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3月 282018

ゼミ手帖【2年ゼミ初日キックオフ用】2017年9月配付

00ゼミ手帖(初日用)表紙

ゼミ手帖【ゼミ初日キックオフ用】
2017年度後期用
 
MesoMediaFab
平成29年度國學院大學特別推進助成採択プロジェクト
「中間知識とメゾメディア:高等教育パラダイムの応用倫理的転回」
研究代表者・野村一夫
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01 3分でわかる野村ゼミ

■ ゼミのテーマ

トランスメディア環境におけるクリエイティプの条件
■ゼミの目標
 多様なメディアが情報の玉突きをするトランスメディア環境において、多彩な能力を発揮するプロデューサー的存在になるためのレッスンを主軸にする。この複雑な社会の中では、適切に「つなぐ人」が、多くの人びとや組織を創造的なネットワークに組み入れるのだ。「つなぐ人」に必要な知識と能力を学ぶ。そして有能な「つなぐ人」を目指す。
■ゼミの到達目標
  1. 現在のトランスメディア環境について総合的に知識を学ぶ。ジャンルや技術の枠組みにとらわれない視野を獲得する。
  2. 速攻で何でも作ってしまうクリエイターとして、いつも作品あるいはプロダクツを制作できる人になる。
  3. 即興的に自在なコミュニケーションができる人になる。
  4. 誰にも負けない読書力をつける。
  5. 好きとか嫌いとかにとらわれない高いレベルの対話的知性をゼミに生み出す。
■ゼミの5つのエンジン
  1. ノンジャンル(好奇心いのち! 好きか嫌いかはどうでもいいじゃん)
  2. 速攻(前のめりでスタートダッシュ! スピード感を優先する)
  3. プロダクト(ひたすら作品づくり! 作ってみないとわからない)
  4. 即興と対話(手ぶらで何が言えるか、何ができるか、何をわかりあえるか)
  5. オープンなマインドセット(すべて公開する不屈の根性)
■ゼミの作品形式(メゾメディア)
レベル1(非公開コンテンツ):Workplace、WorkChat、Stock、ゼミ内プレゼン、企画編集会議、対話、討論、メゾメディア工房(815研究室)でのティータイム
レベル2(公開コンテンツ):名刺、パンフレット、新書、ラジオ番組、公開ウェブ。
レベル3(作品としてのゼミ):ドキュメンタリー
■演習1(2年後期)でやること
  1. 名刺をつくる。(9月)
  2. ゼミの手帖をつくる。(9月)
  3. 新書8冊をつくる。(クリスマスまで)
  4. 新書をもとにラジオトークする。(1月)
■使用するクラウドツール
  1. Workplace by Facebook(ゼミ活動をタイムラインで共有)
  2. WorkChat(かんたんな打ち合わせ)
  3. Stock(完成稿ストック)
  4. G-Suit(@kgi.tokyo)Googleエデュケーション
  5. Toppan Editorial Navi(トッパンエディナビ・ゼミの手帖と新書制作)
  6. プリスタ(http://www.printsta.jp/・名刺制作)
  7. MEME PたAPER(リーフレット、カタログ)
いっしょに危ない橋を渡ろう!

02 野村ゼミ名簿

経済学部史上かつてない陣容! 情報共有とチームワークで乗り切ろう!

●野村ゼミ13期生一覧
経済学科 8名(名前は省略)
経済ネットワーキング学科 10名(名前は省略)
経営学科 16名(名前は省略)
●アドバイスチーム
美奈子・ブレッドスミス(クロスメディア・コミュニケーションズ株式会社)✅️
野村ゼミOBOG 6名
●指導教授
野村 一夫✅️
●野村ゼミ12期生特設応援団(4年生Workplace登録者)11名

03 メゾメディアとは何か

 「メゾメディア」という概念は、2016年度におこなった「国学院大学 特色ある教育研究」に採択された「すべてクラウドによる授業の作品化」プロジェクトで初めて提案した概念です。私の造語です。
メゾメディアとは、配付範囲あるいは到達範囲を限定したメディアの総称です。マスメディアは全面公開が原則です。だれでも一定の条件を満たせば、情報・知識・コミュニケーションを得ることができるメディアです。たとえばテレビを買えば誰でも番組を観ることができるというように。
 逆に「通信」と言われるメディアは、一般に公開されません。当事者同士でコミュニケーションをおこなうためのメディアです。
 「メゾメディア」と呼びたいメディアは、マスメディアと通信メディアの中間領域にあります。ある一定の範囲で共有するけれども、共有範囲が明確に定義されていてコントロールできるメディアのことです。SNSはその典型です。
 2016年度のプロジェクトでは、大学教育における成果物の適切な公開について、主として2つのメゾメディアを使用しました。
 1つはトッパンエディトリアルナビとオンデマンド印刷を組み合わせて新書シリーズを刊行しました。私のゼミやクラスだけでなく、他の先生のフィールド調査報告書やシンポジウムの記録を制作しました。いずれも執筆しているのは学生です。
もう1つは「ノムラゼミラジオ計画」です。iPhoneを使ってFacebookページに始めました。学生と私とでラジオトークをしました。Facebookページは企業や団体がコンテンツを公開するアーキテクチャーですが、広告費をそのつど出せば、お知らせや投稿が指定したクラスターの人たちのタイムラインに表示されます。ラジオとは言えませんが、録音できる時間が最も長いのがFacebookページでした。
 そもそも学生の制作物は、発展途上の一里塚なので、そのまま公開するのは難しいのです。よくあるコピペ乱用のレポートが1つでも混じっていれば、冊子の評価がどんと落ち、いっしょに掲載されている制作物も含めて評判が悪くなってしまいます。本学経済学部でも大学院の留学生の書いた論文がコピペだらけで掲載雑誌を全部回収したこともあります。事件化することがあるのです。
 だから、大学は学生が書いたものや動画を公式サイトや入学ガイドにはそのまま掲載することはほとんど皆無です。事なかれです。だから経済学部では経済学会の方の費用で学生の論文集を作ったり、独自のサイトを設定して現役ゼミ生によるゼミ紹介を掲載したりしているのです。それは教育的見地からやっているのです。
授業での成果物(プロダクツ)は適切な範囲で共有するべきです。たとえば卒論は指導教員しか読みません。あまたのレポートも、それで終わりです。ゼミ仲間にも共有されないし、まして後輩たちにも伝わらない。伝わらないから授業としては毎年同じような繰り返しで、授業そのものがなかなかアップデートできないのです。それで100年やってきた。
 しかし、この20年間に急速にアーキテクチャーとインターフェイスの進化が進みました。だれでもブログを書き、だれでもSNSでかんたんにグループ・コミュニケーションができるようになりました。かつてはサーバ管理者しかできなかった設定も今ではだれでも自分やグループの設定をコントロールできるようになりました。
 これはネットだけではなく、印刷や放送の領域にも及んでいます。昨年「特色ある教育研究」で使用したトッパンエディトリアルナビは、クラウド上でページものを編集できる画期的なサービスです。もともと出版社用に開発されたものなので文庫判と新書判しかありませんが、インターネットとブラウザだけで、こまかい編集作業ができ、ゲラもPDFですぐにできます。EPubもできます。クラウドでないと、こちら側の設備が相応に必要で経費がかかります。クラウドですと、ブラウザだけで済みますし、操作もかんたんです。
 これとオンデマンド印刷を組み合わせて,教育機関として適切な費用計算の仕方を提案して、授業の作品化の基軸メディアにしたのです。配付は手渡し。関係者だけがもっています。
 授業体験もたいせつですが、それをドキュメントとして残すこともたいせつです。そう考えて「すべてクラウドによる授業の作品化:メゾメディア活用実践研究」というタイトルのプロジェクトをやったのです。今年度はこれをさらに展開したいと考えて大学の特別研究助成に申請しました。そこで提案したのがリアルなメゾメディア工房という部屋です。工房とはアトリエ。ものを作る場所です。最近はFabと呼ぶのがオシャレなようです。これを編集室にして成果物を限定範囲で共有するシステムを構築したいと考えています。6月中には合否判定が発表されるでしょう。
 というわけで作業部屋としてのメゾメディア工房(省略してメメ工房)に対応する情報共有の場所として、この仮想メゾメディア工房を設置したのです。コンテンツ制作に関わることは、すべてWorkplace by Facebookに集約します。教育的には、ここがすでに言葉の道場であります。LINEグループもやりますが、こっちに集約したいと考えています。
 インターフェイスはFacebookと似ていますが、完全クローズドで安全です。容量制限もありません。アカデミックとして契約すると無料です。LINEをやっていると、だいたい適応できると思います。タイムラインには、登録してあるグループの投稿が反映するので、そこを注意して、できれば毎日見るようにして下さい。質問も自由です。全部私が答えるのではなく、お互いが知っていることを共有するような形でいければいいなと思っています。
 「1人だけで勉強する」のではなく「みんなで賢くなる」のがゼミの本質です。10人程度のゼミではなく30人超のゼミですから、週1の授業だけで情報共有はできません。ここはそういう規模で「みんなで賢くなる」ためのナレッジ・コモンズとして活用していきたいと決意しています。

04 ワークプレイスの使い方

 メゾメディアという概念は、学生が作ったコンテンツの公開にあたって、安全性を優先して、しかるべき範囲とリーチするメンバーを限定して配付・共有するためのプラットフォームを指します。教育現場における適切な範囲内でのコンテンツ共有のことです。どれがメゾメディアかということより、どのように運用するかに焦点があります。したがって「学生の安全」と「コンテンツ共有」の両立を目指したいと考えます。そのために必要な確認事項を明記しておきます。

(1)メンバーを増やすことができるのは野村だけに限定します。必要があれば、CEOまでWorkChatでお知らせください。これまでの経験上、Excelのテンプレートがありますので、その項目を埋める形でリストを作成してCEOまでお知らせ下さい。
(2)参加者全員に以下の条件のパスワードを求めます。
・10桁以上
・大文字小文字混入
・記号 !”#$%&'() を必ず入れる
・KEANのアドレスを利用しますが、KEANに使っているパスワードは絶対に流用しないでください。そこがこのコミュニティにとってのセキュリティホールになるからです。
・覚えられるパスワードは、たいていパスワードの機能を果たしません。パスワードの使い回しも厳禁です。乗っ取られたときの被害がその分、深刻なものになります。
(3)推奨する利用環境
・スマートフォン。必ず2つのアプリをインストールして下さい。主としてパソコンで利用する方も、2段階認証のさいにスマートフォンが必要です。若い人は問題ありませんが、今後スマートフォンを利用しない先生が参加する際には、さきにスマートフォンを用意していただくことにします。スマートフォンが本人確認の証拠になるからです。
・パソコン。完全なクラウドなのでOSは選びません。性能も関係ありません。とにかく新しいものにしてください。2万円台のものでかまいません。メゾメディア工房は交流サイトではありません。ワークするための業務用SNSです。そのためスマートフォンだけでは十分なワークはできません。必ず用意して下さい。
・ブラウザ。基本はGoogle Chromeにしてください。Chromeにパスワードを覚えさせておくと日常的には手がかかりません。メゾメディア工房をブックマークバーに入れておきましょう。
(4)何か納得のいかないことがあれば、放置することなく、すぐに野村までWorkChatでお知らせ下さい。「異変に気づいた人には通報する義務がある」と考えて下さい。CEOは深夜以外はたいてい対応できます。
■2段階認証
いきなり難しいことを要求するようで申し訳ないですが、セキュリティ確保のため「2段階認証」をしてください。
(1)自分のページを開いた段階で右上の歯車マークをクリックすると「設定」に入ります。
(2)「セキュリティ」を開いて下さい。ここで自分のアカウントのセキュリティが設定できます。
(3)2番目の項目が「2段階認証」です。これはログインしたときに自分の携帯電話のSMSに6桁の数字が届きます。それをWorkplaceに入れるとログインできます。1度やっておくと、しばらくは何もする必要はありません。パスワードだけでは守れないご時世なのでスマホと連携して、ひとつひとつのデバイスを認証するのです。電話番号を入れてSMSと連携して下さい。
(4)わからないときは研究室で手伝ってあげます。研究室にいる日は前日にWorkChatのティーパーティで予告します。
■ボトルネック
 ここまでのプロセスでボトルネックになっていたことは次の3つです。
(1)案外パソコンを持っていない。
 これまではスマホで足りていたと思いますが、これからは両方使うことになります。2万円台のマシンで十分なので何とか手に入れましょう。HPのネットストアを見て下さい。クラウド時代はハードディスだってもういらないんです。研究室にHP2台ありますので差し上げます。オシャレライフにしたい人は自宅にiMacを置いておけば、あとはスマホでたります。自習室のパソコンはやめましょう。
(2)案外メールを見ることがない。
 大学のメールはスマホでかんたんに確認できます。OutlookとExcelとWordとPowerPointは必ずスマホに入れて設定しておいて下さい。ゼミでのプレゼンはスマホのPowerPointでやります。HDMI端子を用意しておいて下さい。
(3)案外パスワードの使い回しがある。
 パスワードはサービスごとに替えるべきです。小さなノートに書いておいてカバンの中にいつも入れておくといいです。今回、2人の方のKEANのアカウントを使って「管理チーム」にリクエストをしてきた件がありました。KEANの管理者がここを確かめに来たのでしょう。システム管理者はそういうことをするもんです。なのでパスワードはサービスごとに替えましょう。そうすれば、1つのサービスが乗っ取られたり侵入されても、他のサービスに累が及びません。
 質問とかアドバイスはコメントにつけて下さい。

05 なぜリスポンスが重要なのか

 メールにしても業務システムにしてもSNSにしても、大昔のように電話しなくて済むようになって、ほんとうによかったと思う。電話は同期型のメディアだから即答をしなければならないから、考える暇がない。だから適切な対応ができないことが多い。もう20年ほど早く生まれていれば、電話中心の世の中にあって私なんか何も仕事ができなかったと思う。

非同期型のメディアは、それなりに余裕があるし、テキストになるので「言った言わない」トラブルが少ない。ただしテキストに置き換える言語能力が求められる。
 だから毎日Facebookなんかに書いていると、リスポンスを返してくれるのは、高い言語能力を誇るハイスペックな先生たちばかりになる。教え子たちは人工知能によって私のタイムラインから消えてしまう。逆もそうだと思う。
 総じて、うちの大学の人びとはリスポンスがないか、とても遅い。職員はいいけれど、教員も学生もとても遅いか無反応である。最近はかつてよりめきめきよくなったとは思うけれども、それは一部で、たいていは巷間ビジネス文脈で言われているほどスピード感はない。
 理由はいくつかある。ヒントも少し。
(1)優先順位をまちがえている。公的なものが優先するはず。
(2)決断ができない。考えたり調べたりしないから思考停止する。つまり手数を惜しむから決断できない。
(3)処理能力が追いつかない。数をこなせない。
(4)リア充方面を優先している。だったら引きこもってはいけない。
 他方、何か判断を求めている人には明確な理由がある。それに無反応でいることは、実質的にはブレーキをかけているのと同じ効果になる。本人は「自分は何もしていない」と思っているかもしれないが、そうではない。相手に「ノー」を突きつけているのである。沈黙は「ノー」である。
 だから、そういう人は次のことをすべきである。
(1)その関係から離脱する。
(2)状態が悪いときは、そう宣言してアプリを削除する。
(3)なるべく現場に立ち会う、顔を出す。
(4)だれかにヘルプして引き上げてもらう。
(5)自分のコストの損得勘定をやめてみる。感情計算はやめた方がいい。
Q: どういうときに「いいね!」をしていいか,よくわかりません。「いいね!」に何かお約束とかお作法といったものがあるのでしょうか。
A: LINEとかTwitterにも同じ機能がありますが、Facebookの「いいね!」は名前もすぐにわかるし、親密な関係の中でおこなわれるため、とても強力です。それだけに先生や先輩方が居ならぶメメ工房においては気を遣うかもしれません。コメントにしても、どう絡んでいいか、わからないかもしれませんね。
 まず大前提は、ここには不審者はいないということです。ゼミ生もOBOGも親切でリスポンスのいい人たちです。基本的には、絡んでも大丈夫なタフなみなさんに来ていただいています。
 2年生のみなさんの立ち位置から見ると、リスポンスのよい人は(たとえば私のように)怖いかもしれませんね。じっさい私なんか先生方からはかなり怖れられていますが、それはうちの大学の人たちがネット上のリスポンスに慣れてないからなんです。でも、ここはクローズドな場所なので(そのために2段階認証をしていただいているわけです)怖れることはありません。
 私の第一の希望は「リスポンスのよい人」になってもらいたいということです。その最初の第一歩が「いいね!」(Like!)なんです。「いいね!」なら、それに対して反撃することはルール違反になりますから安心して付けて下さい。
リスポンスを返すことからコミュニケーションが始まるのです。リスポンスがないとコミュニケーションは始まらない。原理的には、これだけ押さえておいて下さい。
だから、ここでは「読んだ、わかった」という意味で「いいね!」をしてください。「何ですか、これ?」というときは、そのようにコメントして下さい。そこからコミュニケーションが始まるはずです。あまり「責任ある言動」なるものに囚われる必要はありません。そのうち勉強していきますが、そのようなものが言われる組織から何か創造的なものは生まれません。創造の芽を摘むだけです。
 というわけで,お気軽に「いいね!」してください。まずはそこから始めましょう。
Q: 出遅れてしまいました。すでにラビリンスです。どうすればいいですか。
A: 急ぎすぎましたかね。私はひとたび決断すると、いつもこんな感じです。1人でやってる分には「仕事が速いね」でいいのですが、周りを巻き込むと迷惑がられます。今回は人数が多いので、いろんなケースを想定して「前のめり」でセッティングしています。
 そもそもゼミはまだ始まっていないのですから、時間のあるときにグループ単位で読んでいくといいと思います。「読んだ、わかった」と感じたら「いいね!」してください。
Q: いまごろになって3日前の投稿に「いいね!」しにくいです。
A: いやいや、それはLINEやTwitterの話でしょう。あの界隈は時間の刻みが細かいので、あっという間に「旬」が終わってしまいます。だから24時間態勢でキャッチしないと波に乗れない、あるいは「イケてない」と思われるんじゃないかと強迫観念に囚われてしまうんです。
 メゾメディア工房をWorkplace by Facebookに設置したのは、もうちょいLINEやTwitterより、じっくり時間を取りたいと考えたからでもあります。容量も多いし、ずっと残ります。タイムラインは必要だと思いましたが(ケースマにはそれがない)もっと複線的でないと、じっさいのゼミ活動には対応できないし、1人ひとりの温度差や瞬発力の差もタイムラインに吸収できないだろうということです。
Q: むずかしいです。。
A: そのうちわかる。今は、スタートアップのステージなので、来たるべきスタートラインをめざして、ピッチを上げていけばいいんです。
 だから、何日前の投稿であっても、いま「読んだ、わかった」なら,その場でリスポンスを返せばいいんです。そういう人がたくさんいれば、そこが現時点での「旬」なんです。Workplace by Facebookも、そうなるようにできているはずです。なぜなら、リスポンスがあった時点からコミュニケーションが始まるからです。

06 ゼミは6つのチームで運営する

 全員で手分けして運営チームを担当します。演習1は公費が支給されるプロジェクトでもあるので基本的な課題は提示しますが、具体的にはそれぞれの運営チームで計画して実施して下さい。今後は詳しい情報もまず運営チームに提示して検討してもらい、運営チームからゼミ全体に告知してもらいます。
●運営チームの役割
(1)担当する仕事について具体的にチームで計画して実行する。そのためにスケジュールを先読みして準備をする。
(2)チームで決めたことをWorkplaceに報告する。途中経過であればWorkChatに報告する。ドキュメントを残す習慣を付ける。
(3)各チームの役割を個人単位で振り分けないで、チーム全体で調整しながら進める。個人単位で役割を振り分けてしまうと、その人が動けない場合、ゼミ全体が前に進めなくなるから。
▶進行チーム5人(名前は省略)✅️
Mission1 ゼミを番組として扱い、番組進行(MC: Master of Ceremonies)を担当する。
Mission2 スケジュール管理(ガントチャートあるいは行程表を作成してチェック)。
Mission3 作業グループ分けを担当する。くじ、誕生日、コースなど。
▶サポートチーム5人(名前は省略)✅️
Mission1 渉外(経済学会学生委員会との交渉)。
Mission2 会計(プロジェクト全体の会計)。
Mission3 いきもの係(出席管理と生存確認担当)。
Mission4 お茶会セッティング(メメ工房の飲食提供、月1万円程度を自由に采配)。
▶工房管理チーム4人(名前は省略)✅️
Mission1 設営(教室のセッティング)
Mission2 Workplace運営。
Mission3 メメ工房カフェマスター、執事、メイド。
Mission4 IT担当(メメ工房にあるパソコンの管理とサポート)。
▶記録チーム5人(名前は省略)✅️
Mission1 博物館見学ドキュメントを制作する。テキスト、写真、動画。
Mission2 言葉で記録する。順次Workplace内で共有できるようにする。
Mission3 映像記録を撮る(セッティングと編集、事前に安全な公開のために工夫する)。
▶名刺・リーフレットチーム6人(名前は省略)✅️
すべてクラウドサービスで作成する。
Mission1 名刺制作はゼミナリステン全員で個人単位。プリスタ(http://www.printsta.jp/)使用。9月23日から9月30日まで。
Mission2 リーフレットはプロジェクト全体の紹介。カラー4ページか8ページ。MEME PAPER(https://www.memepaper.jp/)使用。
Mission3 プロジェクト紹介はカラー文庫サイズ。トッパンエディナビ(https://toppan-edinavi.jp/)使用。チェキ写真つきメンバー紹介。
▶新書編集チーム9人(名前は省略)✅️
100ページの新書を8冊制作する。8つのチームを作る。中心となる編集長8名と調整係1名。今期課題はスキル系の命題集を作る。シラバスに提示した本の引用とかんたんな解説にする。詳しくは編集チームともむ予定。できれば来年度以降の基礎演習のディスカッション教材にしたい(少なくとも野村担当クラス)。具体的には、仕様を決める、レイアウトを決める、原稿をチェックする、掲載順序を決めたり、かたまりを作る、校正を進める。
■活動手順
(1)チーム単位でWorkChatグループをつくる。
(2)WorkChatでチームのリーダーを決める。
(3)土曜ゼミの進行表を作成する。
(4)アイデアを出し合う。
(5)調整が必要なときは「ティーパーティ」でおこなう。
キックオフ段階では野村が調整する。
■印刷物作業期間
名刺・パンフ・文庫 9月いっぱい
新書 10月から12月いっぱい
■サブゼミ(別の曜日に定期的にメメ工房で開催)
CMPV研究会
デザイン研究会
読書会(4年)
名画会(4年)
 みんながスケジュール管理に苦労していることは、これまでの長い経験で理解しています。とくに(やめるにやめれない)ブラックバイトと、対外的な試合が目白押しの部会やサークルに深く関わっている人はいつもジレンマになります。
 野村ゼミでは募集段階から「土曜日に来れる人」という条件をつけて募集したので正規授業のある土曜日はいいだと思いますが、努力してくれれば参加不参加の結果は問いません。
 で、今のうちに考えておかないといけないのはブッキングすることがあらかじめわかっているときにどう対処するかです。
 ゼミとしての取り組み方を確認しておきます。
(1)土曜日はゼミの日。土曜日はゼミ生34人が唯一集合する日なので、15回分の日程は先に埋めておく。3限だけでなく,その前後も予定を入れない。運営チームにせよ、新書チームにせよ、みんなが集まるのはこの日だけなので最優先する。なぜなら他の曜日に集合するのは(自分も含めて)たいていムリだから。
(2)ブッキングすることが事前にわかった段階で、チームとの打ち合わせと調整をWorkChatでやっておく。ギリギリになってからは調整できないので、事前に調整するのが大人の作法。調整は所属チームと進行チームといきものがかりに自分から申し出る。私には言わなくていい。

07 新書制作

■何のためにやるのか
(1)読むレッスン:シラバスに掲示した文献を読んで、議論の題材になりそうな文章を見つける。文献は新しいビジネス・スキルに関する翻訳書中心。
(2)書くレッスン:引用文の解説と論点を整理する。
(3)編集するレッスン:どんなメディアコンテンツでも編集作業が必須。読む人のことを考えて編集する。
(4)情報をデザインするレッスン:膨大なメディアコンテンツをどのようにデザインし直すか。キュレーションを学ぶ。
■スタイル
1項目2ページ単位。タイトル、引用文、出典、紹介文、論点。
議論の道具箱。
判型 新書判。1冊100ページを目安にして8冊に分けて制作する。
■人事労務用語辞典より「キュレーション」を引用
 「キュレーション」(curation)とは、情報を選んで集めて整理すること。あるいは収集した情報を特定のテーマに沿って編集し、そこに新たな意味や価値を付与する作業を意味します。もともとは美術館や博物館で企画展を組む専門職のキュレーター(curator)に由来する言葉ですが、キュレーターが膨大な作品を取捨選択して展示を構成するように、インターネット上にあふれる情報やコンテンツを独自の価値基準で編集して紹介するサービスもキュレーションと呼ばれ、IT用語として広く使われています。さらに近年では、人材教育や組織開発の分野においても、価値創造を促す新たな役割としてキュレーションの概念に注目が集まっています。
■新書制作作業手順
(1)8つのテーマについて説明したのちに1つを選択する。
(2)テーマに即してチームを作る。このさい偏りのないように微調整が必要。新書編集チームのメンバーが各チームの編集長となる。新書編集チームはたえず情報共有してレベルを上げていく。レベルの高いチームに合わせるよう心がける。
(3)チーム内でのクルーの分担を決める。分担のやり方には、本の章単位で分担するやり方と、チーム全体でプロセスを共有しながら進めるやり方がある。前者は機械的な役割分担になりがちで、体温の低い人の担当個所が手薄になりがちである。後者は(叩き台を提示する人とリスポンスを返す人のように)有機的な分担ができると理想的だが、かなり手数が多くなる。どちらでもよい。
(4)本を入手して、線引きしながら(付箋紙でもよい)通読する。メメ工房に課題図書は常備するが、編集上使用するため貸し出せない。私費で購入するか図書館で借りることが必要。
(5)クルーは引用集を作成してチーム内で発表する。それを叩き台にしてチームで内容を検討する。このさい議論が必要。かなり時間がかかると予想されるので、叩き台はしっかり作っておくこと。議論のさいは各人がメモを取ってチームのWorkChatグループに共有すること。
(6)チームの編集長を中心に原稿を練り込むこと。自分たちで判断できないときはメメ工房で相談してほしい。同時に表紙デザインを決める。
(7)トッパンエディナビにコンテンツを投入する。クラウド仕様なので、どこでも投入可能だが、メメ工房に入力用のパソコンを6台用意してあるので、メメ工房でも作業できる。この場合はサポートつき。編集の技術が身につく作業である。エクセルより簡単。
(8)初校。内容の訂正はここまで。修正を再びトッパンエディナビに入力する。
(9)再校。ここまでにカラー表紙デザインも確定させる。修正を入力。
(10)印刷工場に送る。あとは寝て待て。
■完成後の作業手順
(1)配付。
(2)これらを使って実際にディスカッションをしてみる。→ラジオトーク

08 新書制作の8つのテーマと参考文献(決定版)

到達目標(シラバス掲載)
○ (1)現在のトランスメディア環境について総合的に知識を学ぶ。ジャンルや技術の枠組みにとらわれない視野を獲得する。
○ (2)速攻で何でも作ってしまうクリエイターとして、いつも作品あるいはプロダクツを制作できる人になる。
○ (3)即興的に自在なコミュニケーションができる人になる。
◎ (4)誰にも負けない読書力をつける。
○ (5)好きとか嫌いとかにとらわれない高いレベルの対話的知性をゼミに生み出す。
(1)正しいチームワークの編みだし方(チーム論)
 もちろん1人で何かを成し遂げる人はいます。けれども、ほんとうに1人で画期的な何かを成し遂げる人はごく限られています。ほとんどはチームによって何かが成し遂げられるのです。たとえ1人でやったとしても、少なくとも評価する人がいないと「何か」にはならない。たとえば、シャーロック・ホームズはワトソン博士がいるからこそ「名探偵」なんですね。
 だからチームのことをきちんと考えましょう。なんとなくで、よいチームはできません。役割をジャンケンで決めて終わりというようなレベルではチームを組む意味がありません。チームワークには、メンバーの合計以上のチカラが生じることがあるのです。それはどういうことなのか。どうすればいいのか。基本的な考え方はどのようなものなのか。
●ジェイソン・フリード&デイヴィッド・ハイネマイヤー・ハンソン(黒沢健二・松永肇一・美谷広海・祐佳ヤング訳)『小さなチーム、大きな仕事:働き方の新スタンダード』早川書房(ハヤカワノンフィクション文庫)2016年。
●リッチ・カールガード、マイケル・S・マローン(濱野大道訳)『超チーム力:会社が変わるシリコンバレー式組織の科学』ハーパーコリンズ・ジャパン、2016年。
●バーナード・ロス(庭田よう子訳)『スタンフォード大学dスクール 人生をデザインする目標達成の習慣』講談社、2016年。
(2)弾けるアイデアをひねりだす(クリエイティブ論)
 自由に企画せよと言われても、手ぶらでよいアイデアがひらめくことはありません。もしそれが採用されるとしても、たいてい誰も代案を言えないだけのことが多いと思います。良いアイデアをひねり出すには、知識と意欲とアンテナを持っていることが前提だと思いますが、もっと詰めて考えてみましょう。総じて大卒として就職した人がずっと定型業務に携わることは稀です。きっと何か定型業務ではない裁量的かつ創造的な何かに携わることが多くなります。とりわけ若い人には、そういう役割が期待されます。その期待に応えることができますか?
●チップ・ハース、ダン・ハース(飯岡美紀訳)『アイデアのちから』日経BP社、2008年。
●トム・ケリー、デイヴィッド・ケリー(千葉敏生訳)『クリエイティプ・マインドセット:創造力・好奇心・勇気が目覚める驚異の思考法』日経BP社、2014年。
●佐藤可士和『佐藤可士和のクリエイティブシンキング』日経ビジネス人文庫、2016年。
(3)弱気で頑固な自分の動かし方(自我論)
 最近、新しいことをしましたか? 昨日と同じことをしていませんか? たとえばゼミで次々に繰り出される課題に向き合って自発的に準備をするのが「おっくう」ではありませんか? 締切直前まで課題に手を付ける気がしないということはありませんか? そういうとき、あなたはあなたをコントロールできていますか? どうやったら自分を動かせるのか考えてみましょう。
●ケリー・マクゴニガル(泉恵理子監訳)『スタンフォードの心理学講座 人生がうまくいくシンプルなルール』日経BP社、2016年。
●キャシー・サリット『パフォーマンス・ブレークスルー』徳間書店、2016年。
●タイラー・コーエン(高遠裕子訳)『インセンティブ:自分と世界をうまく動かす』日経BP社、2009年。
(4)他人を変える、自分を変える、関係を変える技術(コミュニケーション技術論) 
 社会の基本単位は個人ではありません。コミュニケーションです。コミュニケーションの集積が社会の実体です。だから、この社会で生きていくためには、いつだって注意深くコミュニケーションをおこなうようにしなければなりません。コミュニケーションはある程度まで技術で乗り越えられます。メディア技術ばかりではありません。手ぶらでコミュニケーションをおこなうときにも、それなりの技術があるのです。
●ヘンドリー・ウェイジンガー、J・P・ポーリウ=フライ(高橋早苗訳)『プレッシャーなんてこわくない』早川書房、2015年。
●アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン(川田志津訳)『心をつなげる:相手と本当の関係を築くために大切な「共感コミュニケーション」12の方法』東洋出版、2014年。
●ダグラス・ストーン、ブルース・パットン、シーラ・ヒーン『話す技術・聴く技術』日本経済新聞出版社、2012年。
(5)腑に落ちるデザイン(情報デザイン論) 
 魅力的なデザインはあります。同時に、わかりやすいデザインもありますね。ゼミで考えたいのは後者の方です。複雑なものごとをすとんとわからせるデザインを「情報デザイン」と言います。地下鉄の路線図や観光マップは美術的なデザインであると同時に巧みな情報デザインです。情報デザインという考え方は最近は「デザイン思考」として語られています。どういうことでしょうか。
●D. N. ノーマン(野島久雄訳)『誰のためのデザイン:認知科学者のデザイン原論』新曜社、1990年。
●アビー・コバート(長谷川敦士監訳、安藤幸央訳)『今日からはじめる情報設計』BNN、2015年。
●ティム・ブラウン(千葉敏生訳)『デザイン思考が世界を変える:イノベーションを導く新しい考え方』早川書房(ハヤカワノンフィクション文庫)2014年。
(6)パッとしない自分をスイッチする(人生デザイン論)
 情報デザインの応用編として「人生のデザイン」を考えてみましょう。私たちは過去の自分の経験から未来を想像しますが、ほんとうにそれでいいのでしょうか。さなぎから蝶が変態するように、スパッと人生路線を切り替えることはできないのでしょうか。鬱々として立ち上がれない自分をどうすれば立ち上がらせることができるのでしょう。こういうスイッチングは、ある程度までは技術的に解決できます。まずはそこまで立ち上がってみて、次のステップに進みましょう。
●メグ・ジェイ(小西敦子訳)『人生は20代で決まる:仕事・恋愛・将来設計』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。
●チップ・ハース、ダン・ハース(千葉敏生訳)『スイッチ! :「変われない」を変える方法』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。
●ブレネー・ブラウン(小川敏子訳)『立て直す力:感情を自覚し、整理し、人生を変える3ステップ』講談社、2017年。
(7)学び方を学び直す(知的生活論)
 これからの長い人生を今の自分の知識在庫だけでやっていけると思いますか。みなさんから見ると、今の老人や中年の人たちの考え方って古いと思いますよね。そうです。たいていは賞味期限の切れた知識を使い回していることがとても多い。なぜなら自分の知識をアップデートしてないから。知識のアップデートなしに一生涯やっていけるわけがありません。カビの生えた陳腐な知識や考え方と縁を切る唯一の方法は勉強です。正しく言えば独学です。独学の仕方を学びましょう。
●花村太郎『知的トレーニングの技術[完全独習版]』ちくま学芸文庫、2015年。
●東郷雄二『独学の技術』ちくま新書、2002 年。
●ベネディクト・キャリー(花塚恵訳)『脳が認める勉強法:「学習の科学」が明かす驚きの真実!』ダイヤモンド社、2015年。
(8)遠くの雲のつかみ方(クラウド体験記)
 これを読んでおられるみなさんは、すでにクラウドに跳んでいます。すでにクラウドがスタンダードになっている現代、クラウドを使いながら、その効用や落とし穴を考えてみましょう。そして未来のありようを想像してみましょう。これから企業や組織で働く人には必須の知識(新しい教養)です。
●江崎浩『インターネット・バイ・デザイン:21世紀のスマートな社会・産業インフラの創造へ』東京大学出版会、2016年。
●ダナ・ボイド(野中モモ訳)『つながりっぱなしの日常を生きる:ソーシャルメディアが若者にもたらしたもの』草思社、2014年。
●イーライ・パリサー(井口耕二訳)『フィルターバブル:インターネットが隠していること』ハヤカワノンフィクション文庫(早川書房)2016年。
 以上の8つのテーマごとに新書制作チームを作ります。チームのクルーは、それぞれ3冊の本を読んで、キュレーションをして、新書形式で討論資料を作成し、それでもって他のゼミ生に説明する役割を実行します。言わば「ゼミの中のエキスパート」として振る舞って下さい。演習1で必要な本はその3冊だけですので、必ず3冊買って読んで下さい。 

09 読書の技法

 新書制作にあたっては最初に「読書の技法」について考えておく必要があります。おそらく野村ゼミで最初に「たいへんだ」と感じるのは、読書量が格段に多いことなんです。
 たとえば、半年前に卒業したゼミ生が2年だったときには、野村ゼミ名物「メガ読み」として20冊のカルチャー本を読みました。軽いものです。なんですが、みんな自分の担当した本しか読んでおらず、しかも他の人が発表した説明もほとんど聴いていないので、じっさいには全然メガ読みにはなりませんでした。つまり
・自分が発表する本しか読まない。
・他人の発表には関心がない。
・結局、ゼミでやったことを説明できない。
 だからシューカツで「大学での勉強」を問われて立ち往生した人も少なくありません。まあ、それでもみんなそれなりのところに就職していったので「結果オーライ」なんですが、せっかく私のそばにいて、全然それが生きてこないというのが、かねてからの悩みでした。
 そこそこ人気があって、他ゼミとは一桁ちがう分量のエントリーシートをこなさないと入れないゼミなのに、今ひとつゼミ生の才能を伸ばしきれないのはなぜか。それで、健康になったここ数年、一歩進めて積極的に試行錯誤をしてきたのです。すなわち
・アクティブラーニングを取り入れる。それまでの「先生を軸にした扇型の教授モデル」をやめて、チーム中心の運営に変える。うちはこれが決定的に弱い。私も弱かったので、基礎演習2年分で大幅にアップデートしました。だから34人でも大丈夫なんです。
・すべてクラウドによる作品化を導入する。フルカラー雑誌制作については、過去十年やってきました。編集はすべてゼミ生に任せましたが、表面的なデザインに気を取られるのでコンテンツに新鮮みがありませんでした。経済学部出身者は結局、文章の内容が勝負。デザインは職人さんに任せればいい。そう考えて新書を中心にした作品づくりに切り替えました。
・特定のプロダクトやサブカルチャーのケース研究をするなかで知識や創造性やスキルを学んできましたが、じっさいには表面的な現象理解でとどまってきたきらいがあります。つまり「おたくゼミ」だった。なのでジェネラルスキルをがっちり意識してから各論に跳ぶことにしました。
・情報共有の態勢を万全にする。もうLINEじゃ間に合わない。
 一貫して変わらないのは「量をこなす」ことです。これは場数を踏む必要がありますが、慣れれば誰でもなんとかなります。ポイントは
・手数(てかず)をかける。
・才能の出し惜しみをしない。
・「自分はじつは特別な人である」という幻想を捨てる。
 というわけで、全然「読書の技法」まで行きませんでしたね。勉強の仕方については、基礎演習レベルから1段上がります。次の本は、とても参考になります。どうやら今年の夏休みは涼しいようなので、この1冊を読んでおいて下さい。質問はいつでもどうぞ。
・橋本努『学問の技法』ちくま新書、2013年。

10 Stockにストックする

  1. チーム単位の打ち合わせや連絡は、チーム専用のWorkChatでおこないます。
  2. チームで決まったことはWorkplaceに投稿してゼミ生全員に情報共有します。
  3. 完成原稿はStockに投稿します。Word書類はドラッグすると、ここに収まります。
  4. 印刷用のファイルやネット公開用のファイルは、Stockに保存することにします。
ここではファイルを軸にチャットができます。主役はファイルです。完全原稿になったものをここにアーカイブ(貯蔵)します。ここがそのまま成果物の倉庫になります。
 じつはライティングツールとしても使えます。直接、自分のノートに書けばいいんです。Stockに満足できなくなったらEvernote(無料)をおすすめします。
 ゼミのStock管理は工房管理チームに権限があります。

11 野村ゼミの構造

■場所
土曜日1303教室、拠点815研究室=MesoMediaFab■2種類のチーム

運営チーム×6

新書チーム×8
■6つのクラウドサービス
Workplace by Facebook(タイムライン、プロセス管理)
Toppan Editorial Navi(編集システム)
Stock(アーカイブ、タスク管理、文書中心チャット)
G-Suite(Chromeによるセキュリティ管理)
プリスタ(名刺制作)
MEME PAPER(リーフレット制作)
■協力企業
凸版印刷株式会社
Google
LinkLive Inc.
■経費支援
國學院大學特別推進研究助成金
管理 研究開発推進機構事務課(AMC5F)
■アドバイザリーチーム
美奈子Breadsmith様(from Crossmedia Inc.)
野村ゼミOBOG有志
野村ゼミ12期生(4年生)有志

12 KGI.TOKYOアカウント一覧

グーグル上にある@kgi.tokyoのアットマークの前を決めました。これでStockに登録します。このアカウントは自由に使って下さい。グーグルの有料ビジネス用と同じ仕様です。審査を受けてアカデミックとして無料で運営しています。ふだんは工房管理チームが管理しています。サイト全体は野村が管理しています。ただしサーバー管理者ではないので、メールの内容などを見ることはできません。できるのはアカウントの登録や削除などです。
名前は省略

テーゼ集テンプレ

自らの強みに集中する
不得手なことの改善にあまり時間を使ってはならない。自らの強みに集中すべきである。
ドラッカー(1999=1999: 199)
解説
 ドラッカー晩年の著作の一節。ドラッカーは「マネジメント」の重要性を発見した人だが、たんに経営者哲学にとどまらず、組織の中で働く人の生き方についても多くの指南を与えている。漠然とした人生論ではない。組織に置かれた人への具体的なアドバイスである。
 このテーゼは、近年よく言われることの真逆である。「不得意なところをなくしなさい」というのが普通であろう。ドラッガーは、そんなことに労力をさいていたら、いくらがんばっても並のレベルにしかならないとし、それよりも得意分野を徹底的に伸ばした方が楽だし、組織への貢献になると言うのである。
 では「自分の強み」とは何だろう。ドラッカーは別のところで、案外、人は自分の強みをわかっていないというようなことを書いている。
論点
(1)不得意科目を捨てるのは得意だ。すでにやっていることかもしれない。そういうことと何が違うのか。
(2)不得手なことを改善しないと、のちのちトラブルになるんじゃないのか。
(3)不得手なことは、ほっといてもやらないから、別にドラッカーに言われなくてもわかる。でも、そういうことではないの?
(4)自分の強みって、自分ですぐにわかるものだろうか。他人に聴いた方がわかるかも。
(5)勉強の場合だと、どういうことになるの? 就職のときはどうなの?
コメント
 不得意なことを改善しないとダメ人間になってしまうように思いがちだが、組織の中では全部やらなくてもいい。不得意なことをやってくれる相棒とチームを組めばいいんじゃないか。その相棒が不得意なことを自分が得意であれば、きっとうまく行く。だから何かしらの強みをしっかり伸ばしておくことが大事なんだと思う。(野村一夫)
参考文献
P.F. ドラッガー『明日を支配するもの』(上田惇生訳)ダイヤモンド社、1999年。
P.F. ドラッカー『[英和対訳]決定版ドラッカー名言集』(上田惇生編訳)ダイヤモンド社、2010年。

執筆メモのテンプレ

基本的には「テンプレの解説」に沿って、メモしていきます。直接、Stockに「テンプレの解説」全文をコピペして、それに沿ってメモして下さい。字数は意識しなくてもいいです。
●タイトルはワンフレーズで。キャッチコピーと同じ。ただしウソはつかない。
キャッチコピーと同じなので、1つとは言わず複数考えて、チームで揉んでもらうのがベスト。
 テーゼの一部分を抜き出してもよい。
●テーゼ(引用文)は短めに。これも引用しようと思った個所が長いので半分を削除した。削除した部分は「解説」で補えばよい。
正確に引用すること。チームでチェックすると良い
●引用個所の文献注を必ず付ける。著者名+全角カッコ+原著刊行年+イコール+訳書刊行年+半角コロン+半角アキ+ページ+全角カッコ閉じ
 執筆メモの段階で、ここは確定。
●解説は、文脈を軽く説明して、引用部分を取り上げた理由を説明する。取り上げた理由は主観的なものなのでよい。改行は2つか3つ。
テーゼの周辺を眺めて、文脈を思い出す。そのテーゼが含まれている小見出しを参照する。
●論点は全角カッコの中に全角数字を入れて箇条書きにする。このテンプレのように細かく5つまで提示する方法でもよいし、2つぐらいに絞って「ああでもない、こうでもない」と論じてもよい。
少なくとも2つぐらいは持参して、あとはチームで出た意見などをメモしておく。す
●コメントは主観的でよいし、チームでの議論を反映させてもよい。感想ではなく「こう考えてみた」風がよい。好きか嫌いかはどうでもいいじゃん。
コメントが担当者の見解を自由に表現できるコーナーになる。何を書いてもいいが「ふざけ」だるけはダメ。ユーモア表現はオーケー。「ふざけ」は内輪受けなので、内輪でない人からは「ばか」にしか見えないから。
●参考文献の書式をマネしてほしい。
各チーム3冊だけなので、コピペすればよい。
●最後に担当者の名前を書く。実名のみ。しかるべきシーンで「ほう、君はどこを書いているの?」と言われたときに、実名でないと意味がない。難読の名前の場合は「担当 野村一夫(のむらかずお)」と書く。「れいな」か「れな」か、読者にちゃんと意識させよう。

編集画面とプレビュー

編集画面.png

 

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3月 62018

ガーリー総論

野村一夫の社会研究メモ
2016-01-15
ガーリー総論:社会の重力に逆らう文化的覚醒に関する予備的考察(野村一夫)
初出
女子経済学入門

ガーリーカルチャー研究リポート
編者 野村一夫
著者 国学院大学経済学部経済ネットワーキング学科1年2組全員・2015年度・基礎演習B
f:id:nomurakazuo:20160115135715j:plain
ネット1年2組・基礎演習B最終課題
12月16日提示
冊子「女子経済学」プロジェクト
ガーリー・カルチャーの歴史・現在・可能性
未踏の領域を開拓しよう。
クラウド出版システム利用(新書サイズ)けっこう画期的!
課題 選択した文献・資料について、論点をまとめる形で解説し、そこから想像できる近未来のシナリオを提示せよ。A4で本文1枚以上10枚まで。写真は貸与された文献・資料の写真をふくめて3点まで。必ず自分で付けた見出しタイトルと自分の名前から始めて、最後に文献・資料のデータ詳細を正確に書いておくこと。図表などを入れたいときはスマホで写真を撮って画像データ(JPG)にすること。ネットから画像をパクることは厳禁。
2016年1月10日締切
すぐに編集開始
1月13日 クラスでゲラ最終校正のちトッパンによる微調整。即日、印刷工程へ。
1月20日 新書形式で出来。関係者に配布。非売品。
学生27人が参考文献のレビューを担当し、そののちに私によるまとめとして、つまり授業内企画の一環として、書き下ろしたものである。

ガーリー総論

社会の重力に逆らう文化的覚醒に関する予備的考察

野村一夫(国学院大学経済学部教授・社会学者)
 基礎演習Bの最終テーマは「女子経済学入門──ガーリーカルチャー研究リポート」である。なぜ「ガーリー」なのかというと、現代日本の経済・社会・文化において際だった創造的なカテゴリーだと感じるからである。とりわけポピュラーカルチャーとサブカルチャーの領域においては、ある種の美意識が駆動力になっており、それはたんに「女性性」には還元できない何か独特のチカラであると感じる。それが「ガーリー」である。従来は「カワイイ」として括られてきたが、この十年間に「女子」という言葉が急速に浮上するようになり、それとともに「ガーリー」領域の輪郭も見えてきたと感じる。
 その私の直感に沿って歴代の野村ゼミ(メディア文化論)では多くのケース研究をしてきた。今回は、そのために集めてきた文献を中心に一気にクラスで手分けして書いてみようという試みである。
 このような文化領域研究に関して思いいたるのは「まず言い当てる」ことがとても重要だということだ。それは学者ではなく評論家や編集者や広告代理店だったりする。アカデミズム的にはあまり尊重されているとは言えないが、この人たちが「まず言い当てる」ことからすべては始まる。「まず言い当てる」とは「名づける」ということだ。だから、ここから議論は始まるのであり、そのような文献を片っ端から読んでいくことが必要なのである。
●少女マンガからL文学へ
 そもそもガーリーなるものが明確に造形されたのは一九七〇年前後に大きく開花した少女マンガというジャンルである。もちろんこれは一気に花開いたわけではなく前史があって、それは戦前の吉屋信子の少女小説であったり、『赤毛のアン』であったり、手塚治虫の「リボンの騎士」であったり、その手塚に大きな影響を与えた宝塚歌劇団であったりする。これらは「少女」と括られる存在に焦点が当てられていた。「大人として成熟しない女子」それを巨大なジャンルとして確立したのが少女マンガであった。
 一九七〇年代の少女マンガに関しては、すでに古典的価値が認められており、多くの評論も出ている。なかでも初期の肯定的評価として代表的なものは、橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(北宋社、一九七九年)である。この本は今は河出文庫版で読める。この本で論じられている作家は、倉田江美、萩尾望都、大宅ちき、山岸凉子、江口寿史、鴨川つばめ、陸奥A子、土田よしこ、吾妻ひでお、大島弓子である。彼女たちが描いた「純粋少女」の多彩な諸領域は、当時の女子だけでなく、男子たちをも魅了した。私も多くの作品を同時代に読んでいる。高校時代にツェッペリンやプログレに凝っていた男子が大学生になって少女マンガを読んだりアイドルに熱を入れたりしていたのである。そこに何か新しい美意識を感じていたと思う。
 このジャンルが再発見した「純粋少女」の世界は、のちに多産なコバルト文庫を生み出し、広範な文化領域に育つ。たとえば吉本ばななの文学的出発点は大島弓子の少女マンガである。それが九〇年代にはすっかりメインストリームになって、江國香織、角田光代、川上弘美、小池真理子、唯川恵たちのいわゆる「L文学」となる(齋藤美奈子編著『L文学完全読本』マガジンハウス、二〇〇二年)。彼女たちは、たんに女子世界の機微を描くエンターテイメントを提示しただけでなく、高い文学性も獲得していく。おそらく、それらは男性中心(マッチョであれ病み系であれ)の近代日本文学では語り得なかった領域だったのだと思う。
●ファッション
 女子ファッションの世界も一九七〇年代に自律的領域に高次化する。既製服の時代は六〇年代からで、それが主流になるのが七〇年代である。この先頭世代は「アンアン」と「ノンノ」に始まる新タイプの女性ファッション誌の編集者・モデル・読者であり、ショップの店員であった。この世代の代表として私と同い年(還暦!)のモデル・久保京子のケースを見てみよう。久保京子『わたしたちは、こんな服を着てきた』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、二〇一五年)によると、ヘップバーンのサーキュラースカート、ツイッギーのミニスカート、パンタロン、ベルボトムジーンズは六〇年代。ストレートヘア、マキシスカート、メイクとネイル、Tシャツ、トレンチコート、そしてDCブランドが七〇年代。何でもかんでも肩パッドの八〇年代、バブル末期のボディコン、本物志向の上質なリアルクローズの九〇年代、そして二一世紀のファストファッション。
 この流れは、今から見ると、ほぼリアルクローズの領域である。なぜなら、それらはちょっとムリすれば買えるものであり、ファッション誌は半ばカタログとして商品がどこにありいくらであるかを表示していたのであるから。もちろんグレードの差はあるにしても、である。とりわけ「ヴァンサンカン」とその姉妹紙「ヴァンテーヌ」は長く高級路線を貫き、とくに後者は高度なファッション・リテラシーの教科書的存在となった。
 メンズの窮屈な「定番志向」に対するレディースの軽やかな「トレンド志向」の構図は、約半世紀続いてきた。いつも新しい流れは女子が作ってきたのである。デザインやビジネスは男性たちが働いていたことはたしかだが、それを競争的に受容してきた女子層の分厚い消費者が文化的な感受能力を発揮してアパレル経済圏を支えてきたのだ。
 その中でさまざまなスタイルが分岐している。この厚みの中だからこそ、その内部で差異化戦略が作動して、多様なテイストが成長していると考えていいと思う。
 その中で注目したいテイストこそ「ガーリー」テイストなのである。広域渋谷圏において特定すれば、おそらく原宿あたりが発信地。代官山や青山や表参道のような「大人」テイストに対して、カラフルで装飾過剰で軽みのある脱デザイン理論的なファッションがその特徴である。代表的存在が増田セバスチャンの世界であり、それを体現している「きゃりーぱみゅぱみゅ」である(増田セバスチャンのサイトはhttp://m-sebas.asobisystem.com/およびhttps://twitter.com/sebastea)。
 かれらの世界はとても洗練されているが、それでも「ぎりぎりセーフ」感はある。じつは「ぎりぎりアウト」でもちっともかまわないのだ。このガーリーテイストには、それを実践する人たちに創作(あるいは二次創作)の余地があるのだ。大人の女性としてふさわしい「上質な無地のファッションにアクセサリー1点」なんてルールに縛られるのを拒否しているのはあきらかで、「下妻物語」の深キョンのゴスロリとまったく同質なのである。自分の工夫で何を足してもかまわない。大人の引き算をしないのだ。いわゆる「ひらひら、ふわふわ」ひたすら足し算を生きる。私はそこにガーリーファッションの「抵抗の哲学」を読み取る。
●アイドルグループ
 そうした先鋭的表現がリアルクローズ化したのが、二〇〇五年以降のアイドルグループだと私は位置づけたい。リアルクローズ化ということは、つまり身近でガーリーな「ロールモデル」になっているということである。
 女子高生風の制服集団がロールモデルになり得るだろうか。エロを求めるオタク男子に差し出されたカワイイ生け贄たちなのだろうか。そういう疑問はありうる。
 しかし、それはちがうと思う。なるほど地下アイドルやキャバクラ嬢や夜の街をさまようJKたちは、かなりかわいそうな生け贄状況を生きていて「なんとかならんか」と思うが、私たちが知っているメジャーなアイドルたちは、その中の勝者である。それゆえ「ロールモデル」になっていると思う。
 AKBは女子の生き方の典型的なロールモデルである。チアガールか体育会系の「勝利を信じて全力でことにあたる」生き方を体現している。「どんな条件でも、自分たちでなんとかする」というのが重要なポイントであって、ステージ上にはハプニングがいつも用意されていて、いかにそれを乗り越えるかが「隠れたカリキュラム」になっている。前向きな(前のめりな)努力の結果としての女子像がここで提示されている。
 それに対して乃木坂は、後発な分、よく考えられていて、ガーリー特有の線の細さに特化しているように見える。少女マンガのように、いつも繊細な女子像である。それは乃木坂のCDの付録映像に典型的に表現されている。ちなみに、ここは映像作家たちの実験場になっていて、これを見るためには三つのタイプを購入しなければならないのがやっかいだが、古いものはYouTubeにたくさんある。私は「乃木坂浪漫」シリーズですっかり感心してしまった。これは太宰治あたりまでの近代文学の朗読シリーズである。これらの作品群については『乃木坂46 映像の世界』(MdN EXTRA Vol.3、二〇一五年)を参照してほしい。
 ちがいはたくさんあるが、しかし、両者に共通なのは、多彩なロールモデル、チームワーク、ドキュメント性である。それは徹頭徹尾ガーリーな物語で、彼女たちのドキュメンタリー映画や裏トークなどは必然なのである。たとえば公式インタビューを参照してほしい。週刊朝日編集部編『あなたがいてくれたから』(朝日新聞出版、二〇一三年)と篠本634『乃木坂46物語』(集英社、二〇一五年)。ここには、ほとんど男子は出てこない。男子はファンたちと裏方さん(プロデューサーもマネジメントも職人さんも)である。
 あと、両方に共通しているのは、地方の女子校のノスタルジックなイメージが再現され続けているということである。全国展開するためのしたたかな戦略ではあるにしても、それが「ご当地アイドル」に直結していることは「あまちゃん」で、すでにはっきりしている。そして女子校。女子だけの世界であれば、かえって多彩な女子像が描ける。
 また、アイドルではないが、オシャレな女子に人気があるのがE-girlsである。こちらはプロフェッショナルなエンタティナー路線。総じて明るいガーリーテイストだが、E-girlsを構成するFlowerというグループは、もっぱら切ないガーリーテイストであって、女子に人気がある。ガーリーなロールモデルも分岐しているということである。この多彩さにも注目しておきたい。さらに東京ガールズ・コレクションでランウェイを歩くようなガーリーなモデルたちも、もっぱら女子たちに人気のロールモデルである。近年、彼女たちのファッションブックが相次いで出版されていて、それらは「こうなるためのマニュアル公開」のようである。
 視点を変えて労働経済学・労働社会学的に着目しておきたいのが、表現系若年女子労働の問題である。ガーリー領域の担い手たちは、そもそもデビュー自体が難関であり、活動できるようになっても激しい競争構造に放り込まれる。人気が出ても浮き沈みがあり、たとえばAKBでは「組閣」と呼ばれる人事異動が頻繁にある。しかも若いメンバーの大量加入によって、トップランクのメンバーも追い詰められている。表現系ゆえに個性の強い女子が集まるから衝突もあり得る。たとえば「ももクロ」の歴史はそういう葛藤の歴史であったりする。
●こじれた女子
 ガーリーなイマドキ少女マンガはないかと探して読んでみたのが『楽園』という季刊誌だった。白泉社なので王道だと踏んだ。とりわけ表紙を担当しているシノザワカヤの作品を読んでみると、言葉が多層的であるのに驚く。だいたい四層構造である。
(1)発話されたはずの吹き出しの言葉
(2)それに対する自分ツッコミの内声の言葉
(3)絵柄に埋め込まれた状況提示(空気感)の言葉
(4)作者が代理している神様か天の声のような倫理的な言葉
 この四層構造の中で主人公は立ちすくんで身動きできないでいる。これを「こじれた女子」と呼んでいいと思う。
 近年注目されているルミネのポスターが提示するのも、「こじれた女子」を抱えながらも突破口を探す、なんとも健気な女子像である。最近、若干の事故も生じたが、それも「こじれ」を表現するための伏線にすぎない。Pinterestでポスターをコレクションしてみたら、なかなかな味わい深いコンテンツである(https://www.pinterest.com/sociorium/)。
 すでにどこかで指摘されていると思うが、ルミネ的コピーの流れを作ったのは雑誌『オリーブ』だと思う。廃刊されて久しい雑誌だが、近年のガーリーカルチャーのめざましい展開において改めて源流のひとつとして注目を浴びており、二〇一五年に『GINZA』の別冊として一号限りの復刊とそれに関するボックスセットが出ている。セットにある『Messages from OLIVE』は特集や写真に添えられたコピーを集めた本である。これを読むと、ルミネ的「こじれた女子」世界は『オリーブ』の延長線上にあることが明確である。
『オリーブ』の世界観については、酒井順子の『オリーブの罠』(講談社、二〇一四年)が圧倒的な深さで論じている。酒井自身が『オリーブ』の愛読者であり高校時代からの執筆者であった。最初に確認しておきたいことは『オリーブ』自体は、それほどこじれてはいないということだ。ただ、ふたつの世界観をミックスしていたことが、のちのち読者に試練をもたらすことになる。それは「リセエンヌカルチャー」と「付属校カルチャー」である。どちらも都会のあか抜けた少女たちの世界であるが、前者は「おしゃれ至上主義、文化系、非モテ非エロ」であり、後者は「モテ至上主義、スポーツ系、おしゃれはママ譲りで実はコンサバ」という生き方である(一〇七ページ)。ヤンキー的・ギャル的な世界とは相容れない点で共通しているので『オリーブ』はそういう敵に対して上手に二つの世界観を同居させていた。「異性の視線ばかり意識した、モテのためのファッションなんてつまらない。自分のために、自分の着たい服を着ようよ!」(一二八ページ)という強いメッセージこそが重要だったからである。少女というキャンバスにおいてモードなファッションの意味合いは「濃縮される」ことになった。
 問題なのは、モテ系ファッション誌は人生の各段階で卒業できる仕掛けがあるが、自分のためのおしゃれ一筋というオリーブ的生き方には「卒業」がないことだ。つまり、ここからこじれるのだ。その結果、大人になってしまったオリーブ少女たちは晩期『オリーブ』のナチュラル志向に居場所を見いだす。無印良品、ナチュラル志向、生成り、無地、シンプルライフなど、さまざまな意匠に「オシャレのその後」を託したのである。
 酒井順子の解釈はここまでである。これをヒントにここ十年ほどのガーリーカルチャーを眺めてみると、『オリーブ』における「異性を意識しない独自のオシャレ世界観」は、世代を超えて生き延びていると思うのである。ところが、案の定、リアル世界の異性が女子に求めるものとは齟齬が生じる。「ベレー帽にロイド眼鏡で、『ブルーマンデー』をぶっ飛ばせ!」(『Messages from OLIVE』マガジンハウス、二〇一五年、三三ページ)なんである。こうしてオリーブ少女の一部はこじれていく。
 心情的な歌詞が訴求力をもったJポップには、こうした「こじれた女子」が満載である。メンタリティとしては中島みゆきが先頭にいたと思うが、中島美嘉は典型だと思う。オシャレで、病んでいて、こじれている。最近は「病み系女子」という言葉も流通している。彼女たちを救うのは、いったい何者だろうか。
●大人女子
 ガーリーは美意識である。ヤンキーやギャルたちとちがって、若いときにオシャレで洗練されたガーリーカルチャーの洗礼を受けて自分の世界観を構築してきた人が、仕事・結婚・出産・子育て・介護などを機にポンッと「卒業」するのは難しい。美意識というものは、それほど脆弱なものではないような気がする。オリーブ少女の場合、その克服の仕方のひとつがナチュラル系に収まるというライフスタイルだったが、それとは別のソリューションがロールモデルとして相次いで提案されている。
 言うまでもない、そのキーワードは「女子」である。「女性」ではなく「女子」を使用するとき、それは隠微な性的世界観からの離脱を宣言している。その跳躍台は「自分のためのオシャレ」という概念である。
 代表的ロールモデルは蜷川実花である。カラフルでガーリーな世界観を徹底的に追求する彼女の作品は、その実生活とともに高い支持を得ている。『オラオラ女子論』(祥伝社、二〇一二年)はその宣言書だと思う。
 そういうガーリー志向の大人女子の「言い分」をよく表現しているのは、先ほどのエッセイスト酒井順子と、『貴様、いつまで女子でいるつもりだ問題』を書いたジェーン・スーであろう。ちなみに後者の「貴様」とは四〇代になった自分のことである(幻冬舎、二〇一四年)。
 大人女子という言い方は、いろいろ波乱含みである。しかし、ここを押さえないとガーリー領域がたんなる極東の一時的なサブカルチャーとしてしか認識できないだろう。もちろん、そんなことはないのである。
 ここで片づけコンサルタント近藤麻理恵にふれておこう。キーワードは「ときめき」である。片づけと言っても捨てることではない。「ときめき」を感じるモノだけに囲まれて生きていこうという提案である。しばしば「断捨離」と混同されるが、決定的にベクトルが反対を向いている。彼女は、たんなる引き算を拒否するのである。これが世界中の大人女子に支持される理由である。世界で三百万部の本を売り上げ、『タイム』の「世界で最も影響力のある百人」に選ばれたのは偶然ではない。ときめくモノだけに囲まれて生きていくという文化的決意なんだと思う。経済学者はこの広大なガーリー領域に気づくべきであり、社会学者はそこに自己啓発的な愚かさを見るのではなく、ひとつの巨大な文化的覚醒を見いだすべきだと思う。
 カワイイカルチャーは低年齢の女の子を志向している。それは幼稚化とも言える。それに対してガーリーカルチャーは必ずしも幼稚化ではないのだ。手元にある月刊誌『LARME』(〇一八号、徳間書店、二〇一五年)の背表紙にはこう書いてある。「私たちは女の子として戦っていく」と。表紙にはSWEET GIRLY ARTBOOKと表示しているこの雑誌の基調は、徹底した美意識のありようの宣言のようである。これにはきっと続きがあるにちがいない。ガーリーテイストを貫く大人女子たちが一斉に街に出る日がきっと来る。
●ガーリーな男子
 昨今、男子もガーリー化している。
 たとえば手元にある『POPEYE』最新号の特集は「Thank you, Olive! もっとデートをしよう。そして彼女を笑顔にしよう。」である(二〇一六年一月号)。デートの仕方を伝授するのはポパイのお家芸だが、今回ここで教授されるのは「男子が女子の文化領域に積極的に入っていこう」というメッセージである。「俺についてこい」でもなく「君が行きたいところに行こう」でもなく、「自発的にガーリーな文化領域に習熟して、積極的にガーリー領域をいっしょに楽しもう」ということである。これは価値観と美意識を共有するということである。ムリにではない。自然に、である。体育会系やビジネスマン系の文化からは離脱して、ガーリー領域に居場所をみつけた男子たちである。ガーリーの方が俄然おもしろいと感じる男子たちだ。
 これには教員としていろいろ思い当たることがある。ちなみに今一番モテる男子は、こういうガーリーな男子である。その他の男子諸君は気がついているだろうか。
 たとえば、アイドルのところではふれなかったが、アイドルのオタクな男子ファンは、じつはかなりガーリーな人たちなのである。いわゆる肉食系ではない。アイドルとかれらのあいだには異性への恋愛感情もあるけれども、むしろ女子同士の友情的な感情に近いものが存在している。かつてのアイドルファンと言えば、たとえば大場久美子のコンサートなんか、強引にステージに上がって抱きつこうする男子がたくさんいて、ボディガードが次々にそういうファンを突き飛ばしている渦中で歌っていたりするのである。ちがうのは後期の山口百恵ファンだけで、そこは例外的に圧倒的に女子が多かったが、それは今のアイドルファン女子に通じるものがあった。「女子が女子に憧れる」そこらあたりを理解しないとアイドル現象はわからない。
 さて、ガーリー化する男子は、たいていファッションから入る。いわゆるオネエキャラの芸能人もたいていファションから入っているし、今もずっとオシャレであろうとしている。ごく一時期に使われた「メトロセクシュアル」がそれに相当する(マイケル・フロッカー『メトロセクシュアル』ソフトバンククリエイティブ、二〇〇四年)。
 これとはまったく別系統だが、いわゆるハードロックの人たちも同じで、レッド・ツェッペリン時代のジミー・ページなんか女の子みたいだった。ロック系には、今でもそういう美意識が連綿と引き継がれている。ヘヴィメタルがそうである。歴史的には「ピーコック世代」と呼ばれたこともある。スーツにネクタイという大人のスタイルに対する抵抗表現であった。ただし革ジャンのパンク系とは異なる系譜である。
 この文脈を広げて概観してみるとトランスジェンダーの領域が視野に入る。最近では安富歩・東大教授の例が注目を浴びた。かれ(あゆむ)は満州国の研究でデビューした経済学者で、その後、オルタナな経済学の可能性を追求する著作をたくさん出していたが、9.11のあとの原発に関する専門家たちの説明に対して『原発危機と東大話法』(明石書店、二〇一二年)を書き、広く注目された研究者である。その先生が、突然、女子化したのである(あゆみ!)。最新刊の『ありのままに』を読むと、その経緯が詳しく書かれている(ぴあ、二〇一五年)。前半を一言で言うと「女子の文化の方がリッチだ」ということになると思う。ただし、この先生にはそれなりの深い心理的葛藤があって、後半はそっちに主題が移るが、トランスジェンダーを「性同一性障害」という「病気」にしてしまうことには反対している。この本によるとマツコデラックスの番組にも出ているそうなので、もう怖いものなしである。おそらくこういう人がほんとうの「新人類」(死語だが)なのだと思う。
 ここで確認しておきたいのは、ガーリーというのは性的嗜好のレイヤーではないということだ。オッサンのみならずマッチョな若者もオバサンたちも田舎の人たちも、総じて低感度の人たちが取りがちなオッサン目線だと「エロ」で括ってしまうことが多いと思うが、ガーリー領域に居場所を見つけた人たちは、あまり性的嗜好のレイヤーでは物事を捉えていない。そういう「エロ」目線の居場所である大人の俗物的な領域こそが唾棄すべきものなのだ。ここは「聖域」なのだ。「神性の宿る場所」なのである。この点に誰よりも早く気づいて膨大な議論を展開したのが大塚英志だった。かれの『少女民俗学──世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」』(光文社、一九八九年)はその記念碑的著作である。すでにタイトルに大塚の主張が集約されている。「神話」を「物語」に入れ替えれば、もっと正確になる。かれの言うように「少女」は「聖と俗」構図に当てはめれば「聖」の領域なのである。「聖なるもの」に志向した文化領域なのである。そこでのみ感じることができる物語の舞台を自分の居場所として感じる想像力がなければ成立しないのだ。
●ガーリー領域の六次元
 最後に議論を整理しよう。ガーリー領域とはいかなるものか。
 理屈はカラオケに似ている。カラオケは日本発の世界的発明(ジョウ・シュン、フランチェスカ・タロット『カラオケ化する世界』青土社、二〇〇七年)。日本から世界に拡散したカラオケ文化をヒントにして、ここはひとつポジティブに考えてみよう。ちなみにネガティブな姿勢だと「そもそも論じるに値しない」と決めつけてスルーしまうことになるので、ちっとも展開力のある議論にならない。そういうことは、既成概念を食べて生きている優等生やエリートたち、そして若くしてすでにレガシーな大人たちに任せておけばよい。私たちは先に一歩踏み込んで叩き台になろう。
 これまでのざっくりした議論から、おおよその目安を付けて、これから(少なくとも野村ゼミと基礎演習で続くであろう)議論のスタートラインとしたい。ガーリー領域の基本特性を整理しよう。
(1)加算性、バロック、装置または装備、軍服と制服
(2)親密性、舞台仲間、楽園
(3)自分に萌える、自分物語の構築、外からの視線を拒否する、世間の空気を読まない
(4)非モテ、トランスジェンダー志向、女子目線の美、オッサン目線だとエロになる、ロマンチックラブ・イデオロギーに対する抵抗
(5)二次創作あるいはミメーシスの連鎖
(6)世界性、世界制覇、グローバリズムを変形する、ローカルな創造的変形
 以上をもって「ガーリー領域の六次元」と呼ぶことにする。「次元」ということは座標軸ということである。座標軸においてプラスとして捉えることにする。となるとマイナスのことも考えなければならない。かんたんに解説しておこう。以下の六つの説明を「ガーリー領域の六つのテーゼ」と呼ぶことにする。
(1)ガーリー領域のスタートラインは制服であり、その源流は軍服である。セーラー服はもともと海軍の制服である。あるいは通学中のリセエンヌたちの服装である。あるいは西欧の上流階級における少女たちのドレスである。いずれにしても性的領域ではないことは強調しておきたい。そうした定型的なファッションにひたすら加算するというチカラが働いている。何を足すかは学校や親ではなく本人たちの自由である。したがって、しばしばそれは無秩序で過剰になる。つまりバロック化する。ガーリー領域は「大人の引き算」をしない。その点で「大人のシック領域」とは正反対である。これがしばしば大人目線からの非難を招く。なぜなら「大人のシック領域」は世間からの保守的・道徳的視線に対する自己検閲であるから、一種のやせ我慢であり抑圧だから、それに従順な人たちには「ガーリー領域」は許しがたいのである。
(2)ガーリー領域には、あいまいな「世間」という概念がない。しばしば衝突が生じるが、それに対しては抵抗する。この抵抗は美学的なものである。その美意識を共有する人たちが準拠集団になる。親密性が頼りであり、舞台仲間のような人たちである。そういう人たちで完結できればガーリー領域は相互理解可能で自由な楽園である。
(3)ガーリー領域における焦点は常に自分自身である。「自分に萌える自分」(米澤泉『私に萌える女たち』講談社、二〇一〇年)が最大関心事である。自分の物語は自分で構築するという姿勢があって、その分、外部からの視線を拒否する。既成の保守的な世間の空気は読まない。
(4)ガーリー領域は、異性にモテることやセックスをすること、つまり「性欲領域」は志向しない。お互いが天使のようなトランスジェンダー的存在であろうとする。女子アイドルグループや女子校に典型的に見られるように、女子だけの組織や集団のときほど、そういう傾向が強い。競争的に美意識を先鋭化させるからである。「性欲領域」は忌避されるから「友情」の方に価値がある。そもそも「異性愛」と「友情」は次元がちがう。両方を満たす行為はあるが、ガーリー領域を逸脱することになる。これを「卒業」と呼ぶ。しかし「卒業」は「終わり」ではない。一時的な離脱なので許容できる。近年注目されるのは、「卒業」ののちに「復帰」する人が増加しているということである。
(5)ガーリー領域は加算性の文化なので、何でもありである。しかし、まったくの創造がなされるのではなく、既成のアイテムを引用したコラージュでありブリコラージュである。一種の二次創作だと理解すべきである。オリジナルのアイテムの世界観を借用して、過剰に模倣する「ミメーシスの連鎖」としての文化なのである。流行ではないのだ。
(6)ガーリー領域は現在は狭小な恵まれた平和秩序のある社会においてのみ存立する。他方、その他の広い世界において女性は抑圧され、性に拘束され、しばしば直接的暴力と構造的の犠牲になっている。逃げ場のない女性も多い。それに較べるとガーリー領域を宣揚することは不謹慎であり政治的に正しくないと言われそうである。けれども、それと同時に代替案を提示することも必要な政治的・社会的・経済的・文化的・性的課題なのである。
 男性も「男らしさ」の拘束に身動きできない人が多い。じつはゲームやコミックや地下アイドルにどっぷり浸かっている「オタク領域」も近いところにいるのである。リアルな女性とのコミュニケーションに気遣いして疲れるのでは社会生活を送れないことはたしかであるにしても、男らしさ満載のマッチョや、二四時間戦えるかを問われるようなビジネスエリートとは理想を共有できない人たちも多いはずなのだ。
 その意味でガーリー領域は世界性をもつ。グローバリズムの名の下に多様な生き方を許容しない生活を「変形させる」チカラがあるのではないか。何か社会が分岐点に至ったときに人びとが「あっちに行きたい」と思うような魅力的な物語世界が必要なのである。ガーリー領域にはそういう磁力があると思うのだ。
●女子経済学の誕生?
 一応ハテナをつけておいた。経済学部なので、とりあえず経済学としてみたのだが、この場合の経済学は、包括的な意味での「経済」(たとえばポランニーが議論したような)の研究のことである。本学経済学部経済ネットワーキング学科はそもそもこちらの経済概念に準拠している。そう考えれば「女子経済学」でいいのだ。
 このガーリーテイストな経済は、かなりジャパネスクなところがあると同時に、地球的な広がりも持っている。ただ日本においてのみ先に開花しただけであって、他の地域でそうならないのは女子たちが厳しい抑圧状況に置かれ続けているからにすぎない。真っ黒なブルカやニカブの裏地はガーリーに彩られているはずなのだ。日本発のガーリーカルチャーには、そういう裏地を表にする潜在力があると思う。このさい私たちは、美意識こそ人間の経済生活において大きな力を持ちうることを認識する必要がある。たんに所得の高さだけが消費を生むのではないのだ。そして、そういう文化を人びとが求めること自体が平和を維持する力のひとつになると思ってみたりする。たとえば、そのティッピングポインを東京オリンピックで作れないか。とんでもなくガーリーな東京オリンピック・パラリンピックだ。
 というわけで、われらが共同作品『女子経済学入門』の「ガーリー総論」としよう。
 各論を担当してくれたクラスのメンバーは、ほとんど十代である。メンバーにとっては、とっくに「歴史」になっている現象も多いと思う。それを「遅れてきた人」の視点から見るとどうなるかを読んでほしい。
 今回は日程的にとてもタイトだった。説明は一回だけ。冬休みにその課題をこなして休み明けにメール添付で提出してもらって、年明け最初の授業で校正して、その次の最終回で新書として配布するという荒技である。とっくに大人になってしまった人が見れば、この文章がもつ「いまさら感」は、こういう類いのことを初めて考える大学一年生たちのためのヒントになるように即興的に書いた導入的文章だからである。短いヴァージョンを正月二日に書いてみんなに提示して参考にしてもらった。そのあと加筆したのが、この文章である。正解のない文化的世界への招待状とならんことを願う。(二〇一六年一月二日の書き初め。最終稿は一月九日)

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8月 182017

社会学の終わりとジンメル的エートス(2004年)

2004年9月25日 高野山カンファレンス
デュルケーム=ジンメル合同研究会報告書
社会学の終わりとジンメル的エートス
 ——ディシプリン的知識空間をめぐって——
             野村一夫(国学院大学)
■1 はじめに
 今回のカンファレンスでは非常に大きな問題設定がなされている。それに見合う大味な話をしなければならないだろうと受け止めて、テーマを決めようと思った。そこで思い浮かんだフレーズが「社会学の終わり」というものだった。社会学が「近代の自己意識」であるとすると、「ポスト近代の自己意識」として「ポスト社会学」というものが語りうるかもしれない。あるいは「ポスト社会学」としての新しい社会学像(それはもはや社会学ではないかもしれないが)を思い描くことができるかもしれない。
 じつは2003年に書いた社会学入門書の末尾を私は「社会学の終わり」について語ることで締めた。たかが入門書であるとは言っても、社会学がどうなっているのかという問題は、まさにこういうところでこそ問題になるものだ。つまり、教え、教育する場面、つまりディシプリン的知識空間においてこそ、言及を迫られるものなのである。だからこそ、教科書問題や社会学教育を論じることは、とても重要であると私は思っている(野村 2003)。そこで今回はこれについて語りなおしてみたいと思う。
 他方、ジンメルは「社会学の始まり」をめぐって言及されるのが普通のことになっている。だが、「社会学の終わり」について言及されることはまずなかったと思う。もちろん社会学史的には「始まり」が大事なのだが、21世紀的現実を目の当たりにしている現在、社会学というディシプリンの限界地点を見通してみるということも必要ではないだろうか。そしてジンメルの仕事がそのさいの導きの糸になりうるものなのかどうか、検討してみたい。
■2 ディシプリン的知識空間
 経済学部にいて感じるのは、通常科学(ノーマル・サイエンス)というものは、じつに確実に、そして保守的に再生産されるものだということだ。古い理論が生き残っていたり、学風の世代間格差があって、多少の付加要素やはやり廃りはあるものの、教育されるものとしてのディシプリンは基本的に自明視されている。何が中心で何が周辺なのかも、かなりはっきりしている。何よりも、経済学者たちは経済学そのものを疑ってはいない。その確信こそが知的エネルギーを再生産しているように見える。
 それにくらべると社会学のディシプリンはどうだろうか。
 理論的には、1960年代に始まる多元的パラダイムの競合状態はまだ続いている。それどころか、当初はそれほど大きなものとは認識されなかったものの、しだいに影響力をもつようになったカルチュラル・スタディーズや社会構築主義も参入して、ますます多元化していると言えるだろう。
 とは言っても、研究活動そのものはパラダイム対立でちっともかまわない。理論の対立、ミクロとマクロの対立、そして新旧世代間の対立は、学問であれば当然生じることである。社会学の場合は、その程度がいささか激しいというだけである。
 しかし私は「教育の第一次性」「教えることの第一次性」の見地から、ディシプリンを問題にしたい。ディシプリンはディサイプル(高弟)によって教育の場で踏み固められていくものであり、学校や大学という再生産機構において教育プログラムとして制度化されていくものである。
 では、社会学の名の下に何が教育されているのか。
 教育されるものとしてのディシプリンとしては、たんに「多元主義である」とか「パラダイムの相克」などと他人事のように語ることはできない。それを学生に対して正直に告白したところで、社会学のディシプリンが伝えられたとは言えない。パラタイム多元主義であれば、それを基礎付けるメタパラダイムが説明されなければならない。ディシプリン的知的空間では、ここをきちんと処理しなければならないのである。
 社会学教育の困難は、まさにここにある。
 この困難を乗り切るために、これまで社会学者たちは、講義や論文指導や教科書執筆のさいに、どれか特定のパラダイムに依拠して説明するか、あるいはセカンダリーなパラダイムを代用してきた。後者が、いわばデファクト・スタンダードになる。たとえば次の三つのパターンがその代表的なものである。
 第一に、古典の応用。たとえば、デュルケム自殺論(あるいはアノミー論)から現代の自殺や社会病理的傾向を読んだり、ウェーバーのカリスマ論や宗教社会学で現代の宗教状況について語るといった説明がそれである。この場合、古典解説的な記述が主になるだろう。
 第二に、機能主義。とくにマートン的な温和な機能主義が主流である。リベラルなものの見方(通念からの一回ひねり)に対して、もうひとひねりする言説になる。つまり二回ひねりである。教育的水準としては適当なレベルになるので、機能主義者でない社会学者も、この種の説明に落ち着きやすい。マートン的なひねりのきいた解説でもって多様な現象について語れるだろうが、アイロニカルな社会学像が前面に出る。
 第三に、アラカルト方式。テーマに即して理論を使い分けるものである。理論間の整合性は気にしない。その場その場で説得性があればよいという落としどころである。10人前後で機械的に割り振られた編集ものの教科書は、このパターンを踏みやすいが、トータルな社会学像が浮き彫りにならず、社会学概念について読者が混乱する。ディシプリンは伝わりにくい。
 理論的にはまとまらないので、方法的にまとめていこうというのが近年の流れである。社会調査が標準化されている点では、ディシプリンとしての社会学の軸は社会調査という研究方法にあると言えそうだ。しかし、量的調査にせよ質的調査にせよ、これ自体は通常科学の求めるエビデンス依存型の学問であるという以上のものではなく、その研究が社会学であらねばならないという必然性は薄くなる。
 ということになると、やはりテーマで特徴を出すしかなくなるが、こちらはこちらでアポリアがある。
■3 残余概念の逆襲
 ここ20年ばかりを振り返って、社会学において新領域として一気に大きなテーマ空間を占めるようになったものとして、身体、ネット、環境、国際社会がある。
 身体の社会性・権力性の問題についてはフーコーの知的影響が強いが、ブルデューのハビトゥス論もある。もちろん古くはモースがやっていたわけだが。従来の医療社会学に加えて「健康と病の社会学」と呼ばれる領域拡張があった。「健康と病の社会学」は、名前は凡庸だが、基本的には社会構築主義の立場から、領域を拡張する試みである。健康ブームの分析や医学的知識の構築性などがここに入るわけである。さらにこれに先端医療や生命倫理の問題が加わる。
 ネットについては、パソコン通信時代からインターネットにかけて、ネットワーク・コミュニケーションがある種の新しい社会領域をつくりだしたことに対応している。CMC研究はその典型であるが、ネットワーク空間は日々膨張しており、かつての見晴らしのよい開拓地が昨今はすっかり都市化されて、とても一望できるものではなくなってしまった。ここは現実の社会と切り離されているわけではないが、独自の秩序と無秩序によって言説空間が織りあわされている。たんに公共圏といってすまされるような単純さはすでにない。
 国際社会については、冷戦構造においては国家間関係が最大の焦点であり、政治学や国際関係論がそれをとりあつかってきたが、冷戦後において、さまざまなアクターが国際社会の舞台に登場するようになり、国家に限定されるものでなくなった。従来は先進国に範囲をしぼって説明できればよかった社会学も、グローバル化せざるをえなくなった。
 たとえば、最近の社会学教科書を編集する上での大問題は、国際学関連のテーマについて、どの程度紙面を割くかである。グローバリズムや民族問題や戦争とテロリズムなどの問題は避けて通れないが、それらは社会学固有の問題を超えており、なおかつ、それに言及するとなると、それ以外の部分もあわせて国際学化しなければならなくなる。ギデンズの『社会学』がその好例である。それは論理的に一貫しようとすると『グローバル・ソシオロジー』にならざるをえない。
 このように、新領域の採用は、ディシプリンとしての社会学を大幅に改訂せざるをえない側面をもっている。たんに教科書に一章を追加するようなものではない。
 グローバル化と同じことは「ジェンダー論化」にも言える。ここでもギデンズの本は先駆的なテキストである。すべてのイシューについてジェンダー論的増補改訂を入れなければならない。フェミニズム論に依拠するならば、社会学は隅から隅まで「ジェンダーの社会学」でなければならない。
 環境やエコロジーも大幅に導入された。これまで排除されてきた自然環境や生態系が社会学に導入されることになった。これもまた新領域が加わった以上のことを意味する。
 環境社会学の一系譜によると、これまでの社会学は「人間特例主義」だったのだから、これを改めて「新エコロジカル・パラダイム」に移行する必要があるという。つまり、人間は例外的に文化的特徴を持つが、地球生態系に依存しているひとつの生物種であると言うのである。これは社会学にとって新しいパラダイムである。
 生活環境主義の時代は終わったようで、環境社会学の研究者は社会学との接合にかなり苦労している(飯島ほか 2001)。それがなぜ社会学でなければならないのかが、環境学全体においてたえず問われるからである。悩むのは当然である。20年程前には社会学のディシプリンにほとんど存在しなかった生態系という概念を導入することによって、新しいディシプリン(あるいは大きな修正ディシプリン)が要請されるのは当然である。
 これらの新領域に対応して言えることは、さまざまな分野で「残余概念の逆襲」が生じているということである。ちなみにこのフレーズは政治学者の松本正生が無党派層について指摘したものである(松本 2001)。無党派層は、それこそ政党支持者の「残余」として扱われてきた(無視されてきた?)が、もはやそれが投票行動分析の中心になったということである。政治学も無視できなくなったということだ。
 「残余概念の逆襲」は「周縁の中心化」と呼んでもいい。ともあれ、社会学が19世紀末から20世紀前半に確立したときには「残余」「周縁」「未知」だったテーマが、パラダイム変換を伴うような重要なテーマとして中心化したのだから。
 このような問題について、個々の研究の場面ではそれほど悩むことはない。しかし、社会学の全体像について語らなければならない講義や教科書づくりにおいては非常に苦労するところである。教えられるべき知識空間としてのディシプリンが非常に複雑かつあいまいになっている。
 私自身は、かつてこれこそ「脱領域の知性としての社会学」ならではの現象だと説明していた(野村 1992)。けれども、テーマ領域の分化と拡張は、それを無批判に採用するかぎり、社会学がどんどん肥え太っていくばかりである。
 しかも、問題なのは、それを担っているのが必ずしも社会学的研究ではなくなってきていることである。この状況の中から、ディシプリンとしての社会学を描き伝え教育するのはますます困難になる。
■4 学際的問題領域研究
 社会学と称されているディシプリン的知識空間の内部から、目を学問研究活動全般に転じてみれば、社会学の延長上にありそうな研究を他のディシプリンの人たちがやっているということが見えてくる。
 すなわち、現時点では社会学者の仕事を引き受けているのは、もはや社会学者だけではないのだ。
 たとえばスポーツ社会学という分野があるが、じっさいに研究している人たちの多くは、社会学的ディシプリンの洗礼を受けている者という意味での社会学者でない場合が多くなっている。もちろんすぐれた業績があるのだが、スポーツ研究に明確なディシプリンがあるわけでないので、社会学というディシプリンが借用されているという具合である。
 看護学においても同様のことが言えるのではないか。アンセルム・ストラウスらの「グランデッド・セオリー」は社会学的な見識から出てきたものだが、実際には看護学において広範な影響を与えており、「グランデッド・セオリー」による最近の看護学の論文は、ほとんど社会学と言ってよい印象を与える。
 ここで生じているのは「諸学の社会学化」である。「諸学の社会学化」とは、残余概念の逆襲に諸学が正面から対応し始めたということなのだ。
 この傾向は「○○学」(○○スタディーズ)とまとめられるようになったさまざまな新研究に顕著である。このような「学際的問題領域研究」の中で、日本語圏において比較的活発で、社会学と縁の深いものとしては次のものがある。
 環境学、国際学、平和学、情報学、女性学、障害学、カルチュラル・スタディーズ、科学技術と社会の研究(STS)、社会史(歴史社会学)、音楽史。
 ちなみに、これらの先駆形として、エリアスタディ(地域研究)がある。これは冷静構造の形成とともに、とくにアメリカにおいて地域研究の戦略的重要性が強調されたことに起源を持っている(ウォーラーステイン 1996)。
 これらの研究において社会学者の参加は必ずしも多くないし、主流をなしているとは言えない。しかし、われわれ社会学者から見て「社会学的」と見える研究が、これらの学際的問題領域研究には多いのである。
 既に述べたように、私は、十数年前に社会学の教科書を書いたときに、日本語圏において、このことに気づいて、それらを一種の「社会学的研究」として取り込んで紹介することにした。「諸学の社会学化」と認識したからだ。これらの成果は、社会学というディシプリン的知識空間に位置づけ可能であると判断した。こうした判断は、何も私だけでなく、すでに多くの社会学教科書が採用しているところである。
 しかし、その後の動向を見ると、果たしてこれらが「社会学的ディシプリンの浸透」の結果であったかどうか、非常に疑わしい。
 たしかに、これらの研究において社会学は一定の役割を果たしていた。しかし、社会学が先駆形として評価されるというよりは、批判すべき先行事例(たたき台)とみなされることが多いのではないか。そういう印象がある。
 おそらくその分岐点は、これらが倫理に踏み込むことである。それぞれのテーマにかかわる倫理的なエートスがこれらには共通していて、それが学際的研究の求心力になっている。しかし、社会学者はそれから距離をとろうとしたり、それらの逆機能をついたりするので、反感を買うことが多いように思う。通常科学の倫理化のもとでは社会学的研究は叩き台になりやすい。
 学問研究における「ポスト近代」とは、じつはこういう状況を指すべきではないかと思う。ディシプリンの力が弱まり、喫緊のテーマ(つまり残余概念の逆襲!)ごとに研究が寄せ集められる。それに対応して新しい学部や研究施設が立ち上がる。
 この状況において環境社会学のように自らのディシプリンの定立に自覚的に取り組んでいる領域はまだいいとしても、他の領域のように自らのディシプリンのアイデンティティがあいまいになっていくケースが増えているのではないか。たとえば情報学では、技術的な知識から人文学的な知識まで、渾然と同居しており、まさに学問的カオスである(北川ほか 2002)。
■5 一世紀後の「社会学の領域」問題
 ジンメルが一世紀前に批判的に対峙した総合社会学にかわって、今日では「諸学の融合」が私たちの前にある。総合社会学はひとつのパラダイムだったが、諸学の融合は研究対象によるパラダイムなき収斂である。
 この状況において何を社会学と呼んでいいのか。コンセンサスのレベルは低下している。
 以上のような学問状況から、少なくともディシプリン的知識空間において「社会学の終わり」という問題を想定していいのではないか。ほんとうに終わるのかどうか、わからないにしても、「終わり」というものがありうるということを意識していいと思う。
 ウォーラーステインは、この点ですっきりしている。個別の社会科学なんて19世紀から20世紀初頭の先進欧米諸国の知的空間を反映しているにすぎないのだから、いつまでもそんなものにこだわっていてはいけない。ひとつの「史的社会科学」でいいではないかというのである。(ウォーラーステイン2001)
 デュルケム、ジンメル、ウェーバー以来の社会学がモダンな20世紀的思想であったと割り切るのか。つまり21世紀においてディシプリンとしての社会学は終わりつつあるのか。それともひとつの「史的社会科学」に解消されてしまうのか、あるいは独自の「ポスト社会学」を構想するのか。いずれにしても「社会学の再定義」が必要になっているのではないか。
 ジンメルは一世紀前に「総合社会学の終わり」を宣告した人である。そして独自の対案として「形式社会学」(のちに「純粋社会学」)を打ち出し、ディシプリンとしての社会学の再定義に貢献した人である。
 と同時に、そこからはみ出す研究も続け、それがやがて一般社会学を含む『社会学の根本問題』に集約されて、形式社会学の構想が大幅に拡張されるのである。(ジンメル2004)
 他方、受容史的に見ると、シカゴ学派をはじめアメリカ社会学への多方面の影響があり、それらにはパーソンズを中心とする機能主義に対する対抗研究として位置づけられるものが多かった。乱暴な言い方を許してもらえるならば、60年代以降の社会学におけるパラダイム乱立の知的源泉はジンメルにある可能性がある。
 素人仕事? 雑学? 直感? そう言われながらも、未開地を発見し、それについて記述することを使命とする。こういった社会学像(「問題発見的な科学」)はジンメルが作り、ディシプリン化されつつも、たえずはみ出すものとして継承されてきたものだ。これをとりあえず「ジンメル的エートス」と呼んでいいだろう。この場合のエートスとは、精神的駆動力、知的な駆動力、あるいは知的使命感のことであり、それでもってディシプリンとしての社会学の原動力が成立するようなもののことである。
 しかし、受容史的に拡散してしまった「ジンメル的エートス」をジンメルに戻って理論的に明確に理解し、21世紀の社会学のディシプリンを構想しなおすことは、なかなか困難な仕事に見える。
 コンテンツにおいてジンメルは歴史的遺産である。しかし、昨今のジンメル・ルネサンスにおいて、ジンメルの業績を断片的なものとみなすのではなく、統一的な原理によって一貫したものであると見て、そのエッセンスを抽出していく試みがなされている。これによって、ジンメルが20世紀社会学というディシプリンに対して果たした重要な役割があきらかになるだろう。
■6 ネーデルマンの試み
 たとえば、ビルギッタ・ネーデルマンの概念的準拠枠論の試み(Nedelmann 2001)はその一例である。
 ネーデルマンは、ディシプリンとしての社会学がそのアイデンティティと自律性を喪失する危機にあるとし、隣接科学との境目もぼやけてしまい、社会科学というメルティングポットの一成分に埋没してしまっていると認識している。これは本稿のこれまでの議論と同様に「社会学の終わり」を認識しているということだ。そして彼女は、社会学を自律的な科学的ディシプリンとして21世紀に生き延びさせるために、ちょうど20世紀はじめの創始者たちが成功したように「社会学の領域」を再定義しなければならないと主張する。
 ネーデルマンはジンメルの『社会学の根本問題』第一章の「社会学の領域」を決定的に重要なものとみなして、ジンメルの概念的準拠枠を再構築する作業に入る。
 そのさいに留意しなければならないのは、ジンメルの業績に対する二つの反応である。ひとつはジンメル拒否であり、もうひとつはポストモダンのスタイルを賞賛するという反応である。
 いずれもジンメルの著作は首尾一貫したものでないという認識から出ている。しかし、ジンメルの社会学は高度な一貫性を示しているのではないか。リッケルトの言葉を借りると「非体系的なるものの体系家(者)」として。
 近年のジンメル・ルネサンスやジンメル研究会での議論や成果も、従来の「書き散らし型エッセイスト」としてジンメルを捉えるのは皮相的であり、内的にはジンメルは非常に首尾一貫した社会学像を提示したのではないかということが、ひとつの通奏低音としてあると思う。もちろんそれは従来的な形式社会学者としての一貫性ではなく(これはむしろルーズ)、社会学のディシプリンの構築者としての一貫性である。
 もう一度確認すると、彼女は「非体系的なるものの体系家(者)」としてのジンメルに注目する。近代世界が内的な一貫性と秩序を欠いているために、その混沌を体系的に理解するためには技術的な工夫がいると、ジンメルが考えていたことを反映している。
 その工夫が誘導的概念としての「相互作用」(Wechselwirkung)だったという。この誘導的概念を準備することによって社会学者は混沌的世界に身をさらすリスクを負うことができる。そこに賭けることができる。そればかりか、ジンメルにとって相互作用概念は社会学の誘導的原理でもあったという。この点についてネーデルマンは三点指摘している。
 第一に、相互作用概念は関係的局面を強調する。これでジンメルは、個人主義対集合主義の論争と、ミクロ社会学対マクロ社会学の論争とを明快に克服した。ジンメルは「経験の対象」によって社会学というアカデミックなディシプリンを定義することを拒否した。「経験の対象」を分析し、それを「認識の対象」へと組み直すような分析視角を特定すべきであるとするジンメルは、相互作用概念がそれに役立つと考えた。
 第二に、相互作用概念は、循環的因果関係あるいは自己準拠性という社会学的説明のタイプを表している。
 第三に、相互作用概念は、個人を超えた社会的単位の物象化と神秘化を拒否し、過程分析にコミットさせる。固定されたように見えるものを動態的関係の流動に解体する。たとえば「社会」は「社会化」(Vergesellschaftung)として言及されることになる。
 以上の三点、すなわち関係性、自己再帰性、過程分析こそが、社会学の誘導的原理として理解された相互作用概念に含蓄された社会学研究の必須要件なのである。
 今日において社会学の領域を再区画するのに、このようなジンメルの構想は役に立つとネーデルマンは考えている。さらに彼女は「社会化」の総体的過程を構成するサブプロセスとして、(1)「外在化」(2)「内在化」(3)「制度化」(4)「利害形成」の四概念をあげて論じている。これらについては割愛するが、ともあれ、ジンメルのライトモチーフを再導入することで、「社会学からの引き上げ(逃走・離脱)」を阻止できるのではないかというのである。
 完全なものでないかもしれないが、このネーデルマンの試みはヒントになる。ジンメルの理論的含意について新味はないものの、それを「社会学の終わり」に対する巻き返しとして位置づける点を高く評価したい。この方向の研究と、受容史的な研究とをかみあわせれば、拡散的に終わりつつある社会学をディシプリンとして再定義するのに役立つのではないかと期待できる。
「社会学とは、いつも社会学とは何かについて論じている科学である」という悪口も再び言われそうな気配である。しかし「社会学の終わり」を素直に受け入れるのでないかぎり、「社会学とは何か」そして「社会学の領域」問題について真剣かつ理論的に検討すべき時期だと思う。
 既に述べたように、私自身は、もともと「社会学の終わり」を受け入れることになるだろうとの予測を持っているが、社会学側からの抵抗を期待する気持ちも強い。それは社会学のもつ知的なエートスを自らの規律とする人間としての素直な感情である。したがって、私がこれからのジンメル研究の課題と考えるのは、たんにジンメルが彼の同時代の社会に対してどう反応したかではなく、現代の「社会学の終わり」という知的状況に対する抵抗拠点としてジンメルの理論構想をいかに再構築するか、そして、拡散する知的状況に対する現代的要請に具体的に応えていくことではないかと思う。
■7 応答
 最後に、討論段階で十分に答えきれなかった三点について若干補足しておきたい。
 第一に、ジンメルの貢献がもっぱらミクロ社会学にあるのではないかとの意見が出されたが、ジンメル社会学の可能性はミクロ社会学だけではない。『社会分化論』や『貨幣の哲学』を引き合いに出すまでもなく、ジンメルの社会学的視圏はきわめてマクロなスケールを持っている。個人も社会も相互作用の産物と見た彼の独特なスタンス(相互作用概念)は、社会というマクロな現象を十分に射程に入れているのである。今回紹介したネーデルマンの議論においても、それは前提了解になっている。
 第二に、相互作用論がジンメル社会学の説明力の弱さの源泉になっている可能性はないかとの質問があったが、私はその通りだと思う。生成の相において分析することは、直感的説明に流れやすく、手続き的に不備にならざるを得ない。たとえば、社会認識論の三つのアプリオリに典型的に見られるように、ジンメルは三つのものを同時に見据えようとしている。
(1)社会的なるもの
(2)社会外的なるもの
(3)理念的なるもの(社会的なるものに内属していながらも、実現されざるものとして社会外にあるもの)
 言わば「たえず外側に半身を置く姿勢」が相互作用論には随伴するようなのである。社会的なるものに内属した議論に終始できないという事情が、理論的な脆弱性を招いているところがある。その意味では、制度化されたディシプリンとして社会学を位置づけるのであれば、デュルケム的制度論を合わせて強調する必要はあると思う。
 第三点は、この点について討議中に考えたことである。相互作用論に基づくジンメルの社会学構想は、生成の相における社会学である。言わば「構築」と「過程」の社会学である。それに対してデュルケムは「制度」と「機能」の社会学と言えるだろう。もちろんデュルケムにも「集合的沸騰」といった生成の問いに関する重要概念がある。それぞれに社会学の全体的理論像を提示しているのである。しかし、それだけに両者の側面をつきあわせることで社会学というディシプリンの原点が確認できるような気がする。
 顧みれば、20世紀社会学の歴史は、ジンメル的な〈構築と過程〉論とデュルケム的な〈制度と機能〉論の二つのコンセプトがバイメタルのように社会学の両面を構成していて、振り子が振れるように〈構築と過程〉に傾いたり〈制度と機能〉に傾いたりしてきた。シカゴ学派が〈構築と過程〉を強調したのに対して、パーソンズとその周辺は〈制度と機能〉で対抗した。それがディシプリンの一本柱であるかに影響力を誇った瞬間に、各種の機能主義批判が噴出するが、それらはいずれも〈構築と過程〉を重視して対抗しようとする理論だった。
 このように理解するならば、社会学のディシプリンを、ジンメル的な〈構築と過程〉論とデュルケム的な〈制度と機能〉論のバイメタル的複合体として再構成できるかもしれない。別の比喩を使えば、社会学のディシプリンを、サラダドレッシングのような酢と油の対立的混合のダイナミズムとして再定義できるのではないだろうか。そう考えると「デュルケムとジンメル」という一見古風なテーマ設定は、非常に現代的なものに見えてくるのである。
■参考文献
早川洋行(2003)『ジンメルの社会学理論』世界思想社。
飯島伸子ほか編(2001)『講座環境社会学第1巻 環境社会学の視点』有斐閣。
居安正・副田義也・岩崎信彦編(2001)『ゲオルク・ジンメルと社会学』世界思想社。
居安正・副田義也・岩崎信彦編(2001)『21世紀への橋と扉』世界思想社。
松本正生(2001)『政治意識図説——「政党支持世代」の退場』中央公論新社。
北川ほか編(2002)『情報学事典』弘文堂。
Nedelmann, Birgitta (2001), “The Continuing Relevance of Georg Simmel: Staking Out Anew the Field of Sociology”, in: George Ritzer and Barry Smart (eds.), Handbook of Social Theory, Sage, pp.66-78.
野村一夫(1992)『社会学感覚』文化書房博文社。
野村一夫(2003)「ネットワーク時代における社会学教科書の可能性」『フォーラム社会学』第2号、関西社会学会、6-13ページ。
G・ジンメル(2004)『社会学の根本問題(個人と社会)』居安正訳、世界思想社(とくに「訳者付論」)。
イマニュエル・ウォーラーステイン(2001)『新しい学』山下範久訳、藤原書店。
イマニュエル・ウォーラーステイン+グルベンキアン委員会(1996)『社会科学をひらく』山田鋭夫訳、藤原書店。
 

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6月 22017

ガーリー総論(印刷版)

ガーリー総論が初期稿になっていました。『女子経済学入門』に掲載したものを再掲します。自分でヴァージョンが管理しきれていないようであります。


野村一夫の社会研究メモ
2016-01-15
ガーリー総論:社会の重力に逆らう文化的覚醒に関する予備的考察(野村一夫)
初出
女子経済学入門

ガーリーカルチャー研究リポート
編者 野村一夫
著者 国学院大学経済学部経済ネットワーキング学科1年2組全員・2015年度・基礎演習B
f:id:nomurakazuo:20160115135715j:plain
ネット1年2組・基礎演習B最終課題
12月16日提示
冊子「女子経済学」プロジェクト
ガーリー・カルチャーの歴史・現在・可能性
未踏の領域を開拓しよう。
クラウド出版システム利用(新書サイズ)けっこう画期的!
課題 選択した文献・資料について、論点をまとめる形で解説し、そこから想像できる近未来のシナリオを提示せよ。A4で本文1枚以上10枚まで。写真は貸与された文献・資料の写真をふくめて3点まで。必ず自分で付けた見出しタイトルと自分の名前から始めて、最後に文献・資料のデータ詳細を正確に書いておくこと。図表などを入れたいときはスマホで写真を撮って画像データ(JPG)にすること。ネットから画像をパクることは厳禁。
2016年1月10日締切
すぐに編集開始
1月13日 クラスでゲラ最終校正のちトッパンによる微調整。即日、印刷工程へ。
1月20日 新書形式で出来。関係者に配布。非売品。
学生27人が参考文献のレビューを担当し、そののちに私によるまとめとして、つまり授業内企画の一環として、書き下ろしたものである。

ガーリー総論

社会の重力に逆らう文化的覚醒に関する予備的考察

野村一夫(国学院大学経済学部教授・社会学者)
 基礎演習Bの最終テーマは「女子経済学入門──ガーリーカルチャー研究リポート」である。なぜ「ガーリー」なのかというと、現代日本の経済・社会・文化において際だった創造的なカテゴリーだと感じるからである。とりわけポピュラーカルチャーとサブカルチャーの領域においては、ある種の美意識が駆動力になっており、それはたんに「女性性」には還元できない何か独特のチカラであると感じる。それが「ガーリー」である。従来は「カワイイ」として括られてきたが、この十年間に「女子」という言葉が急速に浮上するようになり、それとともに「ガーリー」領域の輪郭も見えてきたと感じる。
 その私の直感に沿って歴代の野村ゼミ(メディア文化論)では多くのケース研究をしてきた。今回は、そのために集めてきた文献を中心に一気にクラスで手分けして書いてみようという試みである。
 このような文化領域研究に関して思いいたるのは「まず言い当てる」ことがとても重要だということだ。それは学者ではなく評論家や編集者や広告代理店だったりする。アカデミズム的にはあまり尊重されているとは言えないが、この人たちが「まず言い当てる」ことからすべては始まる。「まず言い当てる」とは「名づける」ということだ。だから、ここから議論は始まるのであり、そのような文献を片っ端から読んでいくことが必要なのである。
●少女マンガからL文学へ
 そもそもガーリーなるものが明確に造形されたのは一九七〇年前後に大きく開花した少女マンガというジャンルである。もちろんこれは一気に花開いたわけではなく前史があって、それは戦前の吉屋信子の少女小説であったり、『赤毛のアン』であったり、手塚治虫の「リボンの騎士」であったり、その手塚に大きな影響を与えた宝塚歌劇団であったりする。これらは「少女」と括られる存在に焦点が当てられていた。「大人として成熟しない女子」それを巨大なジャンルとして確立したのが少女マンガであった。
 一九七〇年代の少女マンガに関しては、すでに古典的価値が認められており、多くの評論も出ている。なかでも初期の肯定的評価として代表的なものは、橋本治『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』(北宋社、一九七九年)である。この本は今は河出文庫版で読める。この本で論じられている作家は、倉田江美、萩尾望都、大宅ちき、山岸凉子、江口寿史、鴨川つばめ、陸奥A子、土田よしこ、吾妻ひでお、大島弓子である。彼女たちが描いた「純粋少女」の多彩な諸領域は、当時の女子だけでなく、男子たちをも魅了した。私も多くの作品を同時代に読んでいる。高校時代にツェッペリンやプログレに凝っていた男子が大学生になって少女マンガを読んだりアイドルに熱を入れたりしていたのである。そこに何か新しい美意識を感じていたと思う。
 このジャンルが再発見した「純粋少女」の世界は、のちに多産なコバルト文庫を生み出し、広範な文化領域に育つ。たとえば吉本ばななの文学的出発点は大島弓子の少女マンガである。それが九〇年代にはすっかりメインストリームになって、江國香織、角田光代、川上弘美、小池真理子、唯川恵たちのいわゆる「L文学」となる(齋藤美奈子編著『L文学完全読本』マガジンハウス、二〇〇二年)。彼女たちは、たんに女子世界の機微を描くエンターテイメントを提示しただけでなく、高い文学性も獲得していく。おそらく、それらは男性中心(マッチョであれ病み系であれ)の近代日本文学では語り得なかった領域だったのだと思う。
●ファッション
 女子ファッションの世界も一九七〇年代に自律的領域に高次化する。既製服の時代は六〇年代からで、それが主流になるのが七〇年代である。この先頭世代は「アンアン」と「ノンノ」に始まる新タイプの女性ファッション誌の編集者・モデル・読者であり、ショップの店員であった。この世代の代表として私と同い年(還暦!)のモデル・久保京子のケースを見てみよう。久保京子『わたしたちは、こんな服を着てきた』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、二〇一五年)によると、ヘップバーンのサーキュラースカート、ツイッギーのミニスカート、パンタロン、ベルボトムジーンズは六〇年代。ストレートヘア、マキシスカート、メイクとネイル、Tシャツ、トレンチコート、そしてDCブランドが七〇年代。何でもかんでも肩パッドの八〇年代、バブル末期のボディコン、本物志向の上質なリアルクローズの九〇年代、そして二一世紀のファストファッション。
 この流れは、今から見ると、ほぼリアルクローズの領域である。なぜなら、それらはちょっとムリすれば買えるものであり、ファッション誌は半ばカタログとして商品がどこにありいくらであるかを表示していたのであるから。もちろんグレードの差はあるにしても、である。とりわけ「ヴァンサンカン」とその姉妹紙「ヴァンテーヌ」は長く高級路線を貫き、とくに後者は高度なファッション・リテラシーの教科書的存在となった。
 メンズの窮屈な「定番志向」に対するレディースの軽やかな「トレンド志向」の構図は、約半世紀続いてきた。いつも新しい流れは女子が作ってきたのである。デザインやビジネスは男性たちが働いていたことはたしかだが、それを競争的に受容してきた女子層の分厚い消費者が文化的な感受能力を発揮してアパレル経済圏を支えてきたのだ。
 その中でさまざまなスタイルが分岐している。この厚みの中だからこそ、その内部で差異化戦略が作動して、多様なテイストが成長していると考えていいと思う。
 その中で注目したいテイストこそ「ガーリー」テイストなのである。広域渋谷圏において特定すれば、おそらく原宿あたりが発信地。代官山や青山や表参道のような「大人」テイストに対して、カラフルで装飾過剰で軽みのある脱デザイン理論的なファッションがその特徴である。代表的存在が増田セバスチャンの世界であり、それを体現している「きゃりーぱみゅぱみゅ」である(増田セバスチャンのサイトはhttp://m-sebas.asobisystem.com/およびhttps://twitter.com/sebastea)。
 かれらの世界はとても洗練されているが、それでも「ぎりぎりセーフ」感はある。じつは「ぎりぎりアウト」でもちっともかまわないのだ。このガーリーテイストには、それを実践する人たちに創作(あるいは二次創作)の余地があるのだ。大人の女性としてふさわしい「上質な無地のファッションにアクセサリー1点」なんてルールに縛られるのを拒否しているのはあきらかで、「下妻物語」の深キョンのゴスロリとまったく同質なのである。自分の工夫で何を足してもかまわない。大人の引き算をしないのだ。いわゆる「ひらひら、ふわふわ」ひたすら足し算を生きる。私はそこにガーリーファッションの「抵抗の哲学」を読み取る。
●アイドルグループ
 そうした先鋭的表現がリアルクローズ化したのが、二〇〇五年以降のアイドルグループだと私は位置づけたい。リアルクローズ化ということは、つまり身近でガーリーな「ロールモデル」になっているということである。
 女子高生風の制服集団がロールモデルになり得るだろうか。エロを求めるオタク男子に差し出されたカワイイ生け贄たちなのだろうか。そういう疑問はありうる。
 しかし、それはちがうと思う。なるほど地下アイドルやキャバクラ嬢や夜の街をさまようJKたちは、かなりかわいそうな生け贄状況を生きていて「なんとかならんか」と思うが、私たちが知っているメジャーなアイドルたちは、その中の勝者である。それゆえ「ロールモデル」になっていると思う。
 AKBは女子の生き方の典型的なロールモデルである。チアガールか体育会系の「勝利を信じて全力でことにあたる」生き方を体現している。「どんな条件でも、自分たちでなんとかする」というのが重要なポイントであって、ステージ上にはハプニングがいつも用意されていて、いかにそれを乗り越えるかが「隠れたカリキュラム」になっている。前向きな(前のめりな)努力の結果としての女子像がここで提示されている。
 それに対して乃木坂は、後発な分、よく考えられていて、ガーリー特有の線の細さに特化しているように見える。少女マンガのように、いつも繊細な女子像である。それは乃木坂のCDの付録映像に典型的に表現されている。ちなみに、ここは映像作家たちの実験場になっていて、これを見るためには三つのタイプを購入しなければならないのがやっかいだが、古いものはYouTubeにたくさんある。私は「乃木坂浪漫」シリーズですっかり感心してしまった。これは太宰治あたりまでの近代文学の朗読シリーズである。これらの作品群については『乃木坂46 映像の世界』(MdN EXTRA Vol.3、二〇一五年)を参照してほしい。
 ちがいはたくさんあるが、しかし、両者に共通なのは、多彩なロールモデル、チームワーク、ドキュメント性である。それは徹頭徹尾ガーリーな物語で、彼女たちのドキュメンタリー映画や裏トークなどは必然なのである。たとえば公式インタビューを参照してほしい。週刊朝日編集部編『あなたがいてくれたから』(朝日新聞出版、二〇一三年)と篠本634『乃木坂46物語』(集英社、二〇一五年)。ここには、ほとんど男子は出てこない。男子はファンたちと裏方さん(プロデューサーもマネジメントも職人さんも)である。
 あと、両方に共通しているのは、地方の女子校のノスタルジックなイメージが再現され続けているということである。全国展開するためのしたたかな戦略ではあるにしても、それが「ご当地アイドル」に直結していることは「あまちゃん」で、すでにはっきりしている。そして女子校。女子だけの世界であれば、かえって多彩な女子像が描ける。
 また、アイドルではないが、オシャレな女子に人気があるのがE-girlsである。こちらはプロフェッショナルなエンタティナー路線。総じて明るいガーリーテイストだが、E-girlsを構成するFlowerというグループは、もっぱら切ないガーリーテイストであって、女子に人気がある。ガーリーなロールモデルも分岐しているということである。この多彩さにも注目しておきたい。さらに東京ガールズ・コレクションでランウェイを歩くようなガーリーなモデルたちも、もっぱら女子たちに人気のロールモデルである。近年、彼女たちのファッションブックが相次いで出版されていて、それらは「こうなるためのマニュアル公開」のようである。
 視点を変えて労働経済学・労働社会学的に着目しておきたいのが、表現系若年女子労働の問題である。ガーリー領域の担い手たちは、そもそもデビュー自体が難関であり、活動できるようになっても激しい競争構造に放り込まれる。人気が出ても浮き沈みがあり、たとえばAKBでは「組閣」と呼ばれる人事異動が頻繁にある。しかも若いメンバーの大量加入によって、トップランクのメンバーも追い詰められている。表現系ゆえに個性の強い女子が集まるから衝突もあり得る。たとえば「ももクロ」の歴史はそういう葛藤の歴史であったりする。
●こじれた女子
 ガーリーなイマドキ少女マンガはないかと探して読んでみたのが『楽園』という季刊誌だった。白泉社なので王道だと踏んだ。とりわけ表紙を担当しているシノザワカヤの作品を読んでみると、言葉が多層的であるのに驚く。だいたい四層構造である。
(1)発話されたはずの吹き出しの言葉
(2)それに対する自分ツッコミの内声の言葉
(3)絵柄に埋め込まれた状況提示(空気感)の言葉
(4)作者が代理している神様か天の声のような倫理的な言葉
 この四層構造の中で主人公は立ちすくんで身動きできないでいる。これを「こじれた女子」と呼んでいいと思う。
 近年注目されているルミネのポスターが提示するのも、「こじれた女子」を抱えながらも突破口を探す、なんとも健気な女子像である。最近、若干の事故も生じたが、それも「こじれ」を表現するための伏線にすぎない。Pinterestでポスターをコレクションしてみたら、なかなかな味わい深いコンテンツである(https://www.pinterest.com/sociorium/)。
 すでにどこかで指摘されていると思うが、ルミネ的コピーの流れを作ったのは雑誌『オリーブ』だと思う。廃刊されて久しい雑誌だが、近年のガーリーカルチャーのめざましい展開において改めて源流のひとつとして注目を浴びており、二〇一五年に『GINZA』の別冊として一号限りの復刊とそれに関するボックスセットが出ている。セットにある『Messages from OLIVE』は特集や写真に添えられたコピーを集めた本である。これを読むと、ルミネ的「こじれた女子」世界は『オリーブ』の延長線上にあることが明確である。
『オリーブ』の世界観については、酒井順子の『オリーブの罠』(講談社、二〇一四年)が圧倒的な深さで論じている。酒井自身が『オリーブ』の愛読者であり高校時代からの執筆者であった。最初に確認しておきたいことは『オリーブ』自体は、それほどこじれてはいないということだ。ただ、ふたつの世界観をミックスしていたことが、のちのち読者に試練をもたらすことになる。それは「リセエンヌカルチャー」と「付属校カルチャー」である。どちらも都会のあか抜けた少女たちの世界であるが、前者は「おしゃれ至上主義、文化系、非モテ非エロ」であり、後者は「モテ至上主義、スポーツ系、おしゃれはママ譲りで実はコンサバ」という生き方である(一〇七ページ)。ヤンキー的・ギャル的な世界とは相容れない点で共通しているので『オリーブ』はそういう敵に対して上手に二つの世界観を同居させていた。「異性の視線ばかり意識した、モテのためのファッションなんてつまらない。自分のために、自分の着たい服を着ようよ!」(一二八ページ)という強いメッセージこそが重要だったからである。少女というキャンバスにおいてモードなファッションの意味合いは「濃縮される」ことになった。
 問題なのは、モテ系ファッション誌は人生の各段階で卒業できる仕掛けがあるが、自分のためのおしゃれ一筋というオリーブ的生き方には「卒業」がないことだ。つまり、ここからこじれるのだ。その結果、大人になってしまったオリーブ少女たちは晩期『オリーブ』のナチュラル志向に居場所を見いだす。無印良品、ナチュラル志向、生成り、無地、シンプルライフなど、さまざまな意匠に「オシャレのその後」を託したのである。
 酒井順子の解釈はここまでである。これをヒントにここ十年ほどのガーリーカルチャーを眺めてみると、『オリーブ』における「異性を意識しない独自のオシャレ世界観」は、世代を超えて生き延びていると思うのである。ところが、案の定、リアル世界の異性が女子に求めるものとは齟齬が生じる。「ベレー帽にロイド眼鏡で、『ブルーマンデー』をぶっ飛ばせ!」(『Messages from OLIVE』マガジンハウス、二〇一五年、三三ページ)なんである。こうしてオリーブ少女の一部はこじれていく。
 心情的な歌詞が訴求力をもったJポップには、こうした「こじれた女子」が満載である。メンタリティとしては中島みゆきが先頭にいたと思うが、中島美嘉は典型だと思う。オシャレで、病んでいて、こじれている。最近は「病み系女子」という言葉も流通している。彼女たちを救うのは、いったい何者だろうか。
●大人女子
 ガーリーは美意識である。ヤンキーやギャルたちとちがって、若いときにオシャレで洗練されたガーリーカルチャーの洗礼を受けて自分の世界観を構築してきた人が、仕事・結婚・出産・子育て・介護などを機にポンッと「卒業」するのは難しい。美意識というものは、それほど脆弱なものではないような気がする。オリーブ少女の場合、その克服の仕方のひとつがナチュラル系に収まるというライフスタイルだったが、それとは別のソリューションがロールモデルとして相次いで提案されている。
 言うまでもない、そのキーワードは「女子」である。「女性」ではなく「女子」を使用するとき、それは隠微な性的世界観からの離脱を宣言している。その跳躍台は「自分のためのオシャレ」という概念である。
 代表的ロールモデルは蜷川実花である。カラフルでガーリーな世界観を徹底的に追求する彼女の作品は、その実生活とともに高い支持を得ている。『オラオラ女子論』(祥伝社、二〇一二年)はその宣言書だと思う。
 そういうガーリー志向の大人女子の「言い分」をよく表現しているのは、先ほどのエッセイスト酒井順子と、『貴様、いつまで女子でいるつもりだ問題』を書いたジェーン・スーであろう。ちなみに後者の「貴様」とは四〇代になった自分のことである(幻冬舎、二〇一四年)。
 大人女子という言い方は、いろいろ波乱含みである。しかし、ここを押さえないとガーリー領域がたんなる極東の一時的なサブカルチャーとしてしか認識できないだろう。もちろん、そんなことはないのである。
 ここで片づけコンサルタント近藤麻理恵にふれておこう。キーワードは「ときめき」である。片づけと言っても捨てることではない。「ときめき」を感じるモノだけに囲まれて生きていこうという提案である。しばしば「断捨離」と混同されるが、決定的にベクトルが反対を向いている。彼女は、たんなる引き算を拒否するのである。これが世界中の大人女子に支持される理由である。世界で三百万部の本を売り上げ、『タイム』の「世界で最も影響力のある百人」に選ばれたのは偶然ではない。ときめくモノだけに囲まれて生きていくという文化的決意なんだと思う。経済学者はこの広大なガーリー領域に気づくべきであり、社会学者はそこに自己啓発的な愚かさを見るのではなく、ひとつの巨大な文化的覚醒を見いだすべきだと思う。
 カワイイカルチャーは低年齢の女の子を志向している。それは幼稚化とも言える。それに対してガーリーカルチャーは必ずしも幼稚化ではないのだ。手元にある月刊誌『LARME』(〇一八号、徳間書店、二〇一五年)の背表紙にはこう書いてある。「私たちは女の子として戦っていく」と。表紙にはSWEET GIRLY ARTBOOKと表示しているこの雑誌の基調は、徹底した美意識のありようの宣言のようである。これにはきっと続きがあるにちがいない。ガーリーテイストを貫く大人女子たちが一斉に街に出る日がきっと来る。
●ガーリーな男子
 昨今、男子もガーリー化している。
 たとえば手元にある『POPEYE』最新号の特集は「Thank you, Olive! もっとデートをしよう。そして彼女を笑顔にしよう。」である(二〇一六年一月号)。デートの仕方を伝授するのはポパイのお家芸だが、今回ここで教授されるのは「男子が女子の文化領域に積極的に入っていこう」というメッセージである。「俺についてこい」でもなく「君が行きたいところに行こう」でもなく、「自発的にガーリーな文化領域に習熟して、積極的にガーリー領域をいっしょに楽しもう」ということである。これは価値観と美意識を共有するということである。ムリにではない。自然に、である。体育会系やビジネスマン系の文化からは離脱して、ガーリー領域に居場所をみつけた男子たちである。ガーリーの方が俄然おもしろいと感じる男子たちだ。
 これには教員としていろいろ思い当たることがある。ちなみに今一番モテる男子は、こういうガーリーな男子である。その他の男子諸君は気がついているだろうか。
 たとえば、アイドルのところではふれなかったが、アイドルのオタクな男子ファンは、じつはかなりガーリーな人たちなのである。いわゆる肉食系ではない。アイドルとかれらのあいだには異性への恋愛感情もあるけれども、むしろ女子同士の友情的な感情に近いものが存在している。かつてのアイドルファンと言えば、たとえば大場久美子のコンサートなんか、強引にステージに上がって抱きつこうする男子がたくさんいて、ボディガードが次々にそういうファンを突き飛ばしている渦中で歌っていたりするのである。ちがうのは後期の山口百恵ファンだけで、そこは例外的に圧倒的に女子が多かったが、それは今のアイドルファン女子に通じるものがあった。「女子が女子に憧れる」そこらあたりを理解しないとアイドル現象はわからない。
 さて、ガーリー化する男子は、たいていファッションから入る。いわゆるオネエキャラの芸能人もたいていファションから入っているし、今もずっとオシャレであろうとしている。ごく一時期に使われた「メトロセクシュアル」がそれに相当する(マイケル・フロッカー『メトロセクシュアル』ソフトバンククリエイティブ、二〇〇四年)。
 これとはまったく別系統だが、いわゆるハードロックの人たちも同じで、レッド・ツェッペリン時代のジミー・ページなんか女の子みたいだった。ロック系には、今でもそういう美意識が連綿と引き継がれている。ヘヴィメタルがそうである。歴史的には「ピーコック世代」と呼ばれたこともある。スーツにネクタイという大人のスタイルに対する抵抗表現であった。ただし革ジャンのパンク系とは異なる系譜である。
 この文脈を広げて概観してみるとトランスジェンダーの領域が視野に入る。最近では安富歩・東大教授の例が注目を浴びた。かれ(あゆむ)は満州国の研究でデビューした経済学者で、その後、オルタナな経済学の可能性を追求する著作をたくさん出していたが、9.11のあとの原発に関する専門家たちの説明に対して『原発危機と東大話法』(明石書店、二〇一二年)を書き、広く注目された研究者である。その先生が、突然、女子化したのである(あゆみ!)。最新刊の『ありのままに』を読むと、その経緯が詳しく書かれている(ぴあ、二〇一五年)。前半を一言で言うと「女子の文化の方がリッチだ」ということになると思う。ただし、この先生にはそれなりの深い心理的葛藤があって、後半はそっちに主題が移るが、トランスジェンダーを「性同一性障害」という「病気」にしてしまうことには反対している。この本によるとマツコデラックスの番組にも出ているそうなので、もう怖いものなしである。おそらくこういう人がほんとうの「新人類」(死語だが)なのだと思う。
 ここで確認しておきたいのは、ガーリーというのは性的嗜好のレイヤーではないということだ。オッサンのみならずマッチョな若者もオバサンたちも田舎の人たちも、総じて低感度の人たちが取りがちなオッサン目線だと「エロ」で括ってしまうことが多いと思うが、ガーリー領域に居場所を見つけた人たちは、あまり性的嗜好のレイヤーでは物事を捉えていない。そういう「エロ」目線の居場所である大人の俗物的な領域こそが唾棄すべきものなのだ。ここは「聖域」なのだ。「神性の宿る場所」なのである。この点に誰よりも早く気づいて膨大な議論を展開したのが大塚英志だった。かれの『少女民俗学──世紀末の神話をつむぐ「巫女の末裔」』(光文社、一九八九年)はその記念碑的著作である。すでにタイトルに大塚の主張が集約されている。「神話」を「物語」に入れ替えれば、もっと正確になる。かれの言うように「少女」は「聖と俗」構図に当てはめれば「聖」の領域なのである。「聖なるもの」に志向した文化領域なのである。そこでのみ感じることができる物語の舞台を自分の居場所として感じる想像力がなければ成立しないのだ。
●ガーリー領域の六次元
 最後に議論を整理しよう。ガーリー領域とはいかなるものか。
 理屈はカラオケに似ている。カラオケは日本発の世界的発明(ジョウ・シュン、フランチェスカ・タロット『カラオケ化する世界』青土社、二〇〇七年)。日本から世界に拡散したカラオケ文化をヒントにして、ここはひとつポジティブに考えてみよう。ちなみにネガティブな姿勢だと「そもそも論じるに値しない」と決めつけてスルーしまうことになるので、ちっとも展開力のある議論にならない。そういうことは、既成概念を食べて生きている優等生やエリートたち、そして若くしてすでにレガシーな大人たちに任せておけばよい。私たちは先に一歩踏み込んで叩き台になろう。
 これまでのざっくりした議論から、おおよその目安を付けて、これから(少なくとも野村ゼミと基礎演習で続くであろう)議論のスタートラインとしたい。ガーリー領域の基本特性を整理しよう。
(1)加算性、バロック、装置または装備、軍服と制服
(2)親密性、舞台仲間、楽園
(3)自分に萌える、自分物語の構築、外からの視線を拒否する、世間の空気を読まない
(4)非モテ、トランスジェンダー志向、女子目線の美、オッサン目線だとエロになる、ロマンチックラブ・イデオロギーに対する抵抗
(5)二次創作あるいはミメーシスの連鎖
(6)世界性、世界制覇、グローバリズムを変形する、ローカルな創造的変形
 以上をもって「ガーリー領域の六次元」と呼ぶことにする。「次元」ということは座標軸ということである。座標軸においてプラスとして捉えることにする。となるとマイナスのことも考えなければならない。かんたんに解説しておこう。以下の六つの説明を「ガーリー領域の六つのテーゼ」と呼ぶことにする。
(1)ガーリー領域のスタートラインは制服であり、その源流は軍服である。セーラー服はもともと海軍の制服である。あるいは通学中のリセエンヌたちの服装である。あるいは西欧の上流階級における少女たちのドレスである。いずれにしても性的領域ではないことは強調しておきたい。そうした定型的なファッションにひたすら加算するというチカラが働いている。何を足すかは学校や親ではなく本人たちの自由である。したがって、しばしばそれは無秩序で過剰になる。つまりバロック化する。ガーリー領域は「大人の引き算」をしない。その点で「大人のシック領域」とは正反対である。これがしばしば大人目線からの非難を招く。なぜなら「大人のシック領域」は世間からの保守的・道徳的視線に対する自己検閲であるから、一種のやせ我慢であり抑圧だから、それに従順な人たちには「ガーリー領域」は許しがたいのである。
(2)ガーリー領域には、あいまいな「世間」という概念がない。しばしば衝突が生じるが、それに対しては抵抗する。この抵抗は美学的なものである。その美意識を共有する人たちが準拠集団になる。親密性が頼りであり、舞台仲間のような人たちである。そういう人たちで完結できればガーリー領域は相互理解可能で自由な楽園である。
(3)ガーリー領域における焦点は常に自分自身である。「自分に萌える自分」(米澤泉『私に萌える女たち』講談社、二〇一〇年)が最大関心事である。自分の物語は自分で構築するという姿勢があって、その分、外部からの視線を拒否する。既成の保守的な世間の空気は読まない。
(4)ガーリー領域は、異性にモテることやセックスをすること、つまり「性欲領域」は志向しない。お互いが天使のようなトランスジェンダー的存在であろうとする。女子アイドルグループや女子校に典型的に見られるように、女子だけの組織や集団のときほど、そういう傾向が強い。競争的に美意識を先鋭化させるからである。「性欲領域」は忌避されるから「友情」の方に価値がある。そもそも「異性愛」と「友情」は次元がちがう。両方を満たす行為はあるが、ガーリー領域を逸脱することになる。これを「卒業」と呼ぶ。しかし「卒業」は「終わり」ではない。一時的な離脱なので許容できる。近年注目されるのは、「卒業」ののちに「復帰」する人が増加しているということである。
(5)ガーリー領域は加算性の文化なので、何でもありである。しかし、まったくの創造がなされるのではなく、既成のアイテムを引用したコラージュでありブリコラージュである。一種の二次創作だと理解すべきである。オリジナルのアイテムの世界観を借用して、過剰に模倣する「ミメーシスの連鎖」としての文化なのである。流行ではないのだ。
(6)ガーリー領域は現在は狭小な恵まれた平和秩序のある社会においてのみ存立する。他方、その他の広い世界において女性は抑圧され、性に拘束され、しばしば直接的暴力と構造的の犠牲になっている。逃げ場のない女性も多い。それに較べるとガーリー領域を宣揚することは不謹慎であり政治的に正しくないと言われそうである。けれども、それと同時に代替案を提示することも必要な政治的・社会的・経済的・文化的・性的課題なのである。
 男性も「男らしさ」の拘束に身動きできない人が多い。じつはゲームやコミックや地下アイドルにどっぷり浸かっている「オタク領域」も近いところにいるのである。リアルな女性とのコミュニケーションに気遣いして疲れるのでは社会生活を送れないことはたしかであるにしても、男らしさ満載のマッチョや、二四時間戦えるかを問われるようなビジネスエリートとは理想を共有できない人たちも多いはずなのだ。
 その意味でガーリー領域は世界性をもつ。グローバリズムの名の下に多様な生き方を許容しない生活を「変形させる」チカラがあるのではないか。何か社会が分岐点に至ったときに人びとが「あっちに行きたい」と思うような魅力的な物語世界が必要なのである。ガーリー領域にはそういう磁力があると思うのだ。
●女子経済学の誕生?
 一応ハテナをつけておいた。経済学部なので、とりあえず経済学としてみたのだが、この場合の経済学は、包括的な意味での「経済」(たとえばポランニーが議論したような)の研究のことである。本学経済学部経済ネットワーキング学科はそもそもこちらの経済概念に準拠している。そう考えれば「女子経済学」でいいのだ。
 このガーリーテイストな経済は、かなりジャパネスクなところがあると同時に、地球的な広がりも持っている。ただ日本においてのみ先に開花しただけであって、他の地域でそうならないのは女子たちが厳しい抑圧状況に置かれ続けているからにすぎない。真っ黒なブルカやニカブの裏地はガーリーに彩られているはずなのだ。日本発のガーリーカルチャーには、そういう裏地を表にする潜在力があると思う。このさい私たちは、美意識こそ人間の経済生活において大きな力を持ちうることを認識する必要がある。たんに所得の高さだけが消費を生むのではないのだ。そして、そういう文化を人びとが求めること自体が平和を維持する力のひとつになると思ってみたりする。たとえば、そのティッピングポインを東京オリンピックで作れないか。とんでもなくガーリーな東京オリンピック・パラリンピックだ。
 というわけで、われらが共同作品『女子経済学入門』の「ガーリー総論」としよう。
 各論を担当してくれたクラスのメンバーは、ほとんど十代である。メンバーにとっては、とっくに「歴史」になっている現象も多いと思う。それを「遅れてきた人」の視点から見るとどうなるかを読んでほしい。
 今回は日程的にとてもタイトだった。説明は一回だけ。冬休みにその課題をこなして休み明けにメール添付で提出してもらって、年明け最初の授業で校正して、その次の最終回で新書として配布するという荒技である。とっくに大人になってしまった人が見れば、この文章がもつ「いまさら感」は、こういう類いのことを初めて考える大学一年生たちのためのヒントになるように即興的に書いた導入的文章だからである。短いヴァージョンを正月二日に書いてみんなに提示して参考にしてもらった。そのあと加筆したのが、この文章である。正解のない文化的世界への招待状とならんことを願う。(二〇一六年一月二日の書き初め。最終稿は一月九日)

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4月 92017

大学の総メディア化とは何か:大学の情報メディアは5つに分けるべきだ

 以下の文章は平成28年度國學院大學「特色ある教育研究」に採用された経済学部の「すべてクラウドによる授業の作品化」の最終報告書(全280ページ)の結論部分である。関係者はよく読んで議論していただきたい。

大学の総メディア化とは何か

大学の情報メディアは5つに分けるべきだ

野村 一夫(研究代表者)

大学の総メディア化

 中間考察クロニクルに整理したように、本プロジェクトは1冊1冊作るたびに新しい挑戦をしてきた。まず縦書きにするというのが編集上とても難しい。苦労があったとしたら、ほとんどが縦書きにするための編集上のノウハウに関するものであった。横書きであれば、数日で版下はできあがることも検証した。トッパンエディナビは学生でも操作できることもわかった。それでずいぶん助かった。
 ノムラゼミラジオ計画も技術的にはほとんど苦労しなかった。機材はiPhoneアプリ、公開はFacebookページで済んでしまったからである。問題はどのようなコンテンツに学生を巻き込んでいくか、それが学生にとってどのようなトレーニングになるかということである。
 授業を安全に見える化するメリットの基本は、縦横につながる学生と教員のあいだで作品を共有するということである。作品共有から大学の物語の苗床集団が縦横に育っていくということである。大学の物語を作るのは、他でもない学生たちであるから。
 本報告書の最後に確認したいことは、そのプラットフォームをどのように整備していくかという問題である。
 これらを総括して「大学の総メディア化」と呼ぶことにする。総メディア化は、しばしば勘違いされているように大学が「発信者になる」ことではない。大学が「中継ぎに徹する」という意味である。大学が高等教育機関と定義される以上、発信者になるのは学生と教員である。ここには大きな発想の転換があるので注意されたい。これには研究と教育のあり方を問う根本的な問題が関連してくるが、本稿では最後にこの問題について基本的な考え方を書いておきたい。
 本プロジェクト自体は、高等教育における「教育のメディア」について実地に検証をおこなうものである。私個人として強い関心があるのは、まさに「教育のメディア」だけである。ところが、じっさいには「教育のメディア」は教室の整備をして終わりというものではない。総じて「大学の情報メディア」についての本研究プロジェクトの結論を提示しておきたい。

大学のメディアはどうなっているか

 大学の情報メディアは、理念によって5つに分割すべきである。
(1)広報のメディア
(2)研究のメディア
(3)教育のメディア
(4)入試のメディア
(5)事務のメディア
 これらを分離する理由を明確にしておこう。
 広報のメディアは、大学のプレゼンスを広く知ってもらうためのものである。しかし、日常的にはグッド・ニューズ・オンリー・システムになる。大学にとって都合の悪いことは出せない。この場合「大学にとって」ということが大きな論点になる。つまり、その場合の「大学」とは何を指しているのか。それが特定の部署の都合のいいように御旗として使用されることの多さに私自身は辟易している。たとえば「大学にとって不名誉」という判断は、そうかんたんになされるべきではない。たとえば学生の不祥事が「大学にとって不名誉」かどうかは、全学の学生部委員会の慎重な議論によって定義されるのである。ところが広報のメディアに関しては、広報課とその周辺で「バッド・ニュース」として先行して判断されてしまう。広報はそういう原理で動くものである。とくに古い広報はそうなのである。最近の広報は「バッド・ニュース」も伝える工夫をするようになっているが、ネットの対応のように、そう単純ではない。
 研究のメディアは、研究内容と成果物を広く公開するものである。理念的に言えば、リポジトリのようにオンラインで世界中からアクセス可能でなければならない。完全な公開性をめざすなら多言語対応である必要がある。Googleなどの翻訳サービスは約100カ国語に対応しているが、これを活用すれば、ほんとうの世界への発信になる。それによって外国の研究者との交流も始まる。日本語だけでは不十分である。せめて論文のスタイルを世界標準に揃えておくことが前提であろう。私が編集長をしている『國學院経済学』では『シカゴ・スタイル』に準拠するように変更したばかりである。スタイルが世界標準であれば、機械翻訳であっても、ある程度のことは伝わる。
 教育のメディアについては、これまで十分に議論されてきたとは思わない。教育学系のメディア実践の論文はたくさん生産されているが、高等教育レベルのものでヒントになるものはほとんどない。たいていそれは教室内でのコミュニケーションにとどまって、しかも、あとに何も残らない。
教育のメディアの特徴は「教育現場を安全に公開すること」と「学生の成果物を安全に公開すること」の2つである。なぜ公開が必要なのかというと、関係者における成果物の共有が必要だからである。たとえば学生が提出したレポートを読むのは担当教員だけである。学生の友だちが何を書いたかも共有されない。情報共有のスタイルとしては、教員を中心とする扇型になる。全体を掌握しているのは教員のみとなる。これだと学生間でレポートについて語り合うチャンスはほとんどない。だから口頭発表が必須である。しかし、次の年にはつながらないから、また1からやり直しになる。それでは授業としての成長がない。「これしとけば、いいんじゃね」みたいな先輩の言葉を鵜呑みにして縮小再生産になることが多い。これは良くない。年々、学生たちの成果物がレベルアップしていかないと高等教育とは言えない。先輩たちを乗り越えていく仕掛けが必要だ。そのために継承が必要なのである。
 入試のメディアは、厳格に運用されなければならない。入試情報とウェブ出願のメディアとして別個に運用されるべきである。センター試験が終了することが決まって、これからAO入試が多角的に分岐していく。そのさいに情報端末でデータベースを活用して小論文を書くといったものも出てくる。そのときに使うセキュアなシステムが必要である。つまり入試のメディアの仕事は「入試広報」だけでなくなるのである。すでにウェブ出願は当たり前のことになっている。次は入試そのものに使用できるメディアが必要になる。その準備はできているだろうか。
 事務のメディアは、基本的に厳格に管理されている。問題なのは、情報共有の仕方である。エクセルやワードで文書作成して、それをメールに添付して共有するというやり方は安全ではない。ファイルをアップロードしたりダウンロードしたりする方法はレガシーなものである。転送に転送をされた場合、ファイルの行方がわからなくなる。だれがそのファイルを共有しているのか、改訂したのか、最終ヴァージョンはどれなのか、といったことが誰にもわからない。これは情報のガバナンスができてないということである。職員のシステムは教員の心配することではないと考えられているが、じっさいには教員も膨大な事務作業をおこなっている。教務・入試・自己点検などはセキュアな情報システムが必要になるはずだが、基本的に使えるのは授業用のシステムだけである。

教育のメディアの要件

 教育のメディアとして確保しなければならない要件は安全性である。
 では、安全とは何か。メディアは何がいいのか。どのように運用するか。教員の資質をどのようにアップデートするか。中間考察クロニクルでそれぞれのオケージョンに即して書いておいたが、いくつかの論点を列挙しておきたい。
(1)印刷媒体は有効である。手触りのある本にすると、書類とともに破棄されることなく本棚に残る。授業の経験そのものに価値があるのと同時に、授業の作品化とくに印刷媒体にすることの価値は大きい。
(2)学生のコンテンツをむやみに公開することはリスキーである。学生は「学びのプロセスにある人」であるから、すでにあるコンテンツに学ぶのは当然のことである。それを授業においてレポートにして提出されたものには,公開にふさわしくないものがある。引用や出典が明確にさせれば解決するから、そう指導するにしても、個人情報を含めて全面公開というわけにはいかない。したがって、一般公開用のブログやサイトでは難しい。
(3)ソリューションとして本プロジェクトで実地検証したのが、クラウドによる編集システムとオンデマンド印刷の組み合わせであった。「トッパン・エディトリアルナビ」はクラウド上でページものを編集できる国内ではほとんど唯一のシステムである。縦書きとなると、ここの独擅場ではないかと思う。もともと出版社向けのクラウドサービスであったものの、電子書籍用に使用されることがほとんどで、私たちの『女子経済学入門』が最初の印刷本だったとのことである。現時点では判型が文庫と新書に限定されているのは、そういうものを大量に出す出版社を想定して作られているからである。これをオンデマンド印刷と組み合わせてみたのが本プロジェクトの創案である。
(4)予算の問題については、あれこれ工夫した。トッパンとしてはエディナビについて大学と契約するのは初めてで、最初は従来の出版社用の見積もりであった。しかし、大学はベストセラーを狙っているわけではないので、それだと割高になってしまう。全学的対応であれば、それでもかなり安く済むが、一研究プロジェクトとしては荷が重い。そこでページ単価で契約することを提案し、研究開発機構もトッパンも合意してもらえた。本プロジェクトは全部で十二万ページとして契約した。これだと予定通りに行かなくても、他の本の部数を増やして調整すればいい。授業はなまものなので、予定通りに行くとは限らないから。
(5)コンテンツの配付範囲をコントロールしながら関係者のあいだにコンテンツ共有する仕組みを本プロジェクトでは「メゾメディア」と名づけた。メゾメディアの有力候補がトッパン・エディナビによる編集とオンデマンド印刷の組み合わせであった。では、それだけでいいのか。ネットでメゾメディアはできないのか。と考えて、計画にはなかったネット活用を始めた。それがネットラジオである。これは「渋谷のラジオ」にゼミ生がレギュラー出演していて話を聴いて気づいた。ラジオだと顔が見えない。それだと身内以外にも公開できる。ファイルの流出を防げるサービスを探したところ、Facebookページが最適だと判断して「ノムラゼミラジオ計画」を作ってみた。学生とラジオトークも続けている。ゼミ論の予告などもしているし、学生に何かシリーズをやれと指示しているが、ゼミ論とメディア制作で手一杯のまま就職活動に突入したので休止している。これは継続する価値があると思う。Facebookページでは別に基礎演習Bのコンテンツも公開した。またラジオトークのようなレッスンもしてみた。それぞれ名刺をクラウドで作成して学生たちに配付した。
ノムラゼミラジオ計画 https://www.facebook.com/shibuyaeast/
国学院大学経済学部経営学科1年2組 http://econorium.tokyo

提案

 以上の5つの情報メディアの管理権限は、それぞれのトップが持つべきである。トップが直接管理できないときは、トップ直属のオペレーターが指示通りにおこなえばよい。大学のメディアは5つの理念と活動によってそれぞれ独立かつ自律的に運用されるべきである。混在させたシステムは、邪悪になりがちである。なぜ邪悪になるかというと、情報システムとメディアの管理者が,ユーザーと内容に関するヘゲモニーを持つからである。管理者権限は、ふつう人が漠然と想像しているものよりも、はるかに強力である。それはほぼビッグブラザー並である。職位は高くなくても事実上の最高権力をこっそりと行使できる。しかし、それにもかかわらず5つのメディア領域の原理とルールはまるで異なるのである。教育のメディアを広報のメディアの原理で運用されたら、万事ことなかれになるにちがいない。何もできないように設定にするのが無難ということになる。それでは教育のメディアとして機能しない。
 現状の管理態勢から5メディア態勢に移行する最もかんたんな方法は「すべてクラウド」にすることである。クラウドでは、暗号化と2段階認証は必須であり、しかも活動のすべてが記録される。日常的な管理は劇的にかんたんになり、コンテンツに集中できるし、サポートする余裕ができる。システムのアップデートはクラウド側でおこなわれるので、こちらは必要ない。端末は高性能パソコンである必要はなく、数万円のハードディスクなしのパソコンで可能である。安いパソコンであれば、2年周期ぐらいでリプレイスでき、リスキーな古いパソコンとOSの排除がかんたんになる。クラウドはマルチプラットフォームだから、スマートフォンでも作業ができる。
 組織のガバナンスとしては、情報メディア担当理事を置くべきであろう。情報メディアの管理を課レベルに任せるべきではない。みずほ銀行の大規模なシステムトラブルでは、現場のことが上層部に伝わらず見切り発車をしてしまったことが構造的な要因であった。対策としてなされたのは情報システム担当取締役を設置することだった。たんに実務に長けた人ではなく、情報メディアに関する技術・法務・理論・政治に見識のある人とチームを組んで効果的に制御できる態勢を整えることが重要である。

最後に

「すべてクラウド」でどこまでやれるかについてはここ3年間ずっとやってみた。学生はわりとスムーズに対応してくれる。設備も装備もそれほどいらない。本プロジェクトで得られた知見はまだまだあるが、熟すのに少し時間が必要である。しかるべきメディアで詳しく説明したいと思う。
 本プロジェクトの立ち上げにさいして共同研究者として名乗りを上げていただいた経済学部教務委員会の先生方と許諾をいただいた学部執行部および全学教務委員会に感謝したい。研究開発推進機構のみなさん、とりわけIさんには終始お世話になった。深く感謝したい。出版社向けに開発された革新的なクラウド技術を教育機関に提供してくださり、たえずサポートをしていただいた凸版印刷株式会社のスタッフのみなさんに深く感謝したい。そして、この過酷なプロジェクトに参加し、思い通りの成果物を提出してくれたゼミやクラスの学生たち全員に感謝したい。
 本研究は「平成二十八年度國學院大學特色ある教育研究」に採択されたものである。謹んで國學院大學に感謝したい。
二〇一七年四月六日 研究代表者 野村一夫(経済学部教授)
R707FF【あつとまあく】kokugakuin.ac.jp

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4月 12017

フロントページ

ソキウス(Socius)は、社会学者で国学院大学経済学部教授の野村一夫による個人サイトです。社会学やメディア論など私の守備範囲を中心に、これまで書いてきたものを学習用に公開しています。
Sociusは「仲間」を意味するラテン語です。フランスのオーギュスト・コントがsociusとlogosを組み合わせてsociologieという学問を構想したことから「社会学」の歴史が始まります。考え方はそれまでもあったのですが、コントの名づけが決定的に重要で、コント以後「社会学」をめぐって多様な議論が始まるのです。
肩書きにつけた「メゾ社会学者」というのは、経済学部で情報メディアコースを担当していて、まったく社会学を教えていない中間的な立ち位置を表現しています。最近のネット活動では、だいたいこれで押し通しています。理論的にメゾレベルのことを考えていることや、ここ数年熱中しているメゾメディア・プロジェクトを引っかけていて、メゾが最近の私のキーコンセプトです。なお、ラテン語系統のものはドイツ語読みにしています。

ソキウスのヒストリー
1995年8月15日ASAHIネットに公開開始。
1997年1月honya.co.jpにSociusProを公開開始。コンテンツをクレジットカード決済で販売。
2001年に国学院大学経済学部特任教授に就任。それを期して2002年XHTML版としてsocius.jpに再構築。
2004年に同学部教授に就任。その間、法政大学大原社会問題研究所兼任研究員として公式サイトを構築。個人的にはブログやSNS中心にシフト。
2017年4月WordPress版に再構築開始。
2018年3月「外部脳」として機能するようデフォルトから大改修中。空リンクなど多数あります。ブログnomurakazuo.jpをソキウスに統合しました。ただし1年分が欠落しています。そのうちアーカイブを拾って来ます。

スマートフォンでご覧の方は「フルサイズ表示」でご覧下さい。
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ソキウスの構成
Seminarium.me ゼミをプロジェクトとして企画しています。
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Studium.jp 研究と教育のための研究メモ。読書ノート。
Works これまでの仕事のアーカイブ。
Blog これまで書いてきた複数のブログを統合しました。
Author 自己紹介です。
Calendar 大学にいる日です。

受講者用にLINE@のアカウントを作りました。@sociusです。検索するときは必ずアットマークを付けて下さい。

Twitterの@nomurakazuoをフォロワー限定にしたので、受講者用に公開Twitterアカウントも作りました。「ソシオリウム」https://twitter.com/sociorium

 

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3月 182017

経済学部新入生・新2年生の個人的質問窓口

国学院大学経済学部教授の野村です。4月から経済学部に来る人、5月に始まるゼミ募集を気にしている新2年生の人、質問があればnomura【あっとまあく】kgi.tokyo にどうぞ。Twitterのメッセージでも、Facebookのメッセンジャーでもどうぞ。

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7月 32016

フェイスブックへ集約中

領域ごとにブログを設定してきましたが、猛烈に忙しくなって、いちいちデザインなどをいじる余裕がなくなってきました。しかし、書きたいことは相変わらずたくさんあるので、最近はFacebookに書いています。分類ができずに、しかもタイムライン中心ですので、探すのは難しいかもしれませんが、毎日必ず投稿していますので、こちらをフォローしていただければ幸いです。
フェイスブックでライフハックしています。基本「公開」モードでやっています。
「野村一夫 シブヤイーストのノマド教授」http://www.facebook.com/nomurakazuo
フェイスブックページでキャンパスで考えたことを書いています。カバーの「いいね!」をするとフォローできます。
「野村一夫 国学院大学経済学部教授・社会学者」http://www.facebook.com/sociorium

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