Tag Archives: ゼミ

7月 262018

これからは縮み志向で行こう!

井の頭線セッション。途中ゼミがあったとは言え、今日は11時間半も研究室とその周辺にいたことになるのか。ちょっと前には考えられないことである。朝っぱら以外はずっと学生たちとけっこうマジメな話をしていた。でもって、自分が話したことに自分が影響を受けるということはままあることだと思うが、それをまとめておく。

1 これからは縮み志向で行こう。終活とか言って長年馴染んだものを手放しているのだから、既にそれは縮み志向なのだ。ここ7年ぐらいの過度の拡張主義は、その前の10年の空白を埋めるための切迫したものだった。もうそろそろ着地しよう。今日は、ぼんやり着地点が見えた気がする。あとはちゃんと言葉にしておくことだ。

着陸態勢に入るのであれば、途中で空中分解しないように十分に縮んでおく必要がある。

2 学生院生の個人指導には時間を惜しまない。しかし共通のイシューについては事前に集団として指導をおこない、次の世代に正確に引き継げるように工夫する。仕組みを作る。マニュアル化しておく。プロセスと志を含めて確認できるよう、すべてを記録しておく。「原宿ナウマン象の記憶」としてすでに書いたことを実行する。

3 講義のメタフォーマットはできたので、コンテンツ更新のルールを決めておく。引き続きソキウスを動態化する。残る論点は100人単位の学生との相互作用をどのようにデザインするかということ。スマートフォンによる応用問題の取り組みは今回できたと思うが、現状たりないのはタイムラインである。また、私が軸になる扇型ネットワークのままでは当然破綻するので、学生間の複層的な相互作用をクラウド上で可視化できるようにしたい。アシスタントもしくはコアとなる学生がいればできそうだが、事後対応を含めて自分ひとりで数百人の応答を管理できるような仕組みでなければ1年前からの予算化が必要となる。この労力は教職員との交渉なしには報われないので今後はできれば省きたい。

4 研究モードと教育モードを知識過程論で一体化させる。これはここ数年やってきた通り。しかしアクションリサーチは今年度限りとする。これ以上のことを自分ができるとは思えない。教育に関する仕組みについては「表現プラットフォーム」として定着させる。日常の仕事としてこの活動は退職まで続けるが、規模拡大と制度化については私の任ではない。社会学出身の私はよもやセカイ系ではないので、その程度のことはもともとわかっている。

5 どのように書くか。これまで単著はすべて書き下ろしで9冊出してきた。もう十分なので、商業ベースの出版からはリタイヤしたい。というか、このまま静かに作業を進めればいい話だ。印刷製本された書籍形式であれば、もう自分で作れてしまうことがわかった以上、アナログ形式での流通のことは考えたくない。できれば学術的にオーサライズされているといいが、なぜか研究学会にはそういう仕組みがない。しかし大学にはある。他方、デジタル形式ではウェブ上のどこかにあればいい。運用的には、自分のプラットフォームと、グローバルなプラットフォームとに二重にアーカイブしておけばいい。

6 革マルの非公然活動はこれまでの経緯から考えてまだまだ続くと思う。ここ数年、自分自身で公然化してきたので、これからも記録をして限定公開していく。私の言うことが信じられないのは、知りたくないという防衛意識のせいだと思うので、そういう人は私も当てにしないことにする。大学人もたいていはこの種の凡人であることは当初からよくわかっている。もうとっくの昔に戦闘的知識人と呼ばれるような人は絶滅しているとも思う。

7 縮み志向にするが、撤退するのではない。着地するのだ。

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5月 312018

ゼミ虹募集

今年のゼミ説明会は学部全体に低調でした。野村ゼミもこれまでになく応募者が少なくて9名でした。課題を満たしている5人を合格としています。同じ条件で2次募集をおこないます。エントリーシートの課題もそのままです。何も変わりません。1次選考に間に合わなかった方は早めに準備して臨んで下さい。

野村ゼミ14期生募集

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4月 202018

野村ゼミへのインタビュー予告編

これから3回にわたって取り上げていただきます。

連載インタビュー予告編

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4月 152018

リチャード・ワーマン「5つの帽子掛け」

今年から新しい科目を担当することになり情報デザインをテーマにしたミニゼミを始めたところ。前半はワーマンによる情報構造化の5つの方法について丹念にレッスンする予定である。これを機にワーマンの最初の「情報不安症」である『情報選択の時代』を読み直している。このあと全面改定した本があって最近はそればかり見ていたが、元に戻った方がわかりやすくて説明も詳しい。情報デザインに焦点を当ててみると、たいていのことはこの本に書いてあるとわかる。1990年代に読んだときにはよくわかってなかったと思う。

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4月 42018

Fab.me

シェリダンは次のように言っています。すなわち、人を集めてチームを作り、新しくて魅力的なものを作り出すのであれば、その喜びはかんたんに定義できます。「ちゃんと日の目を見られて、楽しんで使ってもらえて、意図した人びとに広く普及するものをデザインし、作り上げること。それが喜びである」(リチャード・シェリダン『ジョイ・インク』翔泳社、2016年、5ページ)これが野村ゼミのコンセプトになります。

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3月 282018

ゼミ手帖【2年ゼミ初日キックオフ用】2017年9月配付

平成29年度のプロジェクトの資料集を作っています。別件のために急遽1ページにまとめました。これは後期から始まる2年生ゼミの初日に配付したものと後日追加したものです。学生名は省略してあります。

ゼミ手帖【2年ゼミ初日キックオフ用】2017年9月配付

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3月 232018

恐怖政治でないやり方はないのか?

というわけで、恐怖政治ではない形で水準を上げられないか、そして誰も振り落とさずに全員がタスクをこなして能力をアップデートできないか、それを精神主義ではなくてスマートに解決できないか。いま考えているのは、こういう課題である。これ、スマートでないと続かないから。となると属人的なものではなく仕組みとして構築し、マニュアル化まで行かないと定着しない。私自身もくたびれてしまうし、学生たちも嫌気がさして遠のいてしまう。なぜなら、教員も学生もわざわざ引き受けなくてもなんとかなるような「ムダ」なエフォートだから。今どきの学生は合理的。コスパと感情コストをちゃんと考える。単位とか資格とかに直結する制度的裏付けのあるタスクではなく、たいていは見通しの悪い話には断じて乗ってこない。

ただ、私がミッションとしているのは、新しく創造的であるがゆえに既成の制度的枠組みからはみ出すような仕事のできる人を送り出すことなので、少なくとも志願し履修してくれた学生には、そういう仕事に対応できる能力と知性を多少なりとも伸ばしてもらいたいのである。せめて耐性を付けてほしい。じっさい、有名企業に行きたいのであれば他の先生たちの方が数十倍すぐれているから、何も私の元に集まらなくてもいいのである。

ここ数年はかなりこまめに指導するようにしてきたが、クラウドでほとんどのことができるようになり、全面的に移行した。5年ぐらい前から自分ではそうしてきたが、Wi-Fi環境さえあれば、学生はスマートフォンをもっているから、その場でいろんなことができる。チープな私たちにとっては、ようやく時代が追いついてきたという感じがする。
この半年はWorkplace by Facebookをフル活用してバックヤードでのコミュニケーションを全部そこに移し、原稿はStockに集め、トッパンエディナビで編集して版下を作って、何度もチェックし合い、最後にオンデマンド印刷をした。テーマ別新書が8冊、最後の振り返り本が1冊、2年ゼミ生だけで作った。私も学生たちもいろいろ苦労したが、なんとか全員参加で完成した。
その上で、次のモードにレベルを上げようとしているので、立ち止まって進め方を考えているのである。学生がサボるとか、ずるをするとか、そんなレベルの話をしているのではない。
アクティブラーニングをベースにした学生主体の能動学習が大前提である。成果物制作を主軸に学習できるようなプログラムを開発している。そのさい、いわゆる教員用のマニュアル本のようなものはものたりないので、ビジネスシーン向けのチーム論などを参照して、それをこちらに転用することをしている。ここ数年次々に刊行されているアメリカの経営大学院の先生たちの翻訳書がとても参考になるのである。とりわけプロジェクトチームの運営方法やベンチャー企業のスタートアップの話は今の私の現場に直結しているように思う。
演習系だけでなく講義系も、クラウド主軸、コンテンツ制作主軸、チーム主軸、情報デザイン主軸にシフトさせるつもりだ。それでデフォルトから考え直しているのである。この話はまだまだ続く。

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3月 232018

ムダにがんばるということ

どの授業もそうだが、学生・院生の温度差をどのようにハンドリングするかが悩ましい。たいがいの先生たちは省エネで「結果オーライ」かつ「去る者は追わず」である。だから保守的な企業は、大学での勉強よりも入試時点での学力の方を信用することになる。これを打破するには、一方で脱落しそうな学生を引っ張り上げ、他方で意欲とのびしろのある学生を積極的に後押ししなければならない。で、その分岐点は能力と言うよりも温度差にある。と言うか、勉強への熱意そのものが重要な後天的能力なのである。では、そのような熱意はどこから生まれるのか。
いやいや、そういうことを書きたいのではない。いま書きたいのは、学生たちのあいだにある大きな温度差が焦点化しないような解法がないかということである。この解法は属人的なものになりがちだが、カリスマ性の薄い自分としては、意欲の高低に左右されない勉強のプラットフォームが組み立てられないかを考えている。
ただし、私が言う「勉強」はカリキュラムをこなすという意味での「勉強」ではない。いまどきの学生は上手にそれはこなして単位を取っていく。そのあたりについては全然心配していない。制度的なしばりが明確なので、それなりに説明をしてあればたいてい大丈夫である。要するに、自分だけが進級できない・卒業できない状況だけは恥という恐怖があるから。すべて相対評価の世界の中で、誰かが背負わなければならない十字架を自分が背負うことにだけはなりたくないという恐怖である。相対評価というものは、必ず敗者を焦点化するから、一見おだやかでゆるい競争のように見えて、じつは過酷な競争構造になっているのである。相対評価の世界は「恐怖政治」なのである。いじめやそれに類した病理的な現象は、そういう恐怖政治に対する予防措置なのである。だれでもいいから、あらかじめはじき出しておけば、自分は敗者にはならないということだ。
この中で学生たちにとって自分の有限なエフォートをどのように振り分けるかの問題は日常的関心事となる。当然「その他の勉強」をいかに省力化してスルーするかを考える。いや、そもそもそんなものに意味はないから、都合のいいところだけをつまみ食いするのが当たり前になる。よく学生たちが言う「ムダにがんばった」という自嘲的な表現は、その他の勉強にエフォートを割くこと自体が異常認定されるキャンパス文化における比較的安全な表現である。
大学改革の中で必ず相対評価の必要性が叫ばれるのは、相対評価こそがもっともかんたんで有効な学生管理技法だからである。しかし、私は上に述べた点において相対評価には断じて反対である。むしろ「ムダにがんばった」ところだけが本当の意味での自分のアップデートになると思うほどである。
さて、「それで温度差が焦点化しないような解法」の話に戻りたいが、長くなってしまった。いったんこれで公開とする。

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