野村一夫『ゼミ入門』 (4)問題関心編

■教養をつける
「教養とは何か」という大きな問いを立ててしまうと答えにくいが、「教養のある人」と「教養のない人」とはどんな違いがあるかについては経験的に答えることができる。「教養のある人」というのは、何を話しても反応してくれる人である。わかるテーマの時はフォローしてくれるし、わからないときは適切な質問をしてくれる。その場では応答できないときも、あとで「あれは、こういうことだったのね」と返してくれる人のことである。それに対して「教養のない人」は関心のないテーマについてはスルーしてしまう。反応を返せない。質問もできない。そんな話をしたことも忘れてしまう。
 ここから「教養とは何か」について答を見いだすとしたら、教養とは、既成事実の知識の獲得を通して、新しい事柄に対する受容能力・対応能力・反省能力を高めることである。すなわち、知らないことをスルーするのではなく、きちんと引っかけて、未知のことを言われても聞き流さない能力のことである。そして、そういう対話をきっかけに学んでしまう人である。そういう知性の発動を総称して「教養」と呼ぶと考えればよい。
 では、どうしたら教養がつくのか。ここでは「雪だるま理論」として説明しよう。
 雪だるまというものは、ただそこらへんの雪を集めても作れない。まず雪で小さな芯をしっかり作って、それから転がすのである。こうすると、芯の周りに雪がくっついていって、だんだん大きくできるのである。
 この「芯」にあたるものを作るのが大学生の四年間である。これは小中高校までの学力とは、また違うものである。これをやりそこなうと、大学に入った甲斐がない。しかも芯を作るのは早いに越したことはない。同じように転がっているように見えても、芯のある人はどんどん大きくなっていくし、芯のない人はくずれてしまう。この残酷なプロセスを今までたくさん見てきただけに、大学生になったらスタートダッシュすることを勧めたいのである。

■連鎖式読書スタイルの確立
 芯を作るメディアは本だ。きちんと編集されている。プロが書いている。パッケージ化されている。もちろんネット上にもしっかりしたコンテンツは数多く流通しているのであるが、それを見つけるリテラシーがないと、たいてい低い方に流れてしまう。低い方というのは、編集されていない、素人が書いた、だらだら議論が流れてしまう方である。素人が書き殴った文章や議論をいくら読んでも教養にはならない。永遠の同語反復である。もちろんテーマによっては「ヲタクな教養」というものもあって、それは今はサブカルでも、そのうちメジャーになることも多々あって、それは否定しない。でも、大学時代でしかできないことをしたくないのか、と問いたい。
 ポイントは「作品性」があるかどうかである。作品というものは、小説やコミックだけではない。美術や音楽だけでもない。およそ文化的コンテンツには、作品性を持つものと持たないものがあって、その区別は難しいが、本の出版は手間がかかるものなので、編集者が時間をかけて著者を吟味して、著者は自分の持ちネタを吟味して執筆し、それを編集者がチェックして、印刷されるものである。総じて作品性は高い。そういうものにふれることが大切だと思う。

 さて、何から読めばいいかわからないという人は、あえてジュニア向けの新書をたくさん読んでみよう。「岩波ジュニア新書」と「ちくまプリマー新書」から手に取ってみればいい。高校生向けではあるのだが、じっさいに高校生は自発的に読むことはあまりないのではないか。大学に入ったばかりの時が読み時だと思う。岩波はやさしいが、ちくまの方は論点をしぼってちょっと深いことを書いている。文庫は良書が多いが意外に難しいものもあるので、それなら普通の新書を読むとよい。1・2冊読んで満足するのではなく、ある程度、量をこなしてスピード感をつけることが大事だ。

 では、どこで選ぶか。
 図書館の本には時間軸がある。つまり古いものから新しいものまでテーマ別に分類されて並んでいる。大学図書館だとアカデミックな専門書が主役である。文庫・新書などは別に固まっているところが多いので、まずはそこから始めるとよい。
 一般市民向けの本では、地元の公立図書館のほうが使いやすい。それほど専門的な本ではなく、読書好きの人が読むレベルの本が並んでいる。自分の住んでいる自治体はもちろんだが、通っている大学のある場所の自治体の公立図書館も使えるはずである。どちらも本を借りやすいし返しやすいメリットがある。

 買うとなるとまず新古書店かな。安いので、ちょっと前に出たような新書や文庫をたくさん買おう。すでに文庫化された単行本も安いはずだ。今どきなら、もちろん電子書籍でもいいが、たいてい古本の方が安い。新古本として売られている本なら100円で1冊買えることもあるので、少し古い本もいとわず買っていくとよい。案外「少し古い本」あたりが読みやすいものだ。というのは、そこに書かれてあることがある程度常識化していることがあるので、読みやすいのである。「かなり古い本」は立ち位置が現在と違うので理解が難しいし「ごく最近の本」は定価でしか買えない。
 ということになると新刊書店では立ち読み中心になるかもしれない。若いころは、古いことはとっつきにくく、今のことならついて行けることが多いので、生きのいい新刊が並んでいる書店で立ち読みして選ぶのももちろんありである。新刊書店は、とてもいいアンテナになる。近年「棚づくり」に精を出している書店が俄然多くなった。ぜひ、そういう気の利いた書店を行きつけにしてほしい。
 もうひとつ重要なのがネット書店・ネット古書店である。どの本が行けてる本か「あたりをつける」にはアマゾンがいい。とくに、関連する本がずらっと並ぶのがいい。アマゾン独自のおおすめの仕組みがあるのだ(購買履歴のビッグデータから商品間のつながりの強さを数値化して表示する)。マーケットプレイスでは中古も買える。新書だと1円のものもある。じっさいには送料がかかかるのであるが。やさしい本については、本格的書誌データベースよりも、アマゾンの方がいい。アマゾンでもいい、のではない。このあたりを頭のいい先生は勘違いしているように思う。アウトプットを気にする「研究モード」ではなく、ひたすらインプットしていく「読書モード」「教養モード」にはそれなりに独自のやり方があるのだ。アマゾンはそれをよく表現できている。連想検索などというデータベースより、まずはこちらを日常の道具にしてみよう。
■縦書きの本を読む

 いくつかヒントを。
 童話でも伝記でもよい。縦書きの本を読んでみることだ。「今さら縦書きだって」と思うかもしれないが、たとえばコミックだって雑誌だって新聞だって、たいてい縦書き仕様である。日本語圏において縦書きはまだまだ健在なのだ。
 経済学や政治学や社会学の教科書はたいてい横書きである。これで頭に入る人はそれでいいが、そうでない人は縦書きの入門書を読むといい。「古い人は縦書きがよくて、若い人は横書きだ」というのは現代の迷信だと思う。本をよく読む人は、たいてい縦書きが好きなものだ。人文系以外の研究者は横書きが好きである、というか、注をつけたり英語の参考文献を挙げたりするのに何かと便利だからである。
■「です・ます調」の本を読む
 もうひとつヒントを挙げておこう。それは「です・ます調」の本を読んでみようということだ。たとえば現代の高校生が夏目漱石の『こころ』が読めるのは「です・ます調」の手紙文(先生の遺書)が染みるからだ。太宰治の作品にも「です・ます調」はたくさんあって、それが若い人も惹きつける。宮沢賢治の童話も同様である。
 人文社会はもちろん自然科学の本でも「です・ます調」は頭に入りやすいのだ。なぜなら、著者に直接話しかけられているのと同じ構えになるからだ。
 ついでに言うと、文章が書けないときは「です・ます調」で書き下ろすとよい。そのあと「である調」に直せばよい。書きあぐねているときには参考にしてほしい。
 その点では講演や対談も読みやすい。雑誌ではインタビューが読みやすいのと同様である。

 この文脈では児童書もターゲットに入る。児童書は「です・ます調」で書いてあることが多い上に、ルビがふってあり(よみがながついている)分量もほどほどである。字も大きい。おそらく多くの大学一年生は、こうした児童書を系統的に読んでこなかったろうから、このさい近所の図書館から借りて読んでみるといい。気持ちよく読み進めるはずである。
■メガ読みのすすめ
 精読は大切である。しかし、精読すべき本と出会うには多く読む必要がある。たまたま出会った本にしがみついているような人は、これからはやっていけないのではないかと思う。「つぶしがきく人」が求められる時代に「好きなことしか知らない人」は生きづらいのではなかろうか。本人の勝手と言えば勝手だが、専門家としては「それでよい、私はそれでやってきた」と言えるかもしれないが、一介の教師としては、生きづらい目にはあわせたくない。
 だれにでもあると思うが、何らかの知的好奇心が爆発するときがある。「爆発的に知りたくなる」と言うべきか。べつに学問的なことでなくても、たとえば中高生なら「グループアイドルのこの子はなんて名前なのか」「このゲームのあるレベルの攻略のコツは何か」といったことで、ウェブ上であれこれ探しまくって、ある種の深みにハマったことがあるのではないかと思う。ウェブはハイパーテキストだから、わりとかんたんに深みに入ることができる。これが魅力でもあり魔力でもあるのだが。

 じつは本のメガ読みも同じことが生じるのだ。いろいろ読んでいくと謎が自分の中に生じてきて、それを解決したくなる。この「解決したくなる」という気持ちが大事で、これを放置しないで手を尽くすよう心がけるかどうかで、けっこう人生変わってくる。解決方法はいろいろで、リアルであれSNSであれ、友達や先生や知り合いに尋ねてみたり、ネットで検索してみたりするのもありだが、本というメディアはコンテンツに内的な連鎖性をもっているので、1冊読むと数冊は読みたくなるものである。謎が深まる場合もあるが、それなりに納得できる場所に出ることができるものである。
■図書館と付箋
 この両者の関係は密接である。図書館の本に線引きするのは悪いことである。勉強だから許されるということはない。ならばどうするか。ノートを取るか、付箋紙を貼るか、コピーするか、基本的には、そのいずれかである。
 マルクスにせよ、レーニンにせよ、本をよく読みながらノートを取った。のちにそれ自体が貴重な思索の痕跡として出版されて、よく読まれたものだ。昭和の時代に勉強した世代は、たいていこうしたものである。
■「本はノートである」しかし・・
 このフレーズは私の作ではない。松岡正剛さんという博学な「編集者」(この人の「編集」概念には特別な意味がある)が「本はノートである」といろいろなところで語っていて、その受け売りである。これは目から鱗が落ちるフレーズではないだろうか。小説を読み飛ばすのならともかくも、学術的な文章を読むのに「書き込み」は必須である。ましてアウトプットをするためとなると、書き込まずにはおれないはずである。
 私自身は若いときから図書館に依存して勉強してきたので、きれいに読む習慣がついているものの、若いときのように読書しながらノートを取るという習慣がいつの間にか枯れてしまったので、最近は付箋紙をつけるしかない。しかしごく最近は付箋紙をつけるのもおっくうなので、記憶に頼ることが多くなった。しかし記憶は当てにならない。トリガーがあれば思い出せるが、それがないと忘却の彼方に行ってしまう。友人の研究者はブログやSNSを読書ノートにしていたりするので、多少のマネをするのであるが、それには相当なマメさが必要だ。だから、思考のトリガーになるよう、なるべく本を買うようにしている。本は引き出しのようなもので、背表紙を見るだけで記憶が蘇る。今は世界中の古本がネットで簡単に買えるので、手間はかからない。松岡氏も本は買うようにして「ノート」にしてしまうとのことだ。しかし、これは期すところがあるからできる技で(つまり元を取る覚悟がある)学生では文庫と新書に限られるだろう。この2種類の本に限っては古本でいいから買うようにしよう。
 図書館の本の場合、結果的に、使えるところをコピーして、そこに書き込むのが、よくあるやり方で、多くの学者の研究室は本よりもコピーだらけなものである。この場合、ファイリングは必須。図書館で資料の関連箇所をことごとくコピーしてしまうというスタイルもある。目次や奥付も必ずコピーするようにしておけば情報源を明示できる。集めたコピーの範囲でまとめるとなれば、途方には暮れないものだ。書き込みも自由自在。

 すでにクラウドの時代である。使えるところをスキャンあるいは撮影してEvernoteに取り込んで、それにメモをつけておく、といった方法も簡単にできるようになった。こうしたクラウドサービスをノート代わりに使い込むスタイルを早めに作っておくといい。ブログでもWordPressだとパスワードをかけて非公開でできるので、同様に自分のノート代わりになる。GoogleAppsだとほんとに何でもできる。もちろんノートに手書きで書き込むのが一番頭にしみこむのであるが。

■本にこだわる理由
 問題関心を広げていくにはメディアは何でもよさそうである。ましてネット社会である。それはそれで習熟すべきである。その上で、あえて本というメディアの効用を明確にしておきたい。
 本にこだわるのは、世の中には200ページないと言えない知識がたくさんあるからだ。あるいは500ページとか千ページでないと言えないことがあるのだ。
 たとえば歴史や文学や哲学や批評などは、精密に論じようとすればするほど分量が必要になる。これら人文学では、長く詳しい記述は一般に学術性が高いと言えるし、逆に短いとエッセイと見られてしまう。もちろん「珠玉のエッセイ」というものはあって、ことの本質を端的に表現した文章もあるが、それを読み解くには高いリテラシーや背景知識が必要だったりする。
 では理由その一。アカデミズムは基本的に論文が基本単位である。一本の論文はそれほど長いものではない。ほんとに絞り込んでこそ論文は成立する。だから一本だけでは完結しないので、それを継続的に書き継いでいくのが常道になっている。だから学術書は基本的には「論文集」である。こうなってようやくひとまとまりの知識になる。そのあとに、社会的文化的教育的ニーズがあれば、それをわかりやすくしたりする仕事に入るのである。こうしてできた本には、数百ページでないと説明しきれないような、ひとまとまりの知識が用意されているのだ。
 理由その二。学問の世界は意外に具体的であるから必然的に分量が必要である。自然科学はもちろんそうだが、人文学も資料は具体的に提示されるし、社会科学もまた調査などに基くことが多いのでかなり具体的である。固有名詞の世界がそこでは分析され説明されているのである。したがって要約に限界がある場合が多い。つまり要約してしまうと伝わらない事柄があるということだ。研究者というものは、いつも字数制限に悩まされているものである。
 理由その三。それは総合知という方向があるから。そもそも学問には、分析知と総合知という二つの傾向があって、分析知は研究対象をどんどん掘り込んでいくやり方であるのに対して、総合知は多くの研究成果を盛り込んで体系なりストーリーなりを提示するやり方である。基本的には分析知が中心と考えた方が現実的である。この場合、具体性やテーマの絞り込みが勝負になる。これは厳しい世界なので、分析知に命をかけている研究者は、あまり総合知を信用しない。
 総合知の場合は、分析知の上澄みを集めるのであろうから、相当なボリュームになるのが普通である。読者が専門家であれば論文参照を明示しておけば短くまとめることもできるが、論文参照に限界がある場合、つまり読者にその場で参考知識を伝えたいとき、参照文献をその場で要約する必要が出てくる。そうすると、いきおい分厚い説明になってしまう。ていねいに説明する分だけ分量は必要なのだ。
 というわけで、学問に関して本というメディアには格段の重要性がある。ここは押さえておいてほしい。
 本として作られたものなら、ネット上で入手できる電子書籍でもいい。もちろん安直に作られた本もたくさんあるが、どれもそれなりに編集されていて、書きっぱなしということはない。英語圏ではオンライン化とネット化が急速に進んでいて、学術的なところから逆転が進んでいるので、日本語圏でもいずれ逆転するのだろう。しかし、テキストコンテンツの作り方にさほどの違いがあるわけではない。
 いずれにしても、系統的に学ぶには本が適している。本になじんでほしい。
■メディア・リテラシーの訓練
 もちろん文化的コンテンツは文字によるものだけではない。音声や映像など、つまり音楽や映画やそれらに類したものがある。これらについては大学初心者もそれなりに習熟しているだろうから多くは語るまい。
 ネット時代の困難は、深掘りはできるかもしれないが、視野が狭くなってしまうことにある。「たまたま知った」ということが意外に重要なのだが、たとえばネットのニュースの欠点は、自分の関心のない情報と接触しないで済むところにある。

 自称「おたく」と言っても、じつはたんなる「消費者」にすぎないことのなんと多いことか。いまどきの消費はけっこう難しいので、それで満足しているだけなのだ、と言いたい。身を乗り出して未知の領域に踏み出してほしい。広げてほしい軸は2つある。多様性と歴史である。学生時代になるべく関心領域を拡大しておくとよい。たいてい、それ以上広がらない。十年たっても、二十年たっても、五十年たっても。
 おまけで一言。あまり悪文を読まないことも大切である。ネット上には悪文が満ちあふれている。素人が書いた悪文に慣れると、悪文を悪文と感じなくなってしまう。ある程度のプロが(お金をもらって書いているか、それとも自分の地位を守るためか等は問わないが、ともかく)時間をかけて書いたものや、きちんと編集されたものを読むようにしたいものだ。別の言い方をすれば「作品性」のあるものを読んでほしい。

■カルチャーリッチな若者になる
 ビンボーでも、YouTubeなどのネットサービスを利用すれば、映像や音楽には触れることができる。私のようなシラケ世代が聴いた古い音楽などは、今やジャンルを問わずフルヴァージョンで聴くこともできる。たとえばゼミで私が「オノ・ヨーコのWhyって曲がすごいんだよね」と言ったら、その場でゼミ生が見つけて彼女の絶叫をみんなで聴いたり、パフュームの「ポリリズム」について語っていたときに「たとえばマイルス・デイビスのオンザコーナーなんかそうだよね」と言ったとたんにゼミ生がYouTubeで検索して鳴らしてくれる。研究室でけたたましい音を聴きながら「ああ、凄い時代だな」と思う。使いようによっては、古今東西のカルチャーと触れることができる希有な時代だなと痛感するのである。
 このさい、文字コンテンツよりも音楽や動画が先になってしまうのは仕方ないこととは言える。でも、これだけだと半分。あと半分は言葉である。文字コンテンツについては、あえて勉強するという形に持って行くしかない。大学でやるのは、それである。
■議論の作法
 言葉の勉強として重要なのは「議論の仕方」である。これはもう一生使える。
 議論には作法がある。それを学ぶのが「ディベート」という授業である。ディベートは、あらかじめいろいろ仕込んでおいて、大ざっぱなシナリオに従って議論することである。ディベートについては多くの本が出ていて、やる場合には参考にする必要があるが、ここではあえてディベートではない「やらせなしの議論」の初歩について述べておきたい。私自身としてはディベートは正直たいした勉強にならないと思っている。
 トレーニングすべき課題は、さしあたり五つのアクションである。当面、五つだけでいい。アクションしよう。
(1)質問をする
 報告者が答えやすい質問をしてあげるというのが最初の作法である。「こんな初歩的な質問をしていいのか」と思うくらいでもかまわない。みんなスタートしたばかりなのだから、初級編では許されるし、専門家たちだって自分の専門分野を少しでも外れると初歩的なことも知らないものであって、ごく近い分野の専門家の会合でもない限り、初歩的な質問は許されると考えてほしい。そのさいは、なるべく早い段階で済ませることが「議論の作法」にかなうやり方だ。
(2)賛同する

 「その通りだな」と思ったら、いとわずそれを声にしよう。「というのは・・・」とまず言って、それから理由を考える。それでいい。報告者を孤立させないことがたいせつだ。あえて味方になってあげることだ。
(3)反論する

 反論が出ないと議論は平板になる。反論は議論の展開上、必要なものである。ただし、理由がなければならない。予感のレベルで反論してもいいのだが、だれかがバックアップしてくれないと議論が進まない可能性がある。孤立を怖れず反論する。みんながみんな空気を読む時代には度胸がいるかもしれないけれども。私はネット上の安直な攻撃的姿勢は好きではないが、それは一回ひねっただけで自己満足しているからで、あとは同調するだけになっているからだ。結局、空気を読んでいるだけである。

(4)対案提示する

 たんに反論するのではなく「そうではなくて、こうでもありうるんじゃないの」という想像力を発動させてみる。想像力が貧困だと何も出てこないが、あえて何か対案を提示しようと努力してみよう。それだけでも自分の情報感度は高まる。また、これを出せる人は大事にしよう。クリエイティブな人だから。
(5)応答する

 こまかしたり「わからない」ですませないこと。頭をフル回転することをいとわないこと。出し惜しみしないこと。場数(ばかず)をこなすこと。議論というものは「言葉で勝負」の世界なので、ここは感情をこらえて応答することを心がけたいものだ。この点で私自身はずいぶん失敗しているので、感情のコントロールが難しいということは承知した上で、あえて強調しておきたい。慣れることである。
 ここで私は叫びたい気分である。「聞き流すな。流す癖をつけるな」と。議論の渦に入ってほしい。傍観者はいらないのである。
 厳密な議論ということでは裁判こそがモデルになる。しかし、研究学会でないかぎり「判決」は当座必要ない。ただし「整理」はだれかがやらなければならない。進行役の役割である。

 以上は初級編として私なりにポイントを説明したものであるが、議論の仕方には深いロジックや技がある。それを学ぶと将来かなり「できる人」になれるはずである。分野は問わない。それについては、福澤一『議論のレッスン』(生活人新書、2002年)を読んでほしい。この領域の有名な古典は次の本である。スティーヴン・トゥールミン『議論の技法ーートゥールミンモデルの原典』(戸田山和久・福澤一訳、東京図書、2011年)。さらに、議論で負けないための本もある。半分ダークサイドに入るが、日本主義や旧左翼や新左翼の人たちは議論で何かを学ぶというのでなく、また、じっくり説得するわけでもなく、言論闘争として必ずその場その場で「勝利」しなければならないと信じているので、狡猾に詭弁(きべん)を弄するものである。その議論は政治的策略に満ちたものになる。そういう議論につきあうことになったときには、しっかりそのロジック(じっさいには言葉のマジック)を見破らなければならない。「問いは議論を制す」という命題を中心に目から鱗が落ちるような本として、香西秀信『レトリックと詭弁ーー禁断の議論術講座』(ちくま文庫、2010年)参照。これをはじめ「詭弁」をテーマにした本を読むと目が覚める。

■ゼミを選ぶ、テーマを選ぶ、先生を選ぶ

 私学の社会科学系では必ずしも必修ではないかもしれないが、専門のゼミが開かれていれば、ぜひ参加すべきである。ゼミに参加しないと「元が取れない」と考えてもいいくらいである。
 では、何を基準に選ぶか。まず、関心の持てるテーマでなければならない。ここで少しは調べておこう。その上で、先生や先輩を見て、やっていけそうかを考える。
 私が薦めたいのは、研究者として活躍している先生というよりは、博学な先生である。師匠となる先生は、できれば何でも答えてくれる先生がよい。狭い専門分野以外は何も知らない先生だと、ディープに研究できるが、よほど研究テーマに関心が持てないかぎり、やや堅苦しくなってしまう可能性もある。ただし、これは人による。せめてその先生の公開されている業績を確認し、実際に話をしてみよう。

■テーマ地図を見渡す
 問題を知る。テーマを知る。どんどんはみ出して見よう。

 一番よいのは、図書館や書店の棚を何度もじっくりと眺めることである。手に取ってみることをオススメする。アマゾンでオススメをたどってみるのも効果があるが、ネットは一覧性に乏しい。

 なるべく俯瞰できる本を読んでみよう。あえて言うが、いろいろな領域をつまみぐいしているものでいい。有能な先生が必ず言うように、古典にアタックすることはいいことにちがいないが、たいてい挫折するので「まず古典を読め」というのには反対である。入門段階ではいろんなテーマを知っていることの方が重要だと思う。頭の中に、迷子にならない程度の地図ができたあたりで「そろそろ古典に挑戦すれば」と言いたい。
 経済学・社会学・政治学・歴史学・文学・哲学・思想・カルチャーなどなど。およそ文化的なものについてひとあたり手をつけてみよう。趣味とは別に、である。情報学系も外せない。これは文理融合である。コンピュータのしくみや歴史は知っておいた方がよい。
 ここで一言。新しいことは自然と耳に入ってくるが、昔のことは勉強しなければならない。理論と歴史を押さえるのがポイントである。私なら新しい分野に入るときは学説史から始める。これでたいたいのことがわかる。

■専門事典・百科事典を読む
 手元に置いておきたいのは『現代用語の基礎知識』だ。年刊だが、毎年買い換える必要はない。学生時代に1回か2回買えばよい。それは1年次と3年次になるだろう。この本は時事問題だけでなく、たいていの基礎的なことがひと通り載っているので、早いうちに1冊買っておくことをお勧めする。アプリでもいいが、パラパラ見るようにすると、いざというときに使いこなせる。本もアプリもコストパフォーマンスは抜群である。
 専門分野がはっきりしているときは「○○学事典」を(古本でいいから)1冊持っておくこともお勧めしたい。こういうものを眺めるだけでも一利ある。「用語辞典」だと限界はある。

 「○○学の名著」も事典代わりに使える。「○○学文献事典」も役に立つ。こういう本を「やめとけ」と言う先生も多いが、便利な本はさっさと読んでしまえばいい話である。
 よくピアノの先生が生徒に楽譜から直接「自分の演奏」を弾けるようにしなさいと指導することがあるが、プロにでもならないかぎり、何か模範的な演奏を聴いてマネすることから始めた方が早いと思う。それと同じである。自分で発見することは大事だが、それは別に勉強でなくてもかまわないのである。たとえば学生の多くは、すでに音楽だとかコミックだとかゲームの世界で「発見」はしているものである。それに対して人文社会系の原典を読んで何かを発見するのは、それほどかんたんではない。

 さて、事典を読むというのは、とんでもないことだと思うかもしれない。先生も学生も、きっとそうだろう。誰もオススメしないだろうから、あえて書いておこう。事典は図書館から借り出せないので、古いものをヤフオクなどで入手して読み尽くす。学生時代にしかできないことだと思うが、おそらく誰もやらない。だったら『ポプラディア』のような小学生から使えるとされる百科事典だと、じつはスラスラ読めるのである。しかし現実的なのは事典アプリだろう。これは優先順位の高いアプリである。

■街を歩く・現場に立ち会う・ちゃんとした大人に会う
 これから述べる3点は、私自身はあまりしてこなかったことで、今はとても後悔していることである。それだけに大学生になりたての人には最初から心がけてほしいのである。
(1)なるべく街を歩くようにしたほうがよいということ。行動力がある人には「今さら」であるが、現代において都会の優位性は疑いないことなので、都市的センスを磨いてほしい。文化というものは必ずしもメディア上で展開されるとはかぎらない。具体的な都市空間の中にヴィヴィッドに作用しているものである。メディア体験ならどこにいてもできるが、都市空間というものはライブ固有なものなので、そこに行かなければならない。
(2)現場に立ち会うようにすること。たくさんの現場を踏むことだ。これが少ないと、わずかの経験で自分の「世界像」を決めつけてしまいがちである。この点については、イベントやライブが好きな人には今さら言うまでもないことだろう。たとえば学内の講演会なんて学生は誰も来ないが、そういう場所にもマメに顔を出すようにするといい勉強になるのだが。自分の好き嫌いにこだわることなんか、どうでもよいことである。アンテナをピント立てて、動こう。
(3)ちゃんとした大人に会うこと。何をもって「ちゃんとした」と言えるのかは難しい。教養系、職人系、対話系、オシャレ系など、それはいろいろである。よくあるパターンだと、バイト先で出会う人だけが大人だと勘違いしている学生が多い。それだけか? 教員の先生もけっこう「ちゃんとした大人」である。敬遠しないことだ。