなければならない。これは教育者としてはつらいところであるが、研究者としての職業倫理でもある。結果としてこの本も多くの社会学概説書と同様、アンビヴァレンツな動機にひきさがれている。
きっと先学の方々もそうであったにちがいない。そう思うと、これまでのべてきたことをいっそのこと撤回したい心境になるが、逆に社会学者とはこうした両義性を平然と生きる確信犯のような存在なのかもしれないと思えば、この矛盾をかかえるのも修行のうちである。
謝辞
本書の知識はふたつの源泉をもっている。ひとつは多くの文献、もうひとつはわたしの受けた社会学教育である。最後に、このふたつの知的源泉に感謝したい。
とくに、本書では、敬愛する多くの日本の社会学者による研究や一般書を参照・紹介させていただいた。参照・引用した資料は脚注で逐一明記するよう努めたが、ここであらためて謝意を表したいと思う。本書は、もとよりオリジナリティを競うものではなく、社会学的に現代社会を理解するさまざまな知見を紹介することに所期の目的がある。したがって、本書は、これら諸研究への〈インデックス〉以上のものではないし、読者がこの〈インデックス〉から、自分の身の周りの社会的世界を見直すための小道具をみつけることができれば本望というものである。
最後に、予想以上に分厚いものになってしまった本書を快く引き受けてこのような本として仕立てていただいた文化書房博文社の天野義夫さんに心から感謝したい。
一九九一年九月二七日
社会学的リテラシー構築のために(増補版)
本書執筆後、私は三冊の本を書き下ろした。いずれも広い意味での社会学教育に関する本であり、本書執筆が引き金になった仕事である。すでに本書も七百ページ近くあり、これ以上何を読ませようというのかと思われるかもしれないが、社会学の勉強については、まだまだ言いたいことが山ほどあるのだ。
まず第一に「なぜ社会学を学ぶのか、なぜ社会学を教えるのか」について。
『社会学感覚』の本編では「1―4 社会学を学ぶ意味」(二六―三二ページ)でかんたんに説明しておいた。従来的な社会学入門では案外この点が説明されていないのである。じつは『社会学感覚』ではこの項目の他に「知識論」というテーマ群を設定して詳しく説明する予定だったのだが、紙幅の関係で果たせなかった。そこで、そのとき構想していたものを詳しく一冊の本に展開し直すことにした。それが本書の次に公刊した『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社一九九四年)である。結果的に、『社会学感覚』が各論として社会学の遠心力を説明したのに対して、『リフレクション』は総論として社会学の求心力を説明することになった。このさい私が考えた社会学の理念的求心力は「リフレクション」すなわち「反省」の力である。理論的にはミードやグルドナーやブルデューらをゆるやかにつなぐ反省社会学の系譜に依拠して議論を整理した。
つぎに「どのように社会学を学ぶのか」について。
従来はハウツウものとして専門家からは軽く見られてきた分野だが、じっさい社会学教育を考える上ではとても重要なところだと私は考えている。社会学では長らく適切なテキストがないために初学者にムダな試行錯誤を強いてきたきらいがあるので、本書『社会学感覚』のいくつかのハウツウ的な付論を発展させて詳しく説明することにした。『リフレクション』の翌年に上梓した『社会学の作法・初級編――社会学的リテラシー構築のためのレッスン』(文化書房博文社一九九五年)がそれである。本書『社会学感覚』の付論にものたりない読者は、こちらを参照していただければ幸いである。ただし、初級者にしぼって説明してあるので、卒論程度になるとものたりないかもしれない。現代学生に顕著な、単位取得に役立たないことはいっさいしないという受験生的「心の習慣」を脱構築するためのリハビリ用である。
さて、『社会学の作法・初級編』には「パソコンの利用」という章がある。パソコンが現代の社会学的生活には欠かせないという立場で具体的に説明したのだが、折しも一九九五年春の公刊である。その年末のWindows95の登場やインターネットの急展開によって、あっという間に記述が古びてしまった。とくにネットワークの利用が学習や研究にとって重要なものになってきたことをきちんと説明する必要を感じ、『インターネット市民スタイル【知的作法編】』(論創社一九九七年)を書いた。これはいわば「社会学の作法・ネットワーク編」にあたる。  最後にインターネット上の私のホームページについて言及しておこう。一九九五年八月から「SOCIUS」(http://www.asahi-net.or.jp/~bv6k―nmr/welcome.html)というホームページを始めた。「SOCIUS」は「ソキウス」と読む。生涯学習のための社会学専門ホームページである。さらに一九九七年一月にはシェアテキストのプロジェクト「honya.co.jp」(http://www.honya.co.jp/)に参加して「SOCIUS pro」(http://members.honya.co.jp/creative/knomura/welcome.html)の公開も始めた。いずれも印刷媒体の制約を乗り越えるために構築したものである。
いずれのホームページでも上記の私の著作を公開しているので、ネットワーク環境の整っている方は、さしあたってこのふたつのソキウスをご利用いただくのが早道だろう。また、ある程度の時間が経過したのちに本書をご覧の方のためにもソキウスで最新情報をチェックできるようにしたいと思っている。
そもそも、このブックガイド自体が、「ソキウス」上で展開している「ハイパーブックガイド」などでこの二年半に少しずつ書きためたものが元になっている。ウェッブは修正や増補が容易なので印刷媒体を補うのにちょうどよいメディアであるし、しかもウェッブ上で公開しているとなると日常的に増補する習慣がつくので、締切を過ぎたあとも目配りすることになる(なぜなら更新が止まってしまったウェッブはみっともないからである)。今回の増補原稿はその賜物である。
というようなしだいで『社会学感覚』はだれよりも著者自身を導いてきた本といえそうである。増補によって今しばらくの延命を願うのも人情というものであろう。いつか機会があれば、今回のラフな増補をもとに本編を全面的に書き直し、『新・社会学感覚』の上梓を期したいと思う。
近年発刊される社会学系のテキストでは十人以上の研究者によって執筆されるものも多い。それだけ専門分化が進んでいるのである。このような時代にひとりの著者が社会学全般について書くというのは、専門家として風上にもおけない逸脱行為であろう。私はそれを十分承知している。しかし、同時に私は、社会学が、専門家支配に抵抗する「見識ある市民」の反省的知識でなければならないとの信念をもっており、それに沿ってテキストを構成するには単独で作業する方が効率的なのである。それが成功しているかどうかに関して必ずしも自信があるわけではないが、しかし少なくともいえることは、この程度のことでも複数の執筆者間でコンセンサスを確保しながらおこなおうとすれば、たいへんな手間と議論とストレスが必要になるにちがいないということだ。それだけ「専門科学としての社会学」のディシプリンは強固であり、しかも社会学が本質的に論争的な学問であることがそれに輪をかけている。
本書の立場は「見識ある市民のための反省的知識としての社会学」というものである。「社会学感覚」ということばは、このような社会学の知的駆動力あるいはエートスをさすことばとして、私が考案した造語である。いささかバブル期の雰囲気をひきづったネーミングであったと反省しているが、ふつうの言い方をすると「社会学的感受性」ということになろう。それは、日常生活を反省的に異化する知的能力であり、社会を反省的にする実践を誘発する高度なコミュニケーション能力である。
このような社会学概念は、専門科学のタコ壷的講座制の枠内では、とんでもなくあいまいで明晰でないように見えるかもしれない。しかし、在野の視点から社会学を眺めるかぎり、これは社会学に対する現代社会の要請なのである。
社会学への入口はどこにでもある。気になったところから入ってみるのが一番である。『社会学感覚』が、それを手にとった読者のみなさんにとって、そんな入口のひとつにでもなれば幸いである。ひきつづき社会学的世界へのインデックスとならんことを!
一九九八年一月二五日
野村一夫
【追記】この原稿を書き上げたあと、社会学ブックガイドの決定版ともいうべき事典がでた。あわせて参照してほしい。見田宗介・上野千鶴子・内田隆三・佐藤健二・吉見俊哉・大澤真幸編『社会学文献事典』(弘文堂一九九八年)。また、本の入手について一言。社会学系の本は巨大書店に行かないかぎり書棚にないのがふつうである。新刊書をのぞくと、最寄りの書店や生協に注文しなければならない。それが困難な人やおっくうな人も多いと思う。その程度のことで社会学書との出会いが遠のくのは何とも残念なことだ。インターネットの使える人には、たとえば「紀伊國屋書店 KINOKUNIYA BookWeb インターネット店」(http://bookweb.kinokuniya.co.jp/)のような宅配サービスをおすすめしておきたい。これだと地方はもちろん海外からでも注文できる。また、本の購入費のない人は、ぜひ身近な図書館の館員に相談してほしい。たとえば公立図書館でリクエストすれば新たに購入してくれたり他の図書館から取り寄せてもらえることがある。
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4月 12017

社会学感覚 市民社会の再構築

Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫

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社会学感覚
市民社会の再構築
増補
社会構想と「公共哲学としての社会科学」
社会構想論というテーマ群は本編にはなかったものだ。しかし、これも社会学の重要課題のひとつである。もちろんユートピアを夢想するのではない。政策論的なニュアンスを込めて「社会計画論」と呼ばれることもある。もっと地に足をつけたものでなければなるまい。
そもそも社会はその構成要素として理念や理想を含む。しかし、人びとが望ましいと考えている社会がほんとうに望ましいのか、「変革」や「改革」の名の下に政策や行為が志向するヴィジョンは果たして理想的なものなのか。想像力を働かせて精査してみる必要がある。
この問題圏については「社会構想」と銘打たれたほとんど唯一の本『社会構想の社会学』岩波講座現代社会学 第26巻(岩波書店一九九六年)を参照してほしい。
このような領域に社会学が踏み込む理由については、ロバート・N・ベラー、R・マドセン、S・M・ティプトン、W・M・サリヴァン、A・スウィドラー『心の習慣――アメリカ個人主義のゆくえ』島薗進・中村圭志訳(みすず書房一九九一年)の巻末に付せられた「公共哲学としての社会科学」という短い論考をぜひ参照してほしい。
市民的公共圏
さしあたり社会構想論の重要なテーマは「市民社会の再構築」であろう。キーワードは市民的公共圏である。
市民的公共圏とは、自律的な市民が自由に討論しあう言語空間のこと。もともと古代ギリシャにあった考え方だが、それが、初期資本主義の発達の中で、具体的に実現した社会的な空間である。基本的には、権力に対抗することがひとつのポイントになっており、そこが日本の行政関係者のいう「公共性」との大きなちがいである[日本における公共性概念については、船橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・勝田晴美『新幹線公害――高速文明の社会問題』(有斐閣一九八五年)を参照してほしい]。
ハーバーマス『公共性の構造転換――市民社会の一カテゴリーについての探究(第2版)』細谷貞雄・山田正行訳(未来社一九九四年)は、この分野の古典。最近ハバーマスが三十年前の自著を回顧した小論をくわえた新版で、この小論は必読。
公共圏論については、花田達朗『公共圏という名の社会空間――公共圏、メディア、市民社会』(木鐸社一九九六年)が基本書。花田はそれまで「公共性」と訳されていたのを「公共圏」と訳すことを提唱した。「性」がつくととたんに抽象的なものになってしまうが、そうではなく、あくまでも具体的な空間のことだいうのだ。たしかに前掲のハバーマスの本の「公共性」も「公共圏」とか「公的空間」と読みかえると理解できる箇所が相当数ある。英訳では public sphere である。
このテーマでは、ハンナ・アレント『人間の条件』志水速雄訳(ちくま学芸文庫一九九四年)も古典である。近年、ハバーマスとの関連で見直されているようだが、社会学としては使いにくい議論である。
日本社会の文脈でとりあげた本としては、佐藤慶幸『生活世界と対話の理論』(文眞堂一九九一年)をあげておきたい。生活クラブ生協を事例に考察されている。初学者はここから入るといいだろう。
公共圏のモデルとしてのコーヒーハウス
コーヒーハウスはたんなる喫茶店ではない。それは、市民たちが平等の資格において出会い、討論し、世論をつくりだしてゆく社会的空間だった。ジャーナリズムもその中から生まれ、その機能をマス・メディアが担っていくことになる。よくハバーマスが「コーヒーハウス式の市民主義」のように揶揄されることがあるが、私たちはコーヒーハウスの歴史的実態をよくわかっていないまま、そのようなことばを受け売りしたり、あるいは反発したりしているもの。このさいコーヒーハウスとその周辺について歴史的にきちんと知ることから始めたい。小林章夫『ロンドンのコーヒー・ハウス』(PHP文庫一九九四年)は、コーヒーハウスがどこまで公共圏として機能し、どのような限界をもち、どのように変質していったかを説明した歴史書。ジャーナリズム史の勉強にも役立つ本だ。
ネットワーキング
個人と個人の新しいつながり方として注目されているのがネットワーキングである。ネットワーキングということばは、J・リップナック、J・スタンプス『ネットワーキング――ヨコ型情報社会への潮流』(プレジデント社一九八四年)ではじめて定義され、やがて一般に使用されるようになった。著者は社会学者である。
ネットワーキングの一般書としては、金子郁容『ボランティア――もうひとつの情報社会』(岩波新書一九九二年)と、上野千鶴子・電通ネットワーク研究会『女縁が世の中を変える――脱専業主婦のネットワーキング』(日本経済新聞社一九八八年)などがある。とくに金子の本は、それまでの「ボランティア」のイメージを覆した、理論的にも示唆に富む本である。
社会運動論
ネットワーキングの問題は広い意味での社会運動論に入る。社会運動は社会形成の基本である。片桐新自『社会運動の中範囲理論――資源動員論からの展開』(東京大学出版会一九九五年)は、社会運動についての最新理論を論じた研究書。社会運動論研究会編『社会運動論の統合をめざして――理論と分析』(成文堂一九九〇年)は、若手研究者による論文集だが、錯綜するこの分野の知見がよく整理された総論的論文がふくまれている。また、環境問題や草の根市民運動などについての事例研究もあって、この分野の研究状況を理解するのにいい本だ。社会運動論研究会編『社会運動の現代的位相』(成文堂一九九四年)はその続編。
「新しい社会運動」については、梶田孝道『テクノクラシーと社会運動――対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)とくに第6章「新しい社会運動――A・トゥレーヌの問題提示をうけて」。
市民社会とシティズンシップ
新しい社会運動の主役は「市民」としての個人である。マス・メディア上では、カレル・ヴァン・ウォルフレン『人間を幸福にしない日本というシステム』篠原勝訳(毎日新聞社一九九四年)が「市民」概念を呼び起こした。そのため、それに反発する新保守主義の文化人がさかんにこのことばとこれを使う人たちを批判するという流れができている。「市民」を標榜する「きまじめな」人たちに対する反発からの無邪気な批判も多い。そう、これはきわめて政治的な概念なのだ。
日本では、久野収が警職法反対運動においてきわだった「市民」に注目した論文によって独特の政治的ニュアンスが加わり、以後さかんに使われるようになった。久野収『市民主義の成立』(筑摩書房一九九六年)はその論文を復刊したもの。ここで強調された「市民」概念は個人主義的な政治的能動性をその意味内容としていた。その後、この文脈が忘れられておもに左翼系の政治組織のスローガンとして「市民」が使われることになった。「市民」は政治組織からも自由に動く個人とされただけに皮肉ななりゆきだった。
社会科学の世界では、松下圭一の一連の仕事が大きな影響を与えた。松下圭一『戦後政治の歴史と思想』(ちくま学芸文庫一九九六年)は、一貫して「市民」にこだわった政治学者のベストセレクション。どれも名作だが、とくに「〈市民〉的人間型の現代的可能性」が重要な仕事。
社会学の基本文献では、T・H・マーシャル、トム・ボットモア『シティズンシップと社会的階級――近現代を総括するマニュフェスト』岩崎信彦・中村健吾訳(法律文化社一九九三年)がある。マーシャルの論文にボットモアが解説を加えたものである。ただし、ここでのシティズンシップは「平等であること」を主要な意味内容にしている。権利と義務をさす「市民権」に近い意味である。この文脈ではその後ブライアン・ターナーらが議論を進めている。  社会学で近年注目されているのは「市民社会」(civil society)形成の文脈だ。社会主義政権下のポーランドにおける「連帯」に象徴されるような社会再構築の主役たち、つまり、利害関係にしばられない、政治化された自律的個人としての「市民」に着目したものだ。こちらは「市民精神」の発動としての政治的能動性が強調されている。ウォルフレンや久野収の使い方はこちらに近い。
いずれにしても、このテーマはトクヴィル以来の古くて新しいテーマといえそうだ。ある種の生き方としてのシティズンシップ(市民精神)の可能性と限界について社会学的に考える上でヒントになりそうな本をあと二冊追加しておこう。ひとつはこの章の冒頭で紹介した、ベラーらの『心の習慣――アメリカ個人主義のゆくえ』。もう一冊は、リチャード・セネット『公共性の喪失』北山克彦・高階悟訳(晶文社一九九一年)。
近代とは何か
社会構想論の前提は「近代」をどう捉えるかである。もちろん「近代」を問い直すことは社会学の草創期以来のテーマであって、基本文献は山ほどある。ただし九〇年代の近代論は七〇年代以降のポストモダンの思想潮流が一段落し、そこで突きつけられたものを問い直すという特徴をもっている。安直に「ポスト」を持ち出して、結論もあるようなないような流行思想にいったん休止符を打ち、激動の二〇世紀を俯瞰しながら「近代とは何か」を問うような理論的な仕事である。
その代表的な研究として、アンソニー・ギデンズ『近代とはいかなる時代か?――モダニティの帰結』松尾精文・小幡正敏訳(而立書房一九九三年)をあげておきたい。日本では、佐藤俊樹『近代・組織・資本主義――日本と西欧における近代の地平』(ミネルヴァ書房一九九三年)がひとつの到達点的な研究である。
リフレクションの思想
本書は社会学の入門書として書かれているので自説は控えてあるが、本としてのトータリティを確保するためリフレクション(反省)概念によって論調を整理している。総論として新たにまとめなおしたのが、野村一夫『リフレクション――社会学的な感受性へ』(文化書房博文社一九九四年)である。反省社会学などの理論的背景については、こちらを参照してほしい。
リフレクションの思想については、今田高俊『自己組織性――社会理論の復活』(創文社一九八六年)、今田高俊『モダンの脱構築――産業社会のゆくえ』(中公新書一九八七年)、今田高俊『混沌の力』(講談社一九九四年)で展開されている。「リフレクションの思想」と呼んだのは今田である。システム論のひとつの理論的帰結として導出されたもの。社会構想論のひとつのポイントになるものと思う。
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4月 12017

社会学感覚27環境問題の構造

Socius  ソキウス   著作+制作 野村一夫

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社会学感覚
27 環境問題の構造
増補
環境社会学・概説
環境問題の章も本編では断念したものだった。ここで、環境社会学の視点から現代の環境問題について論じた主要文献を紹介しておこう。
日本の環境社会学を俯瞰できる基本書として、飯島伸子編『環境社会学』(有斐閣一九九三年)。日本の環境社会学は、深刻な健康障害を含む社会問題としての環境問題の社会学的分析という特徴があり、公害問題への取り組みから始まった。日本は公害大国だという特殊事情を反映しているということで、「加害―被害関係」が関心の焦点になる。このあたりの歴史的事情は、飯島伸子『環境社会学のすすめ』(丸善ライブラリー一九九五年)に詳しい。以前から公害被害の問題に取り組んできた著者の研究史を軸にして環境社会学を解説した新書である。環境社会学会『環境社会学研究』創刊号(新曜社一九九五年)は日本環境社会学会の機関誌であるが、「環境社会学のパースペクティブ」特集を組んでおり参考になる。
日本の環境社会学が「環境問題の社会学」(sociology on environmental problems)であるのに対して、欧米のは「環境の社会学」(sociology of environment)という特徴がある。後者の基本書が、C・R・ハムフェリー、F・H・バトル『環境・エネルギー・社会――環境社会学を求めて』満田久義・寺田良一・三浦耕吉郎・安立清史訳(ミネルヴァ書房一九九一年)。従来の社会学の人間特例主義を反省し、社会環境・文化環境中心の環境概念を自然環境に拡大するというラジカルなもので、ある意味では強力な社会学批判といえよう。
生活環境主義
日本独特の環境社会学研究から提唱された理論として「生活環境主義」がある。鳥越皓之編『環境問題の社会理論――生活環境主義の立場から』(御茶の水書房一九八九年)と、鳥越皓之・嘉田由紀子編『水と人の環境史――琵琶湖報告書(増補版)』(御茶の水書房一九九一年)において提唱された考え方である。
それによると、環境問題に対するスタンスのとり方には三つある。第一に近代技術主義。行政当局による巨大開発は近代技術主義に立つことが多い。自然は資源と見なされ、利用開発すべきものと位置づけられ、不都合があれば改変すべきだと考える。
第二に自然環境主義。自然保護運動はこれに立つ。人の手が加わらない自然がもっとも望ましいとする立場である。
しかし、近代技術主義は「住民を守る」といいながら、開発によってその生活を破壊することが多い。自然環境主義は安易なノスタルジーに流され、そこに居住する人びとの生活のことを無視してしまう傾向をもつ。ちなみに、一九七〇年代から大きな勢力になりつつある「ディープ・エコロジー」はさしずめ「自然環境主義」の急進派ということであろう。北アメリカで「ディープ・エコロジー」のような運動が支持されるのは、手つかずの自然(原生的自然)が存在し、そこに生活する人びとが極端に少ないからである。このように自然環境主義は生活現場から遠い地点にいるからこそ可能な論理でもある[なお、アメリカの環境運動の歴史と多様性が一覧できる基本書として、R・E・ダンラップ、A・G・マーティグ編『現代アメリカの環境主義――一九七〇年から一九九〇年の環境運動』満田久義監訳(ミネルヴァ書房一九九三年)]。
それに対して、生活環境主義はその地域社会に生活する居住者の立場に立つ。生活の必要に応じて自然環境の「破壊」も認める立場である。近代技術主義にせよ自然環境主義にせよ、私たちは環境問題を考えるとき、知らず知らずのうちに自然科学的発想に立ってしまっている。しかし、そのときわたしたちは具体的な社会生活の複雑性をすっかり忘れてしまっているのではないか。そこに生活している人びとと自分の生活とその他大勢の人びとの生活の連関性を。これが生活環境主義の喚起する視点である。
生活環境主義は、これが日本の環境社会学のすべてではないが、日本のような自然環境と社会環境がきわめて近い位置にあるところでは、ひとつの実践論的な落としどころなのである。生活環境主義について最近のまとまりのあるものとしては、鳥越皓之『環境社会学の理論と実践――生活環境主義の立場から』(有斐閣一九九七年)がある。
受益圏と受苦圏
「受益圏」とは、問題とされる組織の活動による利益を何らかの形で享受する人びと(さらに組織や地域や階層や世代や人種)。「受苦圏」とは、その組織の活動によって平安な生活環境が保持できなくなる人びとのこと。受益圏と受苦圏の範囲の重なりと分離は現代社会の場合じつに多様になっているので、「加害者 対 被害者」といった単純な二分法では捉えられなくなっている。
この概念を駆使した実証研究としては、船橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・勝田晴美『新幹線公害――高速文明の社会問題』(有斐閣一九八五年)と、舩橋晴俊・長谷川公一・畠中宗一・梶田孝道『高速文明の地域問題――東北新幹線の建設・紛争と社会的影響』(有斐閣一九八八年)が代表的なもの。梶田孝道『テクノクラシーと社会運動――対抗的相補性の社会学』(東京大学出版会一九八八年)にも詳しい説明がある。
社会的ジレンマ
行為主体(個人・集団・組織)の合理的な行為の累積が、人びとにとって望ましくない結果を生みだしてしまうことを「社会的ジレンマ」と呼ぶ。環境問題は、私的には合理的な行為であっても、その集積が共有環境を悪化させるという皮肉な社会現象といえる。
社会心理学の立場からのやさしい解説として、山岸俊男『社会的ジレンマのしくみ――「自分1人ぐらいの心理」の招くもの』(サイエンス社一九九〇年)。環境問題に応用した論文として、舩橋晴俊「『社会的ジレンマ』としての環境問題」『社会労働研究』第三五巻第三・四号(法政大学社会学部学会一九八九年)。専門的な論文だが、これが基本文献になる。
環境問題報道
うんざりするほどの量で環境問題がマス・メディアによって伝えられているように感じるが、ほんとうにそうなのだろうか。それを考えるためのヒントを二冊。環境ジャーナリストの会編『地球環境とジャーナリズム』(岩波ブックレット一九九一年)と、本多勝一『日本環境報告』(朝日文庫一九九二年)。伝えられない問題の存在について想像してみたい。
災害社会学
一九九五年の阪神・淡路大震災の衝撃は大きい。災害の問題性を思い知らされた。目下さまざまな分野の研究者がこの災害の教訓を学ぼうとしている。ここでは社会学系でまとまりのある本を二点紹介しておこう。広瀬弘忠『災害に出合うとき』(朝日選書一九九六年)は他の大災害の事例研究も含めて社会心理学的アプローチから被災者の心理や行動について論じている。野田隆『災害と社会システム』(恒星社厚生閣一九九七年)はより社会学的なアプローチからのもので、とくに組織論的な分析が中心になっている。
災害時にはコミュニケーションのあり方が大きくものをいう。それを研究する分野を「災害情報論」という。日本では東京大学新聞研究所(現・東京大学社会情報研究所)が拠点になって研究を進めてきた。東京大学新聞研究所編『災害と情報』(東京大学出版会一九八六年)はその代表的な研究。広井脩『災害情報論』(恒星社厚生閣一九九一年)もその成果をまとめたもので、この分野の基本書である。
関西以外に在住の若い人で、この大震災のリアリティがピンと来ない人には、まず次の本を読むといいだろう。朝日新聞社編『大震災サバイバル・マニュアル』(朝日文庫一九九六年)。じっさいにどういう場面に直面することになるのか、ディテールをきちんと押さえておくことからすべては始まる。
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SOCIUS.JPドメインへの初出 10/2(Thu), 2003  最終更新日:4/1(Sat), 2017
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