野村一夫『ゼミ入門』 (5)もうひとつの中級編

■大学は言葉でできている
 ここで中間考察。これまで述べてきたことのバックボーンには次のような考え方がある。「大学は言葉でできている」
 大学に通うようになると、まずは建物、つぎに友だち、といった具合に見えてくる。しかし、じつは大学の本質は言葉でできている。それは四年間通うと身にしみてわかるし、卒業すると、もっと実感する。  大学は言葉でできている。では、いったいどんな言葉か。英語はもちろんである。でも、それだけじゃない。ものごとの名前、意味、概念、数字、命題、歴史、解説などなど。こういうことは文学部や法学部の人はなんとなくわかっている。しかし経済学部や社会学部そしてカタカナ学部の人はどうだろう。だから確認しておきたい。  そもそも経済や社会の現象や問題は、そのままでは見えてこない。概念とか理論とか歴史とか、そういう「ことば」がないと本当の姿は見えない。たとえば数字もことばの一種である。数学そのもの以外に、たんなる数字はでてこない。必ず意味をもった「言葉」として登場してくる。経済の場合、これはかなり多い。  経済や社会や文化は、抽象度の高い言葉がないと捉えられない。見えてこないのである。たとえば経済学を学ぶとしても、じつはいろんな「言葉」を学ぶんだということである。  言葉の森を通過することが重要だ。そして、語り合うことばの中でこそ、それらの反応として自分の中に新しいアイデアが生まれたり、個性的な何者かが磨かれていく。  その意味で、言葉は自分を自由にする。他人のいうことがわかる。自分の考えを自在に表現できる。チームで仕事ができる。世の中のことがわかると楽しく生活ができる。逆に「生きづらい」と感じるときは「言葉」が不足しているのだ。  じつは、私たちが暮らしている社会それ自体も言葉でできている。言葉によって動いている。たとえば裁判所で「懲役八年に処する」と言われたら刑務所に入らなければならない。経済で言えば、ローンを借りるときに「五パーセントの利子が付きます」と言われたら、ほんとに五パーセントの利子が付くので、必死で返さなければならない。 だから、言葉をどれだけ知っているか、理解できているか、それらを上手に駆使できるかによって格差ができる。給料からして違ってくる。  というわけで、大学での勉強は、すべて「言葉の力をつける」につきる。このことから逃げてはいけない。スルーしてはいけない。それでは大学に来たかいがない。なにより卒業できない。覚悟を決めてほしい。  これまでたくさんの学生たちを見てきたが、言葉を受け止める能力は、入学時点からくらべてヒトケタアップするものである。つまり、10倍とか50倍とか、それがあたりまえになる。こう言うと「はったり」に聞こえるかもしれないが、実際そうなのだ。  初年次教育として始まる基礎演習では、最初、一ページ分を読んで発表するだけで「ぜいぜい」言っていた人が、一年の後半になると三百ページあるような専門書について発表できるようになる。今どきの大学では、教員スタッフもそうなるように、いろいろ仕掛けをしている。ノリが悪いとだめだが、そこそこついてきてくれると、いつのまにか「言葉の力」がついてくる。これが大学生活の求心力なのである。
■一芸としての専門知識  ひとつの専門だけでやっていけるのか。「一芸」として専門領域をマスターするのは重要である。「芸がない」のでは社会へのアピールのチカラが乏しい。  たとえば、私の勤務する経済学部で想定しているのは、次のような一芸学生である。以下の例は女子の場合を考えたときのロールモデルである。とくに経済学科は女子が少ないので、具体的に女子のロールモデルを提示しなければならないと別件で考えていたので、その私案をここで流用しておく。 例)一芸で社会と勝負しよう!女子編 マクロガール、ミクロガール、経済史女、統計女子、英語女子、金融女子、証券女子、街おこし引受人、NPO運動家、メディア文化系、ITおたく系、資格マニア女子、経理おまかせ人、冒険的起業家  たまたま女子で示してみたが、もちろんマクロ経済学が得意なマクロボーイも、ミクロ経済学が得意なミクロボーイもいていいのである。こうした一芸を磨くのがゼミの目的である。
 このようなことはゼミにいる人には自明であろう。私が強調したいのは、その次のステップである。
■知的鎖国を解く・全関心領域解禁・知的放牧
 若いころ複数の理系キャンパスで教養科目を担当していたので、多少の事情はわかる。理系のキャンパスでは、進級するとどんどん専門特化されていく。教養科目なんかほとんど選択の余地のない配置になっていたりする。学部の先生たちもそれが当然だと信じている。「教養(科目)なんていらない」という思想が丸出しである。社会科学系でも、古いカリキュラムが残っていると、そういう傾向のキャンパスがあって、その視野の狭さにビックリする。
 でも、ほんとうに「教養なんていらない」のだろうか。この小さな本で扱うには大きすぎる問いだが、少し持論を展開しておくので、それをたたき台にして議論してほしい。
 教養は必要である。昔ながらの技術系・理系・医療系では専門の勉強が職業に直結するから教養はノイズ扱いされ、その結果として、ややいびつな知性形成がおこなわれる。技術的優越性を誇示する「専門家」(エキスパート)とはそのような人たちのことで、これは何も大学教授だけの話ではない(むしろ大学教授になる人はちょっとまたひと味違うことが多いのがなぜかはわからない)。それに対して、広く人文社会系では職業直結性は薄いので、幅広い教養で役に立たないものは何もないくらいである。なぜなら教養は人と人を知的に結びつけるからである。クリエイティブなチームに入るにせよ、ばりばりの営業の最前線に配置されたとしても、教養を媒介にしたつながりは力強いものである。こういうものはどこでも役に立つ。
 というわけで、学生時代に教養的知識は広げるだけ広げておくことをオススメする。社会に出ると職業知識以外は狭くなるばかりである。  ほんとうは順序が逆なのだ。最初に専門科目を集中して勉強したあとに教養科目を勉強するといいんじゃなかろうか。そうすれば立ち位置を確保した上で自由に飛勇できる(知的冒険!)はずなので、教養科目は、砂漠の中のオアシスのように瑞々しい風景に見えるのではないか。現状は必ずしもそうではないので、自分で工夫して、勝手にどんどんやっていけばいい。時間はあるはずだ。
 そもそも、多くの人が思っているように学生時代はそんなに限られた時間なのか。限られているから「今、遊ばないでいつ遊ぶんだ」的な考え方がはびこっているような気がする。
 しかし、案外そうではない。時間はあるのだ。じっさいの多くの時間が友人関係の維持に使われていて、夜はしたたか飲んでばかりいるような気がする。
 有名な作家の北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』には、青春期とは無駄に時間を使うことだとしみじみ書いてあるが、歴史は際限なく繰り返していて、リア充の学生たちは壮大な「おつきあいの世界」に時間を費やしている。他方、オタクな学生たちは、、ネット依存の学生たちは・・・(中略)。こういうことは仕方のないことかもしれないが、そうして「普通の人」になっていくのである。それ以上は望まない人は、そこまで。この本ともここまでである。グッドラック! しかし、何かにつけてクリエイティブでありたいと思う人は、そこにとどまってはいけない。
■中間知識論
 今の時代背景としては、一つのことしかできない人は生きづらいのではないか。時代の傾向としては「何でも対応できる」「つぶしがきく」ことがかなり重い意味を持つようになっているように思う。
 一芸だけの「専門家」でも、それ以外のことは何にも知らないし関心もないといった人は、「○○一筋」としてテレビなんかで賞賛されることも多いが、それを取材し伝える側は、毎日異なるジャンルの「一芸」を持っている人の取材をしているのである。人文社会情報国際系の人は、この「伝える側」の方に立つことが多いのではあるまいか。そのとき専門家でも素人でもない「教養ある社会人(物知り・見識ある市民・事情通)」であることに意味がでてくる。
 ただし「教養」という言葉を使ってしまうと「教養主義」というのが絡んできて、古色蒼然たる、やおら重い言葉になってしまう。
 そこで勝手に造語すると「中間知識」というレイヤー(層)があるのだ。学術的知識から見ると二次的情報になるが、常識のレベルよりも一段高度な水準の知識である。知識のレイヤーをざっと並べてみよう。ただし、どれが上にあるか下になるかはわからない。一応、大学という場所での順位を想定して並べてみると、こうなる。
・学術的知識(専門的知識)
・中間知識(総合教養)
・その時代・その地域に妥当な常識
・特定領域でのみ妥当な特殊な知識(宗教の教義、職人わざ、先端的芸術、職場のノウハウなど)
・おそらく妥当性のない知識(うわさ、都市伝説、とんでも情報など)
 ここでいう「中間知識」は「媒介する知識」でもある。「つなぐ知識」である。それを豊富に利用できる人を「中間知識人」と呼ぶことにしたい。私たちは大学で「ただの若者」から「中間知識人」になるのである。
 もはや知識は特定のディシプリン(学問領域)から自由になっている。たとえば文芸批評家が思想界を主導していたりするのは、ディシプリンから自由に発言できる特権を公認され来たからである。みはやこの特権は、どんな人でも行使可能になっている。  そういう意味では、学部生を「研究の奴隷」にする必要はなくなった。学問の継承者づくりは研究中心の大学院大学でやればよい。ふつうの大学の学部教育は「教養教育の原理」私の言葉で言うと「中間知識の原理」によって進められるべきだ。目標は研究者ではない。教養ある社会人(中間知識人)になることだ。そこから逆算して勉強していけばよい。
■ゼミカフェ
 飲み会はどこでも盛んだ。ゼミも毎回飲み会付きというところも多いかもしれない。飲み会で仲良くなれることは確かだ。しかし、そればかりでいいのかと思うところがあって、私は「ゼミカフェ」というのを休日の朝から始めることがある。雰囲気作りには香りが大事なので、近くのスターバックスでポットサービス(ポットごと借りてくる)を利用して、コーヒーの香り豊かにして、自己紹介や近況報告などをしている。4年生のゼミでも就職活動の具合で中途半端な時間が生まれたときは臨時にゼミカフェにしてしまうこともある。リラックスしているが、シラフで語り合うのが重要なのである。
 こういう場所では、おもいっきり雑談をしよう。雑談の中にも情報や知識は埋まっている。自分が知らなかったことを友だちが教えてくれることも多いだろう。ゼミではお互いがお互いにアンテナである。教員の私でさえもゼミ生をアンテナにして今の動向を知ることが多い。ゼミは私にとって現在知の宝庫である。逆にゼミ生は先生をアンテナにしてしまえばいいのである。けっこう先生のアンテナは頼りになるものだ。
■企画しよう
 ゼミで何か企画してみよう。ゼミはサークルではないので、それが好きなことでなくてもいいと考えてほしい。たとえばテレビ局の人になったとしても自分の好きな番組を作れるわけではない。別のところで決まったテーマがあって、それに即して企画を立てているものだ。逆に言うと、テーマというものはたいてい外部から与えられるもので、それでもなお創意工夫ができるかどうかが問われるのだ。
 公開ゼミ。討論会。サブゼミ。いろいろありうるが、チームを作れるかどうかがカギである。たったひとりで「クリエイティブ」になることはあまりないが、チームでやると「クリエイティブ」になることはけっこうある。「チームの力」はスポーツの世界だけではないのだ。48グループを見れば歴然であろう。
■ゼミ雑誌を作ろう
 今はオンデマンド印刷があるので、ページ数と部数しだいで比較的安くできる。A4オールカラー六十ページだと、だいたい一冊千円前後である。私のゼミでは三年生の前期にコンセプト雑誌を作る。もうかれこれ十年になる。アドビCSをインストールしたパソコンを貸与して、おもにインデザイン(プロ用のレイアウトソフト)で作成している。今はワードでもそこそこのものにはなる。縦書き四段組みぐらいにすると雑誌っぽくになる。必ずしもアカデミックな論文集である必要はないと私は考えていて、普段読んでいる雑誌レベルの記事であればよしとしている。  プロセスは以下のようになる。 (1)コンセプト会議 (2)チーム作り、編集長設定。 (3)編集会議 (4)取材・調査・記事作成・写真撮影 (5)インデザインでレイアウト作り (6)プリントして確認などの調整モード (7)印刷会社に出稿(PDFにするとまちがいない)  編集会議は多数決ではやらない。議論を重ねて合意に落とし込んでいくことを目指す。編集長・副編集長の腕の見せ所である。というか、編集プロセスが貴重なトレーニングになる。いいものができたら就職活動にも使える。ふつうゼミ冊子と言えばワードで作ったモノクロの論集だと思われるから、きれいなものを作ってどかんと面接官の前に出せばよい。教員はプロデューサーとして環境を作りスケジュールと費用の心配をすればよい。 ■ゼミブログを作ろう 「印刷はお金がかかるからイヤ」というゼミは、ブログを作ればよい。無料ですぐに開始できる。問題はどれだけ続けられるかということと、そのゼミらしいコンテンツになるかどうかだ。  チームで発信することがポイントである。個人単位でブログを書くのはやさしいが、チームでコンテンツを作るとなると話は別だ。「作家」とは区別した意味で「クリエイティブ」という言葉を使うと、それはチーム制作に参加するということである。  チームでやるとなると、まず企画を立てなければならない。分担とスケジュールを決めて、コンセプトも明確でなければならない。編集会議も必要だ。これはゼミ雑誌と同じである。  これらのことは必ずしも学術的である必要はないが、たんなる紹介ではやったかいがない。批評精神がないと意味がないとも言える。私のゼミでは「メディア文化論」をテーマにしているが、雑誌については「メディア文化批評」でよいとしている。自分なりに自由に考えて書いてよいということである。  今やネットでの公開は選択肢が多い。動画や音声で制作するのであればユーチューブに公開すればよい。公開できるレベルもに時間をかけて編集することが重要である。 ■自由報告のポイント  何でもいいから自由に報告しなさい、というのはすでに中級編である。  テーマのしぼり方がまず問題になるが、漠然と頭で考えるのではなく、選択肢をにらんで考えることにすべきである。その選択肢というのは先行研究である。つまり、どんなテーマでも先に研究している人はいるものだと考えてほしい。  ポイントは、最低一冊は本を見つけることだ。学術書である必要はない。なるべく分厚い単行本を見つけること。なぜ分厚い本かというと、具体事例が豊富に含まれていると予想できるからである。そういう本が見つけられないのなら(中級編としては)他のテーマにした方がよい。論文や記事やネットだけだと、かなりたくさん集めないと視野が狭くなる。コピペにもつながる。資料がないのであれば、そのテーマが不適切な可能性が高い。ねらいよりも少し広い範囲で探索しよう。
 素材を徹底して集めることもポイントである。オシャレ雑誌の分析するというのなら、その雑誌のバックナンバーをどんとそろえることから始める。ヤフオクやブックオフでセットになって売っていることが多いので、まず買ってしまうのが早い。これはなんでもそうで、まず素材をたくさん集めることから始めよう。