野村一夫『ゼミ入門』 (1)予告編

 本書のテーマはゼミである。もともとドイツ語でSeminar(ゼミナール)を日本式に略してゼミという。ドイツ語でSeは「ゼ」と読む。英語ではSeminar(セミナー)である。日本の大学での科目名は通常「演習」である。
 人文社会系の大学に入ると、3つのタイプの授業と出会う。講義系と実習系と演習系である。講義系はたいてい大きな教室で一方通行の話を聴く。実習系は、専用の場所でスポーツをしたりコンピュータの操作をしたりする。フィールドワークや調査実習というのもある。この2種の授業は比較的なじみやすい。手取り足取り教えてもらえるからだ。先生の指示に従って作業を進めればよい。しかし、これらに対して演習系は戸惑うことが多いのではなかろうか。それは双方向のコミュニケーションであり、しばしば学生がイニシアティブをとらなければならない。そのため演習系の授業は3年生あたりから始まることが多かった。かつてゼミはいかにも大学生後半の応用的なメインイヴェントだったのだ。
 ところが最近は「基礎演習」「入門演習」といったタイトルで、1年次からいきなりゼミが始まる。たいていそれらは必修科目である。その目的は、大学生として身に着けなければならない能力を早めに教育することで、その後の大学生活を順調につつがなくこなしてもらいたいというところにある。これを講義形式でやると必ず落ちこぼれる人が出てしまうので、それは少人数で、こぼれ落ちそうな人をみんなでサポートしながら進めなければならない。教員と近い距離で、双方向のコミュニケーションを確保しながら授業を進めていくことで、一人前の学生としての基本的な能力を培う。これが主旨である。
 ひと昔前の大学は、こういう教育にまったく無頓着だった。ほとんど手ぶらと言ってもよい。自分で勝手に身につけなさいというのが大学側のスタンスで、学生はさまざまなタイプの教員の授業に直面して、戸惑いながらも自分たちなりに(しばしば「先輩」の体験談が過度に参照されて)乗り切る方法を見いだしてきたのである。
 たとえば、大学に入って初めて体験するのは、長文の論文形式試験であったり、レポートであったりする。レジュメを書いて報告したり、討論したりする。しかし、その方法について直接、系統的に指示されることは少ない。かつての学生たちは見よう見まねで方法を探ったのである。それが何とかできたのは、大学生自体が社会の中のエリート的存在だったからである。
 しかし、今はそういう時代ではない。大学は大衆化した。かつては同世代の1割とか2割しか大学に進学しなかったのに対して、今は同世代の半分が大学に進学する。かつてのエリート性は期待できない。というか、期待してほしくないというのが、今の学生の本音だろう。むしろ「最初からきちんと教えて」ということだろうと思う。何もしないと、大学生活からこぼれ落ちていく学生はぐんぐん増加する。手を打たなければならない。逆に、きちんと教えると、意味なく逆らったりすることなく、すぐにこなせるようになるのも今の学生の美質である。
 「基礎演習」「入門演習」といった授業がおもに初年次用に用意されたのは、そのためである。それは従来のゼミとは全然ちがう授業であるはずだ。なぜならゼミは本来、応用的な授業なのだ。それは研究者たちが日常的にやっている研究会スタイルの模倣なのだから。しかし初年次におこなう「基礎演習」「入門演習」はそれらとは異なる。それは「手取り足取り」やらなければ目的を達成できないがゆえの少人数教育としてのゼミなのである。
 ここでは、教員が、かつては不文律とか慣習とか掟として自明視されていた大学生活のノウハウをきちんと明示しなければならない。たとえば、論文試験答案の書き方、レポートの書き方、レジュメの書き方、報告の仕方、本の読み方。
 しかし、専門家・研究者のやり方をそのまま学生に押し付けることに対して私は明確に反対である。それは、エリートだったかつての学生や、エリート大学のエリート学生には通用するかもしれないが、一般大学のふつうの学生には通用しない。エリート大学においてさえ、エリート志向のない一般学生には通用しない。大学の教員は長いあいだ、我田引水をやってきた。自分の専門分野への導入しか考えてこなかった。しかし、これからはちがう。他のさまざまな専門分野に開かれた導入教育をやっていかなければならないのである。だから、教員も変わらざるを得ない。
 入門段階には入門段階特有のやり方があるのだ。それを認めることが教育の大前提である。しかし、小学生にいきなり複素数を教えるようなことを、これまでの大学はしてきた。複素数を教える前に、自然数があり、小数があり、分数があり、負の数があり、無理数があることを順序立てて説明することが必要なのだ。そのために「3から4は引けない」とか「ルートの中は正の数でなければならない」とか、あとから見ると、ある種のウソを教えることになるのだが、教育のプロセスの中においては、それは正しく機能する仮のルールなのである。そうした仮のルールを仮設することによって、学生は次の段階に進むことができる。
 こういうことが大学では十分に意識されてこなかった。もちろん高度専門科目の前提科目に入門的な科目を置いておくというようなことはしてきたのであるが、もっとその前の前にすべきことがあったはずなのである。専門課程の先生は教養課程の先生にそれを期待しているが、じっさいの教養課程は先生たちの得意な専門性の高いことをばらばらにやっているにすぎないので、学生はけっこう混乱させられてきたのである。
 このような方針転換は、特定専門分野の研究者である教員としては、けっこうツライことである。右手だととても器用に使えるのに、あえて左手を使ってするようなところがある。ツライところを共有しながら、新しい世代の大学生たちと、とことんつきあっていこう、というのが本書の立場である。ナヴィゲーターとしての教員、全能ではない、ただしどこへ行けばいいかを知っている。それでいいのだ。
 というわけで、じつは本書はゼミを担当する教員の先生方にも向けられている。ゼミは教員と学生とが協同して初めて成立するものである。双方に語りかけていかないと、なかなか効果が上がらない。ともに模索しながらゼミを作り上げていきたいものだ。その模索の手がかりにしていただこうと企画されたのが本書である。
 本書のタイトルである「ゼミ入門」というのは、演習系授業の初歩の初歩から考え直してみたいということを示している。
 本書は「出会い編」「導入編」「問題関心編」「もうひとつの中級編」「もうひとつの上級編」の五部構成になっている。「出会い編」「導入編」は1年次の「基礎演習」「入門演習」を想定して、そこで何をどのようにすればいいのかについて論じている。これは「大学生入門」に相当する内容である。「問題関心編」は、その次の段階。これも1年次になされる場合も多いが、専門演習の最初の部分にも相当する。「もうひとつの中級編」では、いかにもゼミらしい勉強の仕方について、いくつかのアイデアを述べている。
 じっさいには、本書のメニューを一年次の一年間でこなす場合もあれば、二年次以降の専門のゼミの冒頭で一気にこなす場合もあるだろう。ケースバイケースでいいと思う。
 本書には通常の意味での「上級編」は用意されていない。おそらく多くのゼミは卒業論文あるいはゼミ論文と直結していて、それが「上級編」に相当するのであろう。しかし、論文の書き方などについては、すでに数多くの案内書があるので、それ以前のところに焦点を当てている本書では思い切って割愛した。というか、もはや卒業論文のようなアカデミックな勉強のみが大学生としての最終目標ではないというのが、私の考えである。この点についてだけ最後にかんたんに論じよう。
 本書は私なりの考えで一貫させたので、テキストやマニュアルとしてというより、「叩き台」や「メニュー」としてゼミの現場でアレンジして使っていただければ幸いである。(2014年9月20日)